第188話 大神の使い

「走れ! 早く! 早くしろ!」

「あんたが速すぎるんだよ!」

 ロルフとテオを引き連れて、ユウは来たのと同じ道を、一散に駆け戻った。

 エディン・ナイデルが、フェローにせまっている。

 恐るべき、あの大天使がだ。

 ユウにこの情報を与えたシラコは、

「俺たちには武器がない」

 とせせら笑い、部下たちに抱きかかえられるようにしてシェルターへ行ってしまった。

 地下闘技場のさらに下に、食料と水を十二分に備蓄した『悪党専用』のそれがあるらしい。

「ヒュー、おまえだけなら来てもいいぞ。おっと、そいつらはダメだ。もちろん、外で逃げまわってる一般市民様もな。おぅいおい、俺たちは神官じゃないんだ。慈善事業なんぞ、くそくらえ。そうだろう? ……お、そうか、行くのか。じゃあ、また生きて会えたら、そのときに食料をくれてやる。ああ、心配するな。おまえが残念な結果になっても、バングにはここにいたって伝えておいてやるよ。彼は勇敢でしたってな」

 ……くそ。

 確かに、バングの言うとおりだ。

 裏社会の人間に情はない。酷薄だ。

 バングの言っていた『おまえの血』、これが神官の血を指すのであれば、まったくそれで結構と言いたい。

 自分はメイサの子、カウフマンの息子だ。

 白波亭のホールまで戻ると、そこはすでにがらんとしていて、酒瓶とトランプ、そして鼻をつままずにはいられないほどの、においだけが残っていた。

 ゴロンゴロンと、鐘の音の鳴り響くストリートへ出ると、表の通りから流れてきたらしい人波が、出水のように押し寄せてきていた。

「う……」

「あ、あれが……天使!」

 東の空に見えた、翼のある異質な人影。

 いまはまだ片手で隠せるほどの大きさだが、実際の距離は、どの程度離れているのだろう。くだんの宣戦布告の際に、エディンとの対比だけは見ることができたが、それだけでは情報が足りない。

 ただ、急がなければならない。

「こ、こっちにくるぞ!」

「どうする?」

「バカ! カイのところに戻るんだ! 救世主と連絡を取るチャンスだろ!」

 ロルフとテオが駆け出したが、これはいかんせん、人波に押されてどうしようもなかった。

 ユウとモチは目と目を見かわし、N・Sを呼び出すことを決めた。

「さあ、ユウ!」

 モチに応えて指輪が輝く。

『ロルフ、テオ!』

「ああ? ……あ、ああ!」

『乗れ!』

 驚きあわてるロルフとテオをつかみ、カラスは悲鳴を上げる人々には構わず空へと飛び立った。

 カラスは飛んだ。ぐんぐん飛んだ。

 屋根をかすめて低空を進み、外門の上空へと差しかかった。

『なんでしょう』

 と、騒がしさに目をやれば、

『あ……!』

 なんということだろう。

 門から閉め出されてしまった民衆が、荒ぶる暴徒と化している。

 靴を投げる者、ビンを投げる者。

 馬車を方向転換させるために馬のくつわを引きまわしている者も多いが、この渋滞ではどうにもならない。

 しまいには、横倒しになる馬車まで出ている始末である。

 ここでもN・Sに対して、きゃあ、と悲鳴が上がったが、

『ロルフ、テオ』

「あ、ああ」

『ここで降ろす。馬車を捨てるように叫びながら戻るんだ。馬車を捨てて、あの山の裏へ走れと』

「え?」

『急げ、時間はかせぐ!』

「う、わわ!」

 ユウは、ロルフとテオを一台の幌馬車の上へ放り出し、声を張り上げた。

『馬車を捨てて逃げろ! 向こうだ! 街道を西へ行け! 山の裏まで走れ! 走れ!』

 そして、天使へ向けて進路を取った。

 途中、東側の外門でも同様に声をかけた。

『作戦は?』

『ない。とにかく……』

『行きましょう!』

『ああ、やれることをやろう!』

 遠く背後で、どよめきが、ひとつの方向へ流れていく。

 ……頼む。上手く逃げてくれ。

 天使はすでに、カラスの目の前にいた。

 いや、実際にはまだ、それでもかなりの距離をへだてていたのだが、そうして遠近感を狂わされるほど巨大なのであった。

 チェスの駒にも似た天使は歩いているのではなく、地上からわずか数十メートル上空を、すべるように近づいてきていた。

『ム……天使が!』

『なんだ……?』

 太い両腕を持ち上げて、天を仰ぎ見るような格好をしている。

 その下半身にあたる台座の影の中には、身動きの取れない多くの馬車が。

『急いでくれ、モチ!』

『駄目です、これは、とても……!』

『モチ!』

 ……ユウはこのときはじめて、エディンの大天使が、将軍機をなぞったものなのではないか、ということに思い至った。

 宣戦布告の際に見たあの天使は、『超光砲のメラク』。

 そしていま目の前にいる天使は、『氷結のアリオト』。

 そうだ。カイ・ライスもシラコも、天使は七体存在しているようだと言っていた。

 天使の台座の底、街道を屋根のように覆ったそこから噴き出した白いもやは、アリオトの出すそれよりも速く、渦を描きながら、大地を這いずるように広がった。

 馬車が、馬が、逃げ遅れた人々が……。

 あっ、と思ったときにはもう遅い。眼下には厚く、氷の層ができている。

 いままさにこの瞬間、目の前にある多くの命が生きながらにして零下の海に呑まれたのだと気づいたユウの心は、震え上がった。

 衝撃だった。

『ユウ、このまま飛びます。戦いの準備を』

『モチ……俺が、あのとき……!』

『いいえ、あなたが悪いのではありません。あのときエディンを殺しておけば天使は現れなかった、などと誰が言えるでしょう』

『それは……』

『いまは戦うべきときです。責任転嫁と言われても、憎むべきは、あの天使です!』

 後脚を氷に取られた馬が、そのとき、たてがみを振り乱して高くいなないた。

 まるで、早く行けとでも言うように。

 そして、凍りついた地面へひづめを立ててもがく間に、押し寄せた第二波の波間に消えた。

『……エディン……』

『ユウ、こちらに気づきました!』

『エディンンンッ!』


 瞳のない天使の目とその無表情が、カラスを見ていた。

 大きく大気をかき混ぜるように持ち上がった手のひらが、ぐうんと伸びてカラスをつかもうとする。モチは上手く風を読んで、その指の隙間からすり抜けた。

 ふれてはいないはずだが、ふくらはぎのあたりに、ジンという冷感が走る。凍結液放出の影響か、天使自体が冷気を発しているらしい。

『少し飛んでくれ、弱点を探す!』

『了解です』

 縦横無尽に飛びまわり、起こした風圧など物ともしないカラスは、まさに天使にとって目障りな蚊も同然であっただろう。

 天使は緩慢ではあるが、一撃必死の、重量感のある反抗をくり返して、その蚊を叩き落そうとした。一度と言わず、ふたりは痛みを感じた。

 しかし、これ以上好きにさせてなるものかという熱い闘志を共有したふたりは、死に物狂いで翼を振り、また、目をこらして弱点を探した。

 ……くそ。

 相手の、この憎たらしさときたらどうだろう。言ってはみたものの弱点が見当たらない。

 石像のようでありながら柔軟性のある肌。太刀ならばともかく、刃の鈍いバトルアックスではおそらく分が悪い。

 コクピットハッチや整備用出入り口といった本来絶対的に必要であろう侵入経路も、ただのひとつとして見つけることができなかった。

『鼻や、口は』

『駄目だ。飾りだ』

『しかし、どこかにあるはずです。これが作られたものである以上、どこかに、ほころびが……』

 このようなやりとりをしている間にも、天使は刻一刻とフェローの町へ近づいている。

 もはや悠長なことはしていられない。

『サンセットのナイフで、とにかくやってみよう』

 カラスの指がそれにかかった、そのとき。

『ユウ……!』

 天使の眉間に仕込まれた用途のよくわからない突起物に、ぽ、と、赤いランプがともった。

 まさか自爆することもないだろうが、とっさにカラスは身構える。あるいは、あの場所から液を噴き出さないとも限らない。

 天使が、胸のあたりにいるカラスを見下した。

『……なぁんだ、カラスか』

『エディン? ……エディンか!』

『そう、エディン・ナイデル。君の、友達。う、ふふ、ふふ』

 ユウは軽くめまいを覚えた。

 いくら口にしてもしたりないほどの怒りと憎しみで、かぁっと頭に血がのぼってしまったせいであるかもしれない。

 一度は復帰などとてもできないだろうというほどに痛めつけてやった男が、平然と笑い、平然と死を積み上げているのだ。またしても胸にわき起こった、この後悔の念はどうだ。

 やはり、あのときあとを追いかけて、とどめを刺しておくべきだったのだ。

『う、ふふふ、駄目だよ、カウフマン』

 天使はこう言って、無表情に笑った。

『君はこう思っているのだろう? エディン・ナイデルがこの天使に乗っていたとは好都合だ。ここで決着をつけてやる。でも無理だ』

『なに……?』

『だって、私はここにいないもの。もう、傷つけられて痛みを感じる機械も、乗りこなすために練習をくり返さなければならない機械も時代遅れだ。これからは、自律した兵器の時代だよ』

『自律……!』

 まさか、誰も乗っていないのか、この天使には。

『無差別、無感情。素晴らしいと思わないかい、カウフマン。これが正しく天罰の形だ。神の力だ!』

『黙れ!』

『神! 君の神は、いったい君に、なにをもたらしてくれる?』

 ユウはとうとう、我慢がならなくなった。

 そのけがらわしい口で神を語るな。

 おまえの人殺しの罪を、しゃあしゃあと神に着せるな。

 だが、カラスの、空における主導権を握っているのはモチである。

 モチは、ユウがどれほど暴れようとカラスを空中へ貼りつけたように固定して、天使と速度を一にしながらも微動だにさせなかった。

『エディン・ナイデル』

 発せられたその声の凄味に、ユウがぞっとした。

『はじめまして、デローシス五一二号君』

『え、確かに顔を合わせるのは、これがはじめてです。しかし、あなたの腕が飛んだ瞬間も、私は見ていた』

『……へぇ』

『あなたに、その兵器と肉体とを与えた神、それはいったい何者です。誰があなたに指示を出しているのです』

『指示?』

 またしても、エディンのうふふ笑いがはじまった。

 いまではこの声を聞くだけで、ユウは胸が悪くなる。

『人間に手足を与えた神は誰か、人間に炎と鉄を与えた神は誰か、人間に理性と思考を与えた神は誰か。白フクロウは、まるで神学者』

『では……あなたの言う、その天罰を与えるという神の名は』

『オオカミ、至高の存在』

『死者がこの世界に干渉することはありません』

『生と死こそ、その影響力に干渉することはない。神は生者? それとも死者? ねぇ、どうなのだろう、フクロウ君』

『木が芽吹くのは、神が命を与えるからではありません。良質な種と土、そして水と太陽がその結果を生むのです。あなたの言葉には、その現実が欠けている。それともあなたのその腕は、祈りに応えて自然に生えてきたとでも言うのですか』

『う、ふふ、ふ』

『もしもあなたの言うとおり、それがオオカミによる修復なのだとしたら、オオカミとは、まったくの下衆で、外道。くだらない、神気取りの愚か者としか思えません』

 モチのくり出したこの挑発に、エディンは答えなかった。

 そのかわり天使の進行が止まり、はたと気づくと、二重の市壁に守られたフェローの町が、すぐ足もとに広がっている。

 もはや街路や外門近辺に人影は見られなかったが、いったいどれだけの人間が、真に安全といえる場所へ逃げこめただろう。そうだ、レッタたちは大丈夫だろうか。

『……腐った殻を破壊し、新しき世界を』

『あ……待て! 待て、エディン!』

 そのとき目の前で持ち上がった天使の右腕。ああ、なんということだ。手のひらに巨大な噴射口が開いている。

『エディン!』

『私はね、カウフマン。君も、アレサンドロ・バッジョも、N・Sも、もうどうでもいい』

『なにを!』

 カラスは天使から離れた。

 逃げたのではない。助走をつけたのだ。

『だって、私はもう、オオカミ様を手に入れた。あとはもう、殻を破るだけ!』

 先ほどまでとは違う、見た目にも液体とわかる透明な凍結液を放った天使の腕へ向かって、小さなカラスの翼が、走った。

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