第171話 神敵(1)

 ユウの前には、マンタの残した腹の跡がある。

 右手には黒いマンムート。そこから左手奥に向かって、メリゴ・アピアナス街道。

 エディン・ナイデル率いる赤い三日月戦線の一団は、街道のさらに向こう、ちょうど先の戦いでケンベル軍が姿を見せたあたりから現れた。

 空戦用L・Jが五体。

 そして、かつても利用していた、鉄機兵団の軍用馬車が一台であった。

「彼は、いったい何体のL・Jを持っているのでしょう」

「……さあ」

「私としては、彼とこれ以上の接触を持つのは感心しません。彼は誰もが認める敵です。ホーク将軍にも、そう伝えるべきでした」

「でも、赤い三日月戦線には、エディン以外にも人がいる」

「え、私とてリーダー次第であることは否定しません。アレサンドロが望めば、我々もああなる可能性があった」

 しかし……と、モチはくちばしをもぐもぐとさせ、口をつぐんだ。

 根本的に違う、と言いたかったのだろうが、人間の善悪にこれといった定義はない。

 追従することが善か悪か、リーダーを信じることが善か悪かなど、どれほど議論を重ねようと結論は出ないのだ。

 ハサンの言うとおり、この世に正しくないことなど存在しない。つまりは、そうなるのである。

「とにかく、油断は禁物です。彼の出かた次第では、私が彼を討ち取ります」

 言いながらモチは、N・Sカラスに単身乗りこんだ。

 これは、かねて打ち合わせしておいたとおりの行動である。

『彼がこの場に現れてくれることを望みます』

「……ああ」

『ユウ?』

「ああ、大丈夫だ」

 モチは、N・Sの手から飛び降りたユウが、こちらへ向けて微笑して見せたのに驚いた。

 そして、自分の心が思っていた以上に乱れ、浮き足立っていたことに気がついた。

「モチ」

『は……』

「カラスが増えてる」

『……はい。幸い、まだこの近くにいましたので呼んでおきました。彼らはまだ、エディン・ナイデル個人に対する復讐を終えたわけではありませんので』


 赤い三日月戦線の一団が、黒土の大地をはさんだ対岸に足を止めたとき、カラスの数は以前ほどではないにせよ、数十羽を数えるまでになっていた。

 それらがN・Sの頭、肩、腕など、足の乗るかぎりすべての場所に群れ止まり、いまかいまかと、もどかしい視線を送る中。かげに隠れた軍用馬車の幌を跳ね上げて現れたのは、まぎれもなく、天使のようなあの悪魔の顔だ。

 エディンはユウに目をとめるや、にやり、ひと笑いして足を踏み出した。

 なだらかな雪の壁をすべり降り、大地の中央で足を止めたその姿は、憎らしいほどの異彩を放っていた。

『ユウ……』

「モチはここで動かずにいてくれ。カラスたちも、このままで」

『了解しました』

 ユウは剣帯に太刀を差し、ゆったりと思うさま時間をかけて、エディンのもとへ向かった。

「ひさしぶり」

「ああ」

 ふたりの会合は、このような言葉からはじまった。

「まずは、感謝を。君たちが戦艦たちを叩いてくれたおかげで、こちらも随分動きやすくなった」

「そのために俺たちを売ったのか。俺たちを、戦わせるために」

「私が? う、ふふふ、まさか。どうして?」

「聖ドルフに鉄機兵団が現れた。この場所にも先まわりをされた」

「偶然だよ、カウフマン。私は無実。なにもしていない」

「証拠は」

「ない」

 ユウは、ちく、と刺さったいらだちの棘を、引き抜いて、また刺し返してやりたい気分になったが、いまはこらえて話題を転じることにした。おそらく、怒りに塗りつぶされるのは自分のほうだ。

「それで、どうするんだ」

「どう、とは?」

「ディアナ大祭主様だ。行くのか」

「行く? いいや、行かない」

「あきらめるのか」

「いいや、あきらめもしない」

「じゃあどうする」

「どうすると思う、カウフマン?」

「……」

「う、ふふ、答えは簡単」

 エディンは視線をそらさずに、高々と、左腕を持ち上げた。

 二回三回、それを頭上で振ると、背後で待機していた三〇〇系L・Jのうち二機が、こちらへ歩み寄ってくる。

 俺を人質に取り、大祭主様をおびき出すつもりか。

 ユウはとっさに身構えたが、

「……?」

 前後に並んだそのL・Jたちは、なにやら箱のようなものを運んでいるようだ。

 ユウは鯉口に指をかけたまま、柄から手を引いた。

 L・Jが、うやうやしげに大地へ下ろしたものは、いわゆる大型のコンテナであった。

「なんだ」

「見ればわかる」

 言ったエディンはユウに背を向け、扉のボタンに暗証番号を打ちこみはじめた。

 いかにも隙だらけのその背中だが、上手いもので、L・Jの目が光っている。

「さあ、開いた」

 ユウは仕方なく、手招きに従ってコンテナの中をのぞき見た。

「こ、れは……!」

「う、ふ、ふふふ」

「エディン……!」

「おっと、危ない危ない」

 大きく飛びすさったエディンは腹をかかえ、甲高く笑った。

 再び刀の柄にかかったユウの手だが、それをひと息に五センチほど抜きかけたところで、これ以上、抜き得ない。

 換気用の小窓が左右にひとつずつあるのみの、そのコンテナ。中に収められていたのは、馬のいない馬車本体だ。

 それもただの代物ではない。

 乗合馬車をひとまわりも大きくしたそれは質素ながら手の込んだ仕立てで、堅牢な白い車体の横板に、誰もが知る金地の紋章が浮き彫りにされている。

 言わずもがな、メーテル大神殿、ディアナ大祭主専用の乗り物であった。

 自分の抵抗は、すなわちこれに乗せられたまま拉致されてきたのだろうディアナの死にも直結する。ユウはそれを察したのである。

「ふざけたことを! 約束はどうした!」

「おや、君との約束は、神殿と神官に危害を加えないこと、だろう? 私は彼女に指一本ふれてはいないよ。無論、怪我もさせていない」

「ッ……」

「さあ、カウフマン。まずは彼女を外へ連れ出すこと、それが君の仕事だ。彼女のことを思えば、ねぇ、まさか断ったりはしないだろう?」

 ユウは、きり、と唇を噛んだ。

「……わかった」

「じゃあ私は、大祭主猊下をお迎えする準備をしておく。くれぐれも丁重に、カウフマン。う、ふ、ふふ」


 ……なんて男だ。

 ユウは乱れた腹の内をどうにかして静めようと、ひとつふたつ、つば鳴りをさせて短く息をはいた。

 もしもあのときエディンから出た言葉が、

「これから、ディアナ大祭主をさらいに行く」

 だったらどうだろう。

 それを思いとどまるよう、ひとまずは説得し、応じなければ斬る。

 自分の命ひとつのことならば、話は簡単なのである。

 それが、この敗北感。

 ユウの命題は、いまやディアナ大祭主を救うことに変わってしまった。

 だが……。

 落ち着け。ユウは、刀を鞘に収めた。

 ここで、かえりみている暇はない。いまは、おのれのなすべきことをなすのみだ。

 救う。

 そして、戻る。

 ユウは踏み段に左足を乗せ、薄暗がりの中でもわかる、精緻なレリーフに飾られた扉を二度、ノックした。

「はい」

 それはまさに、聖女の声であった。

 悪心を毅然と拒む盾。善心に訴えかける、正義の剣。

「カウフマン……ヒュー・カウフマンです」

 硬く閉ざされた目隠しのカーテン越しに、空気の揺れ動く気配がした。

「どうぞ」

 ユウは、ハンドルをつかんだ。


 ふわ、と。

 えもいわれぬ芳香が、暖気とともにユウの頬にふれた。

 大祭主専用ともなると馬車は六頭立てとなる。つまり、広さだけでなくそれなりの収納量が確保できるのも道理で、そうなると自然、並の馬車にはない設備も整うことになる。

 随分昔、メイサ神殿大祭主カジャディールの馬車にも同乗させてもらったことのあるユウだが、光炉と、それを利用した空調機器が設置されていた。この車もそうであるに違いない。

 ステップをのぼると暖色に調光された光石灯の列が続き、神書の棚の向こうに、いわゆる応接間のようなスペースがある。

 その長椅子にディアナの姿を認めたユウは、カーペット張りの通路を進み、剣帯から太刀を抜くため、それに手をやった。

 ユウの前に、女がひとり立ちふさがったのも、この瞬間であった。

「ソーニャ」

 ディアナがなだめるように、その名を呼ぶ。

 しかしソーニャ随身官は、眼鏡の奥の瞳をじんわりとにじませつつもユウをにらみつけ、紅を差したこともない妙齢の唇を曲げたまま、強く首を横に振った。

「ソーニャ」

「いいえ、なりません。この男は神敵です! この男は、猊下をたばかったのです!」

「カウフマン准神官は、そのようなかたではありません」

「ですが私は見ていました。いまこの男が、剣に手をかける瞬間を。私は断固としてここを動きません。たとえ斬られ倒れようとも、私の屍が猊下をお守りいたします!」

「ソーニャ、困らせないで」

 これでは話もなにもない。

 ユウは思いきって剣帯ごと太刀をはずし、

「ひッ!」

 身体をこわばらせたソーニャ随身官に、それをぐいと押しつけた。

 そしてその場でひざを折り、随身官の神官衣越しではあるが、ディアナに対し深々と頭をたれた。

「申し訳ありませんでした」

 斬られてしまうのかと震え上がったソーニャにとって、これは意外な展開だったのだろう。

 剣帯のぶら下がった太刀を重そうにかかえたまま、息を呑んで、ひとこともない。

「ソーニャ」

「は……は、はい……!」

「これでわかったでしょう? カウフマン准神官を、こちらへ」

 今度はソーニャも、これをとめ立てしなかった。

「ひさしぶりです、カウフマン」

「はい」

 ユウは、長椅子に浅く腰をかけたディアナ大祭主の前で、再び、ひざまずいた。

 以前ふたりがまみえたのは、盗賊ヒッポが起こした誘拐事件の折であるから、あれからもう四、五ヶ月にもなるだろうか。

 血色を取り戻したディアナの、花も恥らう乙女ぶりに、ユウは驚きを隠せない。そのつややかな白髪も、そこに一層の清らかさと神秘性をそえている。

 そしてディアナもまた、よりたくましさを増した目の前の青年を見るにつけ、十八歳の若い娘らしい、ひそかな胸の高鳴りを覚えずにはいられなかった。

「本当に、ひさしぶりです」

「……はい」

「月の聖石の一件では、世話をかけました。このとおり、月の神徒全員になりかわり、感謝します」

「いえ、とんでもない」

「陛下はまだ聖石のありかを捜していらっしゃるようですが、ここから先は、どうにか私たちだけで、おいさめしようと思っています。聖石は神が使わされたもの。このグライセンのものではありませんから」

「はい」

「……ふふ」

「大祭主様?」

「あなたはやはり、私たちを救い出しに来てくれたわけではないのですね」

「あ……」

「カウフマン、私はあなたを疑いません。ですが、あなたがここに来て謝罪した以上、この件となにか関わりがあると見なければなりません」

「……はい」

「教えてもらえますか。いま、この場で起きていることの、すべてを」

 そこでユウは、つつましくそろえられたディアナのつま先から目を離せぬまま、事のあらましを包み隠さず語り聞かせた。

 赤い三日月戦線、エディン・ナイデルとの駆け引きのこと。

 その際、自分の不注意で、ディアナの名を出してしまったこと。

 そしてオオカミの生死について、エディンが情報を得たがっているということ。

「そうでしたか」

 ディアナの発した声が変わらず優しげで、ユウは、申し訳なさに胸をつかまれる思いがした。

 手袋に包まれた柔らかな手が、ユウの肩にふれた。

「実は……帝都にいた私たちを誘い出したのは、あなたの名が記された、この手紙なのです」

「見せてください」

 ユウは、目の前に差し出された、そのどこにでもあるような桃色の封筒を奪い取り、

「……あ」

 面をふせた。いかになんでも無礼に過ぎる。

「いいえ、どうぞ、見てください」

「は……失礼、します」

 ユウは封筒を開いた。

 それは、四つ折にされた透かし入りの白便箋で、そこにひとこと。

『会いたい。帝都西地区、メラ橋のたもと』

 そして、ヒュー・カウフマンの署名がされている。

 無論、自分の筆跡ではない。

 だが、その名の横に仰々しく打たれたメイサ神殿の印章。これに気づいたとき、逆上したユウの手は、便箋を握りつぶしていた。

「はかられているのかとも思いましたが、無視することもできず、カジャディール様にもご相談しようかと思ったのですが……その……」

 申し訳なさげなディアナの視線が、ユウのうしろ、ソーニャ随身官を見る。

 気を持ちなおしたソーニャは鼻息荒く、刀のこじりを床へ打ちつけた。

「当然です。カジャディール猊下のお耳だけならばよいでしょうが、余人の耳に入らないともかぎりません。聖鉄機兵団の追う罪人、それも男と密会など! ああ!」

「……ソーニャは、男のかたが、あまり得意ではないのです」

 ディアナが、こっそりささやいた。

「とにかく、私たちはその手紙に従い、メラ橋へ行きました。そこでL・Jにかこまれてしまい、このようなことに……。ソーニャが、神敵などという強い言葉を使ってしまったのもそのためです。まずは、それを謝罪します」

「げ、猊下?」

 飛び上がったソーニャが、つかみかかるようにディアナを抱き起こした。

「カウフマン。この車にはソーニャの他に、侍女がふたり、御者がふたり乗っています。皆の命は保障されますね?」

「自分が守ります。必ず」

「……わかりました。ソーニャ、マントを」

「い、いけません、猊下!」

「いいえ、行きます。あなたたちは、この馬車から離れないように。いいですね」

「う……」

 ソーニャは言葉を呑んだ。

 そして、わずかな迷いもなくそそがれる断定的な目の光に押されるようにして、多感な時期の少女のように、はらはらと落涙した。

「げ、猊下……」

「ええ、大丈夫。神が守ってくださいます。どうかよき恵みが、私たちにありますように」

「ああ、メーテルよ。あなたに最も近しい娘をお守りください」

 肩を抱き合い、母なる月女神へと祈りを捧げるふたり。

 その場をそっと離れたユウは、ソーニャの取り落とした太刀を腰に帯した。

 ふと奥に目をやると、間仕切りとして引かれたカーテンの隙間にも、忍び泣きにぬれた四人分の瞳がのぞいている。

 ユウは、額と胸にふれた。

 どうか、メイサのよき恵みが、もたらされるべき人の下へ、もたらされますように。

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