第124話 影と闇
「さあ、これからが忙しい」
絵柄のない、白磁のティーカップへ口をつけたハサンの横顔に、隣接する厨房から差す光が、濃い影を落としている。
いまは静まり返ったマンムートの食堂だが、明日になれば数十人の男女がこちらへ移り、昼も夜もないにぎやかさで埋めつくされることだろう。
その、最後の安息日を楽しむかのように、ハサンはゆっくりと紅茶を味わった。
「ン、ン、ン」
安物の茶葉ながら、ハサンは値段にこだわるだけの自称美食家ではない。入れかたによって十分に楽しむすべを知っている。
長机をはさんで対面する席にクジャクがいるが、こちらはただその表面に揺れる波紋を見つめるのみで、カップに手をつけようとはしなかった。
「……君は知っていたな。今回の建国話を」
「ああ。デューイ・ホーキンス、あの男をしりぞけたあとだ」
「では、その上で同行を決めた……フフン、酔狂なことだ」
カップを置いたハサンの手が、そのまま、机に乗った菓子皿に伸びた。
といっても、それはソーサーに紙を敷いただけのもので、数粒のゼリーが形よく盛られている。
子どもがいるという情報を聞きつけた女海賊ソブリンが、せめてものこころざし、と、山のように持たせてよこした菓子だった。
「ふむ、なるほど悪くない」
と、鼻を鳴らすハサンに対して、
「アルデン聖王国とやらには、その菓子はなかったようだな」
クジャクは、そっぽを向いて言った。
「ンッフフフ、機嫌が悪いな、クジャク君。それほど気になるか。なぜ、やつらが我々の正確な位置をつかめていたか……」
「おまえは気にならんと言うのか」
「ならんな。大方の目星はついている」
「なに……ならばなぜ黙っていた」
先ほど、医務室へ戻るアレサンドロから同様の質問を受けたハサンは、あの地下洞窟の存在を知られている可能性をにおわせながらも、
「いかに私の目でも、帝都は遠すぎる」
などと、回答を先送りにしていたのだ。
「俺たちをコケにしているのか……」
「そうではない。現に、君にだけは打ち明けておこうと、こうして場をもうけた」
「なぜ、俺に」
本来ならば、アレサンドロにこそ、すじというものではないのか。
「やつには少々刺激が強すぎる」
「なに……?」
「いや……聞けばわかるということだ」
ハサンは口をしめらせるように、いま一度、カップを唇へと運んだ。
「さて、まずこれだけは確実に言える。ここにいる者たちの中には、裏切り者はいない」
なぜならば、追跡されているのは助けられたブルーノたちではなく、助けたこちら側であると考えられるからだ。
いままで幾度もあった、バイパーやシュナイデの襲撃しかり。ホーガン島にしても、いつ起こるとも知れない襲撃にそなえ、出ることのかなわぬ永久監獄に間者をひそませるとはなかなか考えづらい。
加えてハサンは本人が知らない間に『運び屋』となっていることも考慮し、四百人すべてに対して発信機探知をおこなわせたが、
「結果は全員が白」
「そんなことはわかっている。はじめからな」
「そう、ではなぜやつらは、正確すぎる時と場所とで我々を襲い得たか。答えは……これではないかな」
ハサンは、いらだちを隠しきれない様子でにらみつけるクジャクへ、左手の甲を立てて見せた。
そこに輝くのは、
「指輪……?」
「N・Sと、正式な持ち主である君たちとは魂がつながっている……そうだな?」
クジャクの美貌から、血の気が引いた。
「もうひとつの身体、たとえば君ならばどうだ。君のN・Sを、そう、仮にそのピアスの状態でシュワブへ運んだとしよう。なにが、どこまでわかる」
「それは……」
「正確な場所と、N・Sの状態。そのくらいは感じられるのではないかな?」
「だが……だが、そんな馬鹿な。では、おまえは誰がそうだと言うのだ」
「さてな。だが私の経験上、『歴史から姿を消したと思われている人物』ほどあやしい。その消しかたが劇的であればあるほど、正しいと思われていればいるほどな」
「馬鹿な……!」
「聞けばカラスとオオカミ、二体のN・Sを拾った数日後。すでに砦跡の発掘作業をあきらめ、事務的な巡回のみをおこなっていたはずの鉄機兵団が、突如飛行型L・Jで現れたそうだ。そのとき連中の言った言葉が、『おい、ここじゃないか』。いったい、誰に指示を受けてきた?」
クジャクの眉が、ふるふると震えている。
「当時、目も当てられぬほど損傷していたというN・Sが、アレサンドロの修理によって息を吹き返した。つまり仮死状態から目覚めたわけだ。持ち主である魔人は、当然それを感じ取った……。だがいいか、クジャク君」
ハサンは、やや興奮した面持ちで拳を握りしめた。
「重要視すべきは『なぜそのような行為に至ったか』ではない。『どこから事件ははじまったか』だ」
……ああ。
声にならない叫びが、浅い呼吸をくり返す唇から絞り出されている。
なにを見せているのか、目には内部映写式の無骨なゴーグルを装着し、ぴくりぴくりと痙攣する手足は、鋼のかせによって椅子に拘束されている。
いや、そればかりではない。
うなだれた後頭部、盆の窪のあたりには、なんと直接、プラグにも似た突起が挿入されているようだ。
誰もが視線をそそがずにいられない、甘い芳香さえただようような娘の白い首すじから、玉の汗がひとすじ、薄水色の実験着へ吸いこまれていった。
「手を入れすぎては使い物にならなくなるぞ」
「……」
「フフ、ただの人形になるも一興か」
血眼になってモニターを凝視する老博士を捨て置き、黒い鎧の鉄仮面は、わきの椅子へと腰を下ろした。
ゆったりと周囲を見渡しつつ、ため息ひとつ。
雑然と言おうか、混沌と言おうか。
すでに一時間にも渡って処置を受け続けているシュナイデと、その周囲はまだよし。からまり合うコードや機器、モニター、書籍が所せましと積み上げられ、壁さえも見えない部屋である。
そこは、帝都の地下研究室。宮廷博士スダレフの研究室だった。
「スダレフ」
楽しげな鉄仮面の声に引かれ、痛々しく片腕を吊ったスダレフは、わずかに不機嫌な顔を動かした。
「生きた脳に一度芽生えた自我。それこそ丸ごと取りかえるでもないかぎり、消し去ることはなかなか難しい。複雑怪奇な人間の脳に勝る機械など、そうないのだからな」
言いながら鉄仮面は、悠々と座席のリクライニングを倒している。
「ならば、その大容量の器を上手く使えばいい。幸いその娘、おまえの命令には忠実だ。人間を救ったと言うが、殺せとも命令を受けていなかっただけのこと」
「はあ……」
「わからんか? 記憶媒体だ。おまえが唯一、のぞいてみたいデータはどこにある」
「あ……あーあ、なるほど……ううむ、なるほど」
スダレフはひと声うなり、ようやく、にたりと笑ってみせた。
「これはまったく、私としたことが。脳の替えがきかんなら、どうせ廃棄は決まったようなもの。損はなしというわけで、ヒ、ヒヒ」
「フフフ」
「さて、そうと決まれば……」
言うが早いかスダレフの手が、シュナイデのゴーグルをむしり取った。
現れた半眼の瞳は視点定まらず、上下左右と、ひどく機械的な動きで揺れている。
「シュナイデ」
「はい、博士」
その、明らかに尋常ではない様子からは想像もできないほど明瞭に、シュナイデは答えた。
「お茶を入れて差し上げろ。いますぐにだ」
「はい」
「急げ」
拘束を解かれたシュナイデは、先ほど耳に入れただろう廃棄という言葉も意に介さぬ顔で、平然と研究室をあとにした。
「持たざる娘か……。フ、フフ、まあ、なまじな感情を持つよりはいい。こちらも尻ぬぐいをさせられずにすむ」
「ほぉう、またですか」
「まただ。今度はケンベルに位置情報をもらしたらしい」
「それはそれは」
「まったくどうにも困ったものだ。いま、彼を失っては、すべてが振り出しに戻ってしまうというのにな」
「では……あちらも調整を?」
問われた鉄仮面は、わずかに沈黙した。
「……いや、あいつはあれでいい。身体に虫が這っていれば、誰でもつぶしたくなる。起き抜けならば、なおさらな」
「左様で……」
「あちらはいずれ落ち着くとして、おまえもしばらくは、帝都でなりをひそめていることだ。データの収集を続け、おとなしくな。さもなくば……次は腕だけではすまされんぞ?」
「う……」
「ハ、ハ、ハハハハ!」
「……笑い事ではないぞ、ハサン」
「ンッフフフ、いかにもな。だが悩んだところで、事実は常に明快な形をもってそこに存在する。丸が四角になることはない。四角に見えるとすれば、それは目が曇っているせいだ」
「俺が、やつを信じすぎたせいだと?」
「そう思わせようとしたやつの手腕が、君を上まわっていただけのことだ」
「……く」
「だが……そう、これは我々にとっても好都合な事実かもしれん。いや、八割方そうであると私は見ている」
「……俺たちの戦いに、大義を持たせるためにか」
「そうではない。国取りの後押しするのは、なにも武力だけではないということだ」
にやり笑ったハサンの指が、自身のこめかみを、とんとんと叩いた。
「しかし、ラッツィンガーめはどうされますので。なんでも他の将軍ばかりか、元老院にまで手をまわしはじめたとか……」
「案ずるな。所詮、崇敬する皇帝陛下のひとことで片はつく。やつらがどれほど吠えようと、すべての切り札は我々の手の中だ」
「ふむ……」
「あとは時を待てばいい」
「お待たせしました」
実験着のままのシュナイデが、カートを押して戻ってきた。
ティーコジーをかぶせたポット。そしてカップ、ミルク、砂糖壷。
「ミルクと砂糖は」
「結構だ」
「はい」
シュナイデは、絵画の貴婦人のような、つつましやかな手つきで、カップに紅茶をそそいだ。
「ふむ……」
ふわりと立った華やかな香りに、鉄仮面の、甲冑に鎧われた胸が上下する。
こちらは、至極上等な茶葉であるようだ。
「どうぞ」
「ああ、待て」
差し出されたカップを制した手が、ついに、仮面にかかった。
次の瞬間広がり落ちたのは、絹糸のようになめらかで、月光をつむぎ出したかのような輝き。
薄よごれた天井の蛍光灯などではなく、こちらが部屋を照らしているのではないか。そう思えるほど美しい、ゆるくウェーブのかかった白銀の髪であった。
青灰色の眼をしたその男は、長い髪を首を揺すって払い、よく通る声でこう言った。
「フフ、そうだ……あとは彼らの働きにかかっている」
赤いゼリーを厨房の光に透かし、ハサンは言った。
「やつの弄した策の数々が、いずれ、我ら建国の道となるだろう」
『そう……ここが、我々の夢のはじまりだ』
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