第172話 神敵(2)

「カウフマン」

 布越しにもわかるディアナの細い指が、ユウの手へ、きゅっと力をこめる。

 金糸の刺繍もきらびやかな白地のマントが、コンテナの端、三十センチほどの段差を飛び降りるのに合わせて、はためいた。

「あ……!」

「大祭主様……!」

「いいえ、大丈夫。ごめんなさい」

「まだこの先も、少しすべります」

「ええ、ありがとう」

 ディアナの履物は、冬の外歩きに不向きな、底の薄い革靴である。これもまた、今後の計算に入れておかなければならない。

 すべるだけならばまだしも、あられなどのために大地が波打ち、そのまま凍ったような場所では、先のとがった土を踏み、足を痛めるおそれもある。

「いざというときは、無礼をお許しください」

「……はい」

 ディアナの手がまた、ユウの指を握った。

 さて……。

 エディンの用意した『祭室』は、準備万端、コンテナから、およそ五十メートルの場所にセッティングされていた。

 真新しいテーブルクロスがまぶしい角机と、二脚の椅子。暖房がわりのかがり火には、すでに火がかけられている。

「ようこそ、エディン・ナイデルです」

 エディンは鼻につくうやうやしさで握手を求め、ディアナは面を硬く引きしめつつも、平然の態でそれに応じた。

「まずは、どうぞ、そちらへ」

 と、ふたりはそれぞれ、対面の椅子へ腰かけた。

 ユウはもちろん、ディアナのかたわらに立った。

「で……」

 言いさしたエディンの目が、ディアナ、ユウ、ディアナとなめるように動き、

「彼からは、大方?」

「聞きました」

「実は、大祭主猊下、我々も、あなたについて少し調べさせていただきまして」

「はい」

「手にふれたものの、過去や、未来を見ることができる……と」

「間違いありません」

「それはよかった。それで、もちろん、協力をいただける……?」

「ええ。ですが、条件があります」

「あなたと、あの馬車にいるかたたちの命の保障。それは言うまでもなく」

「このカウフマンもです」

 するとエディンは、無垢な子どもに幼稚な質問を投げかけられたとき誰もがするような、哀れみといとしさの、ないまぜになった顔つきとなり、

「神が、それを望むなら、ね」

 と、含み笑いした。

 それはユウの癇に障ったが、無論、この程度のことで刀を抜くほど愚かではない。

 小癪にもエディンは、そんなユウにも笑いかけてきた。

「では、本題に入りましょうか」

 エディンは、いつも羽織っている、一枚布に穴を開けただけの防寒着の下から、白いハンカチを取り出した。

 机の中央で開かれたその中には、やや径の小さい、金色の指輪が光っている。

 石がはめこまれているわけでもない、ただの環、という印象のそれは、目の肥えたユウが見たところ、十五フォンス。

 とはいえ思い出の品ならば、値段の問題ではない。

「これは、私がオオカミ様からいただいたものです。当時の私は、まだ子どもあつかいをされる年齢で、まぁ、このようなおもちゃがふさわしいと、あのかたも思われたのでしょう」

「……」

「どうです、あのかたは見えますか」

「いいえ」

 ディアナは、封印の手袋から抜いた指先を、一瞬、指輪にそわせただけで、すぐに引いてしまった。

「これは、あなたのものでも、オオカミというかたのものでもありません」

「……へぇ」

「近くに大きな河のある市場です。傘を立てた屋根のない店で、あなたではない誰かがこれを買いました。値段は二十フォンス。買ったかたには、右手の小指がありません」

 にやりとしたエディンの手が、ユウを、はっと身構えさせる勢いで動いたかと思うと、それは机上の指輪をつかみ取り、なんの躊躇もなく投げ捨てていた。

 わずかに顔をのぞかせた太陽の光を受け、きらり、光ったのが、その指輪の最後であった。

「さすが! お見事です」

「試したのか」

「ああ、そのとおり、カウフマン。聖女を試すのは歴史的に見ても常識だ。しかしなるほど、あなたはまさに聖乙女だ」

 エディンはうれしげに身を揺すった。

「あなたなら、あのかたのすべてを見せてくれる。私の知らない、あのかたのすべてを……!」

「……そう、上手くいくかはわかりませんが」

「いいえ、上手くいきます。本物はこれです」

 そう言ったエディンは懐へ手をやり、今度は更布に包まれた、長さ三十センチほどの品物を探り出した。

 自分の手もとに仮置きし、丁寧に更布を解きほぐし、先ほどの指輪とは比べものにならぬほどいとおしげに、大切に、差し出したもの……。

 それは、鞘のない短剣である。

 一瞥した様子では、特別意匠がこらされているわけでも、希少性が高いわけでもない。が、やや身の厚いその両刃の切っ先から、ねじりの入った柄尻にいたるまで、指紋の痕跡ひとつ見られないほど、よく手入れがされている。

 そのずっしりとした量感は誰の手にもなじむだろうことを思わせ、正直に言えば、ユウの食指も少々動いた。

「ふれても構いませんか?」

「ええ、もちろん」

 ディアナは、それが磨き上げられた刃であるということよりも、かけがえのないものであることに心を配り、手袋をはずした指を、おそるおそる柄に近づけた。

 指がふれた、瞬間。

「うっ……」

 ディアナの身体が、雷に打たれたかのごとく、こわばった。

「大祭主様」

 ユウは、前後左右に揺れはじめたその身体を抱きかかえるようにして支え、椅子からすべり落ちないよう固定する。

 きつく閉じられた目蓋。

 幾度も首を振る、その仕草。吐息。

 それらは、どれも切なげだ。

 びくり、大きく身を震わせたディアナは、糸が切れたように、倒れかかった。

「大祭主様」

「……ええ、大丈夫」

 ディアナは手袋に指を通し、与えられた水をひと口含んだ。

 汗の伝うその頬は、わずかに赤らみ、熱を持っていた。

「それで、どうでした?」

「エディン、もう少し待て」

「いいえ、いいのです、カウフマン。私は、大丈夫」

 ディアナは、気丈にもユウを押しのけるような形を見せ、エディンに目を向けた。

 こうなってはもう、ユウがどうこう言えるものではない。

「それで、オオカミ様は?」

「わかりません」

「……え?」

「わからないのです」

「そんな馬鹿な。この剣は確かに……」

「ええ。ですがオオカミというかたが姿を消されたとき、この剣はすでに、あなたの手もとにあったはずです」

 エディンは、あっ、と目をむいた。

「私は所有者の過去を追っているわけではありません。品物自身の目、そして、その瞬間の持ち主の目を借りているだけです」

「……」

「この剣を渡されたときの、あなたの顔は見えました。それからのあなたが、どれほど、この剣を大切にあつかってきたか、それも見えました」

「……う、ふふ……ふ」

「役に立てず、申し訳ないと思っています。ですが……」

「いや、もう結構。それで結構です」

 身を乗り出したエディンの指が、ディアナの、桃色の唇に当てられた。

 自分の心の柔らかい場所。それをなでまわされまいとするその顔は平常と変わりなかったが、目に異様な光が宿っている。

 ディアナのよこした不安げな視線に対し、ユウは黙って、うなずいて見せた。

 ここは相手の言うとおり、口を閉じておいたほうがいい。それはディアナにも伝わった。

「いずれ、オオカミ様ご自身のお持ち物をお持ちします。そのときは、またご協力を」

「……わかりました」

「さて、そうと決まれば」

 エディンは、ぽんと手を叩き、

「どうぞ、馬車へお戻りください」

「いいのですか?」

「もちろんです。もとの場所までお送りしましょう」

 これと聞き、やはり純真なディアナは喜んだ。

 かたわらに立つユウの腕を握り、力が抜けました、と、身振りで示して微笑んだ。

 ……だが。

 ここでこの言葉を信用していいものだろうか。

 案の定。

「カウフマンは残って」

 と、エディンは白々しく言ってのけた。

「そんな……!」

 ディアナが気色ばむ。

「約束が違います!」

「へぇ、約束?」

「カウフマンも救うと、あなたは……!」

「大祭主様」

 ここでユウが止めに入らなければ、ディアナは机を乗りこえてでも、エディンにつかみかかっていただろう。

 そう、この年若い聖乙女にこれだけの熱情がひそんでいることを、ユウはこのとき知るべきだったのである。

 しかし、それとわかる前にディアナはいったん引き下がり、ユウの胸に顔をうずめて、むせび泣きにも似た声をもらした。

 ユウは、ララよりも格段に柔らかい身体をしっかと抱きしめ、そのかぐわしい髪の香りに、不謹慎ながら一時陶然となった。

「……大祭主様、馬車へ、戻ってください」

 ディアナは、はっと顔を上げた。

 美しい、紫の瞳がぬれている。

「守りながらでは、十分に戦えません。こうなることは覚悟の上でした」

「ですが……」

「神が守ってくださる、そう言ったのは大祭主様です」

 ユウは、意地の悪い言葉だと、そう思った。

 こう告げることで、ディアナは間違いなく、おのれの言葉の浅はかさに気づくだろう。

 神は確かに大地にある、月にある、そしていま、ふたりの近くにある。

 しかしそれはやはり、人の望みとは関係のない境地にあるのだ。

 眼前にせまった剣の一撃は、誰かが身を挺して立ちふさがり、剣をもって打ち払うしかないのだ。

 では、その誰かとは、いったい誰か。

 神でも自分でもないのだと、ディアナは気づくだろう。

「お願いします、馬車へ」

「……わかりました」

 神のよい恵みが……とは、ディアナはもはや、言わなかった。

 ユウの罪悪感は、そのまま強い抱擁となって、ディアナを抱き包んだ。

「足もとに、気をつけて」

「……はい」

 ディアナは物わかりよく身を離し、神官衣のすそをつつましやかにつまんで、歩きはじめた。

 慎重に足もとを選び、一歩、二歩と進んでいくその姿に安心をし、ユウは目を離したのだが……次の瞬間。

 ディアナは、すぐそばまで寄って来ていたエディンの、胸ぐらへ組みついていた。

「逃げて! カウフマン、逃げて!」

 まさかディアナがこのような行動に出るとは夢にも思わなかっただけに、ユウは茫然自失となった。

 言うまでもなく、逃げるなどという選択肢は、頭の片隅にさえも浮かばない。

 だが、エディンはそこに抜かりなく、

「ああ、あなたは美しい」

 と、またしてもいとおしげな顔をして見せて、ディアナを軽く突き飛ばし、先ほどのものとは違うナイフを、腰から抜き払った。

「きゃあ、あ!」

「だ、大祭主様!」

 切られた。

 左腕である。

 のけぞるようにして倒れかかるその身体を抱きとめると、みるみる、神官衣が血に染まっていく。

「しっかり!」

 傷は浅いが、いかんせん、ひじから手首までと距離が長い。

 ポーチを探り、ハンカチを取り出そうとするユウの頭上から、エディンの、小馬鹿にしきった笑いが降ってきた。

「愚かだよ、カウフマン。君も、彼女も」

「黙れ!」

「う、ふ、ふ、ははは……」

 エディンはそれ以上切りかかろうとはせず、ナイフを陽にかざして喜んだ。

「……へぇ」

 エディンの胸の内に、なにやらむらむらと、抗いがたい好奇の気持ちがわき起こったのは、そのときである。

 対象となったのは、自分の手にある、そのナイフ。

 というよりも、白く輝く片刃のそれに、うっすらと残った鮮血だ。

「聖女の血……ね」

 その甘美な響きは、誰の胸をもときめかさずにはいられないだろう。

 まるで、おとぎ話の世界にでも入りこんだかのような心持ちになる。

 エディンはなんとも愉快になり、

「聖女の血を祭壇に捧げよ! ドラゴンが来るぞ、生贄だ!」

 そしてべろりと、その血をなめた。

 これでもう、自分もおとぎ話の世界の住人だ。自分はオオカミの騎士だ。

「あ、はは、ははは! ……あ、ああ!」

 突如。

 目を見開いたエディンの口から、なんともいえない悲鳴が上がった。

「あ、う、ああぁ、なんだ、なんだ、これは……!」

 顔を覆って、苦しげなうめき声をもらすエディンだが、別に、ユウとディアナがなにかをしたわけではない。ふたりは手に手を取ったまま、この異常事態から目を離せずにいる。

「あ!」

 と、顔を上げたエディンの瞳に狂喜の色が差し、今度は、むしゃぶりつくように、その舌がナイフの上を這いはじめた。

「……ああ、見える、あのかたが、見える!」

 ユウにエディンの気持ちなどわかろうはずもない。その姿が狂気をはらんでいればなおさらだ。

 しかし、『見える』『あのかたが』という、このふたつのワードは気にかかった。

 過去と未来を見通すディアナの力。その血。

 これがイコールで結ばれているとすればどうだろう。体内に取りこまれた血液が、この男に過去の甘やかなビジョンを見せているのだとしたら。

 そして、その効果が切れたとき、次に、エディンが狙うのは……。

「大祭主様、立てますか」

「え……?」

「早く、早く、走って!」

「は、はい」

「コンテナに!」

「ああ、待って。もっと、私に、あなたの血を!」

 舌と唇を真っ赤に染めたエディンが女のように叫び、つまづきながら駆け出したディアナの襟首を狙って手を伸ばす。

 そこを、片ひざついたユウが抜き打ちに、

「おおっ!」

 一刀両断。

 血がしぶいて、雪のように白い左腕が飛び上がる。

「ぎゃあああ!」

 ユウはそのまま、這いずるがごとくのディアナを抱き上げ、コンテナへ走った。

「カ、カウフマン……!」

「駄目です。目を閉じて!」

 不意に響き渡った甲高い鳴き声と羽音に振り返ると、のたうちまわるエディンの周囲にカラスたちが群がり立ち、その目鼻をつつきまわしている。

 エディンは追い払おうとして払えず、血を振りまきながら逃げまどうのみだ。その悲鳴さえ聞こえない。

 あっと、立ち止まったふたりの行く手をさえぎったのは、ランスを振り上げた三〇五式L・J。だが、横合いから現れたN・Sカラスの体当たりによって、それも大地を転がり倒れる。

『ユウ、早く』

「ああ!」

 ユウはディアナをコンテナの奥へ押しやり、その、重量のある鉄扉に手をかけた。

「カウフマン!」

「大丈夫、必ず守ります」

「私、あなたに謝らなければ……」

「それはあとに」

「カ、カウフマン! カウフマン!」

 叫びもむなしく、鉄扉が閉ざされた。ディアナはそれを幾度も叩いた。零下の壁に、血の染みた衣が張りついた。

 この鉄の壁が、そのまま生死の境となるかもしれない。それを思うと、鼓動が熱く、激しく胸をかき乱した。

「げ、猊下? 猊下!」

 ソーニャが馬車を駆け下りてくる。

 この忠実な随身官は、ディアナの傷にすぐ気づき、

「なんて男、猊下を守るといいながら!」

 と、声を荒らげた。

「やめて、ソーニャ!」

「げ、猊下?」

「あなたは冷たい人! あのかたは私たちのために命を落とすかもしれないというのに、こんな傷ひとつで!」

 ソーニャは、目を吊り上げたディアナに圧倒され、尻もちついてあとずさった。

 ディアナは、声を上げて泣き崩れた。

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