第147話 下衆
マンムートの進行速度は、例の檄文あたりから格段にのろくなった。
オットー・ケンベルの銃弾が、そしてオルカーンの砲弾が、いまにも飛びかかってくるかもしれない。
それがわかっていながら、地中や山かげに隠れ進むこともしなかった。
つまり、そうしなければ、凧やのろし、ときにはマンムートの鼻先にまで飛び出してくる元奴隷たちの合図を、見逃してしまうからである。
エディン・ナイデルの檄文は、たとえば鉄機兵団宿舎へ爆弾を投げ入れた者のような、いまだ戦う気力、体力のある同志を奮い立たせ、もう一方では、マンムートという『駆けこみ寺』の存在を、世に知らしめた。多くは、土地の有力者や行商人を介しての噂、という形でだ。
戦いには参じないと決め、その旨をマンムート全体に通達したアレサンドロだが、必死の思いで救いを求めてくる者は見すごせない。
なにか、気になる目印を見つけた場合にはすぐに停車させ、それが十五年に渡って息をひそめ続けていた仲間であった場合は、一も二もなく受け入れた。
ここ数日の間に、二号車収容の人数は、三十人ほど増えていた。
そして、この日も……。
「アレサンドロさん!」
「どうした」
「煙です。右手のほうに」
「右?」
このマンムートでは、耳になじみのない時針表現は使わない。
アレサンドロが右を見ると、サブモニターに、細くたなびく黒煙が映っている。
マンムートはすぐさま停車し、子どもを含む十二人という大人数を、簡単な聞き取り調査ののちに受け入れた。
続々と底部ハッチを駆け上がってくる笑顔を、多くの笑顔が歓迎する。その喜びの中で、
「待て」
その事件は起こったのだった。
なんと、すらり、レイピアを引き抜いたハサンが、最後尾についてスロープを上がってきた男の首もとに、切っ先を突きつけたのである。
ぎょっと目をむいたその中年男は足を止め、同じく迎えに出ていたクジャクへ、助けを求めるような視線を送った。
「どうした、ハサン」
「におうな」
「なに」
「油だ」
息を呑んだ中年男は、視線を泳がせた。
「逃亡者には不似合いな持ち物だな」
「し、知らない……」
「ではこれはなんだ?」
レイピアの先が、防寒着のすそをめくり上げる。
そこには、厳重にパッキングされた水筒がぶら下がっていた。
「こ、これは……」
「バーベキューパーティでもするつもりだったか? ん?」
「ま、待て」
「おお、待ってやる。あの子らがこの場を去るまではな」
……こんなこともあった。
その日は、大きく旗を振る男の姿がカメラに捉えられ停車したのだが、事情を聞き取りに行った若者のひとりが、息を切らせて駆け戻ってきた。
「ア、アレサンドロさん。こ、子どものほうが、死にそうで!」
「なに?」
「ま、真っ青で、とにかくきてください!」
そこでアレサンドロは、近ごろでは、ほとんど体重を預けることがなくなった松葉杖を小わきにかかえ、飛び跳ねるように外へ出た。
「ア、アレサンドロさん、こっちです、早く!」
と、手招きで呼ばれたそこには、マンムートの若者三人の他に、夫婦らしい若い男女と、その腕に抱かれた赤ん坊がいる。
小さな小さな手足は哀れなほど痩せ細り、いまにも消え入りそうなほどの浅い呼吸をくり返していた。
「貸せ」
アレサンドロは、赤ん坊を奪うように取り上げると、体温を下げないよう留意しながら、その拍動を確かめた。
「た、助かりますか」
男が言う。
「……ちゃんと治療してやればな」
「ああ、よかった。早く中に入れてください」
「早く、この子を暖かい場所に!」
「ああ……」
アレサンドロは、赤ん坊を若者のひとりに預け、一言二言指示したのちに、マンムートへと走らせた。
その青年と入れ違いに、クジャクが駆けて来るのが見えた。
「わ、私たちも……!」
と、夫婦者が言うのへ、
「いや……おまえらは、どこへなりと失せな」
「え? な、なにを言ってるんです」
「あの子は、私たちの子どもですよ!」
「冗談じゃねえ!」
ふたりは目を見開き、びくりと身体を震わせた。
「いまのを見たか? 餓死寸前だ。かさかさに干からびた口で乳を欲しがってる。なのにどうしててめえらの服は、垢のひとつも浮いちゃいねえんだ!」
「う、うっ!」
「……体よく取りつくろっちゃいるが、てめえらは飢えてねえ。親であるわけがねえだろ」
「く、くそっ!」
激昂した男の手もとにナイフが光った。女の手にはカミソリだ。
ふたりは呼吸もぴったりと、アレサンドロ目がけて刃を振り下ろす。
しかし……。
「う、ぐぅッ!」
「ぎゃあぁ!」
女はクジャクの鉄棍に腹部を打たれてうずくまり、男は、アレサンドロに腕を取られたその瞬間、叫び声を上げてのたうちまわった。骨をはずされたのだ。
「……行こうぜ、クジャク」
「いいのか」
「ああ、放っとけ」
アレサンドロは、もう、このふたりの顔さえ見たくはなかった。
たとえこのふたりが真実あの子の両親であったとしても、その関係を断ち切るだけの理由がある、と、アレサンドロは信じて疑わなかった。
そして、その後……。
幸い、赤ん坊はもらい乳をすることを得て、命を長らえた。
そして目が離せる程度に回復したところで、カルロとベラという若夫婦……これは乳のやり手であり、ホーガン投獄直後にはじめての子を死産させてしまったというふたりに預けられ、『アレサンドロ』という名をもらった。
小さな、茶色い目のアレサンドロは、いつも力いっぱいミルクを飲み、
「おっぱいがちぎれそう」
と、ベラを喜ばせた。
「……く、そ!」
「まあ、落ち着け落ち着け」
「あんたは腹が立たねえってのか!」
「なに立つとも。ここにやつの面があれば、泣きわめくまで殴りつけている」
「……チッ」
「さあ入れ。ここは目立つ」
ブリーフィングルームに突き入れられたアレサンドロは、この数日間の怒りに燃えていた。まったく、その怒りは、とどまるところを知らなかった。
無関係の、それもかつての仲間まで巻きこもうかという焼き討ち。赤ん坊に対する、人の道にもとるおこない。
その他にも、人為的と思われる工作とその痕跡はあとを絶たない。
「エディン・ナイデル! あの、下衆野郎が!」
ハサンは苦笑した。
ちなみにこのとき、まだ小アレサンドロは危険を脱したばかりで、予断を許さぬ域にいる。
「……ハサン。あんた、手はねえのか」
「手? フフン、手か」
「そういうことを言ってるんじゃねえ」
「おお、わかっているとも。しょうもない駄洒落だ」
隻腕のハサンはおどけ調子に、中身のない右そでを振りまわした。
「しかし、手とひと口に言っても、目的によってやりようが変わる。おまえが望むのは工作の妨害か? それとも……やつの死か」
「そいつは……」
「ンン、そいつは?」
「わからねえ」
アレサンドロは、心底くたびれはてた身体を椅子へ落とした。
「あいつをヤれば……うちの連中に示しがつかねえ」
それだけは、はっきりとわかる。
と言うよりも、全国の、元奴隷たちに対してそうだろう。
エディン・ナイデルがマンムートを狙うことに関しては、ある程度の大義立て、つまり、
「マンムートの者たちはN・Sを独り占めにし、自らのためだけに、その力を行使しようとしている」
などと言うことができるだろうが、こちらには、それがなかなか難しい。
しかも兵力的に見れは、圧倒的にこちらが上だ。
もし仮に、これといった理由もなしに力ある者がない者を押しつぶせば、それは虐殺と言う。
「上出来だ。いい考察だな、アレサンドロ」
「チッ、茶化してんじゃねえ」
「なにを茶化す。まったくそのとおりだ」
「だったら、こっから先の上手い進めかたを考えてくれ」
もはや怒りと気疲れとで、アレサンドロには冷静な結論を出せる自信がなかった。
「では私の意見を」
と、ハサンの手が、アレサンドロの肩に置かれた。
「エディン・ナイデルは放っておけ」
「なに?」
アレサンドロは、思わず身を乗り出した。
「あいつの好きにさせておけってのか」
「そうだ。監視についているジョーブレイカー君も引き上げさせる」
「ジョーまで?」
「なに、どうせ、いまのままでもカバーしきれんのだ。彼本来の才能を生かし、ここはマンムート周辺の目を強化する」
「そいつは……どうだかな」
「だがいいかアレサンドロ。そうして一時期耐えしのげば、必ず、やつの名が落ちる。旗をかかげた張本人がなぜ仲間割ればかりしている。早く鉄機兵団と戦え、とな」
「うう……む」
「大衆というものは一時の熱狂が過ぎれば冷静になり、期待が満足されんとわかるや、冷淡に、そして冷酷になっていく。やつを仕留めるのはそのときだ。……だが」
と、ハサンはひと息、言葉を区切って、
「ひとつ、先の読みきれん不安要素がある」
「珍しいな。なんだ?」
「魔人の参戦だ」
アレサンドロは息を呑んだ。
「これをやられれば、もうどうにもならん。再び、あの時代へと針が戻る」
「止められねえのか」
「我々には無理だ」
「じゃあどうすりゃいい」
「魔人の聡明さに期待するしかあるまい」
「……」
「フフン、そうみっともない顔をするな。可能性としてはそう高くない」
そう言ってハサンは、ここでようやく椅子を引き寄せ、座った。
「とはいえ、さて、どうしたものかな」
オルカーンとメラクに関する情報は、いまだもたらされていない。
放っておくと言っても、エディン・ナイデルの存在までもを無視できるわけではない。
「そうだ、もうひとつ防御網を張ろうか」
「もうひとつ? 神殿と海賊の他にか?」
「ンン。だが……こちらもどうかな」
目をふせたハサンは、自身に問いかけるようにつぶやいた。
そして……。
「明日の朝まで、少々時間をもらえるかな、リーダー君」
と、結論を先送りにした。
「らしくねえな。今日はどうした」
「フフン」
「やばい作戦ならごめんだぜ。いまは心配を広げたくねえ」
「いかにももっともだ。まあ、私のすることと思い、まかせてみることだな」
翌早朝。
アレサンドロは、医務室のドアをひそやかに叩く物音で、目を覚ました。
窓の外は、まだ薄暗い。
椅子に腰かけたまま、うんと伸びをし、立ち上がりぎわに赤ん坊の様子を見ると、添い寝するベラの指を握り、なんともかわいらしく、唇をもぐもぐとさせている。
ノックの主は、ブリッジ詰めであるはずの若者であった。
「どうした?」
「すみません。ハサンさんが呼んでます」
「ああ。どこにいる?」
「外です。山側の森の近くに」
「わかった。他に異常はねえな」
「はい。あ、あの赤ちゃん、大丈夫ですか」
「ああ、そろそろ、二号車にやってもいいみてえだな」
「そうですか。よかった」
「あとは頼むぜ」
「はい」
アレサンドロは若者の手からコートを受け取り、外へ出た。
「う、ふう、寒ィな……」
あわてて首のあわせを握りしめ、アレサンドロは、左足をかばいながら小走りに駆ける。
車体下から、マンムートの作った深いわだちを避けて鼻先へ出ると、空は藍色と桃色の見事なグラデーションだ。
その右手。
黒い小山のようなモミの木立を前にして、大小ふたつの影が並んでいた。
「おはよう、リーダー君」
と、この声は、もちろんハサン。
そしてもうひとりは、
「おはようございます」
「おう、ひさしぶりだな、モチ」
「え、まったく」
雪に負けず劣らず真っ白な、モチであった。
実はこのモチ、新年祭数日前から、左舷後方百二十ミリ機関砲の隙間に住まいを移し、自然環境に近い中で、フクロウらしい生活を送っていたのである。
「おかげで随分と、寝不足が解消されました」
「そりゃ結構な新年休みだったな」
アレサンドロは、ひょこひょこ近づいてきたモチを抱き上げた。
するとこれだけで、格段に温かくなった。
「しかし今度は、あなたの睡眠が足りていないようです」
「なあに、たいしたほどじゃねえさ」
「なら、いいのですが」
モチの黒々とした瞳が、ふと、森の奥へ向いた。
「来たな」
「え、来たようです」
「なにが来た?」
アレサンドロもまた、ふたりの視線を追いかけた。
……アー。
「なんだ?」
耳をそばだてる。
目をこらす。
アー、アー。
「……カラス?」
と、思う間に、木立の内包する闇が溶け出したかのような一羽のカラスが、どことなく上品な足取りで現れた。
アー。
立ち止まり、カラスが鳴く。
ボウ、ボウ。
アレサンドロの腕の中で、モチが答える。
アー。
再び鳴く。
モチは、パッと地面へ飛び降り、その、自分よりもひとまわり小さいカラスの鼻先で、大きく翼を広げて見せた。
カラスは二、三歩あとずさったが、すぐにこちらも翼を広げ、一際高く、ギャアと鳴いた。
と……そのときである。
目の前の木立全体がざわめきはじめ、何十、何百というカラスの群れが、いっせいに、空へと飛び立ったのである。
荒々しく鳴き散らすカラスの大群は、それ全体が一羽のカラスのように編隊を組み、頭上を黒く染め上げる。
女子供ならば、悲鳴を上げて逃げ出すところだが、
「フークローウ君」
ハサンは悠然と、ステッキを振りまわした。
「怒らせてはいかんな。交渉の基本は友好的にだ」
「とんでもない。私は友好的です。それをこの、生意気な若者が」
「だとしてもだ」
「ム……」
「それにしても、見事にカラスばかりだな。君は彼らだけに声をかけたのか?」
「まさか。これだけカラスが集まれば、来るものも来ない。それだけのことです」
「フフン、嫌われ者だな」
「おい、ちょっと待ってくれ。交渉ってのはなんなんだ」
アレサンドロは、カラスの群れが、どんどんとその数を増やしていることに恐怖を覚えたが、それを表に出さないよう、つとめて冷静にたずねた。
「ハサン、あんたが呼んだのか」
「まあ、そうだ。彼らにも協力願おうと思ってな」
「カラスに? なにをさせようってんだ」
「とりあえずは見張りだ。マンムートを生活圏の一部に取りこんでもらい、あやしげな人間がテリトリーを侵した場合は、威嚇し、攻撃してもらう」
「生活を、なんだって?」
激しい羽音と鳴き声で、周囲は騒々しいことこの上ない。
「フクロウ君。とにかく、彼らを落ち着かせてくれ。このままでは憤激どころか、『フン撃』をくらうぞ」
「……わかりました」
モチはトコトコと、一羽残った先ほどのカラスの前へ進み出て、今度はいかにも丁重な態度で、低く鳴いた。
アー、アー。
「……ホウ? それは、どういう?」
アー、アー。
「それは、むごいことを……」
アー。
「フム、そうでしたか」
アー。
「え、わかりました」
モチは振り向いた。
「ひどい話です」
「ふむ。……そのカラス君は、人の言葉が理解できるのかな」
「ホ、ホウ、これは、確かに。しかし、ま、そういったこともあるでしょう。カラスは特に、賢い鳥です」
カラスは、こころなしか得意げに、小さな胸を張った。
「で、そいつはなんて?」
「エディン・ナイデルです」
「なに?」
「おそらくそうでしょう。彼が言うには、線の細い、嫌な目つきの男です」
「それがどうした」
「……カラスを、殺すのだそうです」
突如、カラスのけたたましい鳴き声が、空へと響き渡った。
その沈痛なる叫びは声を継いで伝播し、まるで冬の潮騒のように、荒々しく渦を巻く。
「その男は言うそうです。あの女が、あのかたを殺した。おまえたちが憎い、憎い、と。ナイフを片手に、彼らの仲間を裂きながら、そう言うそうです」
「それで、我々の誘いに乗ったか」
「はい。彼らは、復讐を望んでいます」
「……チッ」
アレサンドロには、いまこそ、カラスたちの声が、はっきりと聞こえた気がした。
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