第35話 家族
「あの子とはじめて会ったのは、二十年近くも前になるが……」
医師ウォレン・ストーン。本性を魔人ジャッカルというこの男は、椅子に腰かけ、居住まいを正すと語りはじめた。
二十年前といえば、戦前。
魔人と人間との確執が、まだそれほど表に現れていなかったころの話である。
当時、医師として帝国内を経めぐり歩いていたジャッカルは、あるとき、飢えで倒れた、ひとりの少年を拾った。
身に着けているものは薄よごれていたが、同年代の子に比べれば肉づきもよく、ジャッカルにはこれが、身分の高い家の子どもであることがすぐにわかった。
しかし少年はジャッカルがどれほど諭そうと、アレサンドロという名前以外、語ろうとしない。
家に戻ることを、かたくなに拒む。
捨ててもおけず、仕方なくジャッカルは、アレサンドロを連れて歩くことにした。
「とはいえ私も、子どもを育てるのははじめてのことだったのでね、はじめのうちは、なかなか上手く接することができなかった。まあ、それでも……」
しばらくたつとアレサンドロは、見よう見まねでジャッカルの手伝いをするようになり、もともと素質もあったのか、簡単な術式や治療ならば、ひとりでこなせるようになった。
さらにはそれが自信になったのかして、無愛想だった顔に、表情が表れるようになったのもこのころだ。
そこで、アレサンドロの世界や見識をより深めさせるために、ジャッカルが預けたのが、あの、オオカミの砦だったのである。
「それからは、随分と笑うようになって、やれやれ、これでひと安心と思っていたところに、あの戦だろう。いまでもあの子の心の内には、人間に対する不信が少なからず残っている……と、私は、思っていたのだが、ふふ、そうではなかったのだなあ」
ララが、ユウのすそを引いた。
「実のところ我々は、アレサンドロにも、各地の砦に救いを求め集まった者たちにも、いずれ世情が落ち着けば、以前の場所へ戻るようすすめるつもりだった。人間の何倍もの寿命を与えられた我々と彼らとでは、やはり住むべき世界も違うのだ。悲しいことだが、人間は、人間の世界でのみ幸せになれる。君たちのような友人がいれば、あの子はきっと、自分の生きるべき世界で、もっと幸せになれる……」
「俺は、そうは思わねえな」
「!」
見れば、鉢を持ったアレサンドロが、背を壁に預けて立っていた。
「あのとき、あそこにいた連中はみんな思ってたぜ。ここが一番だ。ここが死に場所だ、ってな。十分、幸せに生きてた」
「アレサンドロ……」
「それを勝手に奪い取っていったのは、帝国の、人間だ」
「やめなさい」
「もし選ぶ権利があるってんなら、俺は迷わず、こんな人間の世界なんかじゃねえ、あんたたち魔人の世界を選ぶ」
「だが、おまえは人間だ。人間なのだ、アレサンドロ」
「だから、なんだ!」
鉢が机に叩きつけられた。
と、同時に。
その左中指におさまった指輪も、ジャッカルの目にとまった。
「それは……!」
「……オオカミだ」
ジャッカルが息を呑んだ。
「カラスも見つけた」
言われたジャッカルの、なんともうらめしげな視線がヤマカガシにそそがれる。
そして、
「……ああ、なんという因果だ。なんという……」
降り出した雨にかき消されるほどのか細いうめきをもらし、ジャッカルは、深く深く、うなだれてしまったのであった。
「……アレサンドロ」
悄然と、ジャッカルが言った。
「おまえは、そのN・Sで、いったいなにをしようというのだ」
押し黙ったアレサンドロはただ眉を寄せて、固く、拳を握りしめている。
「答えなさい」
ユウもまた息を詰め、次の言葉を待った。
そして……。
「ああ、そうだ……」
絞り出すように、アレサンドロは言った。
「俺はこいつで、帝国を、つぶしてやりてえと思ってる。あんたたちの作ったN・Sが、ガラクタなんかじゃねえと、そう証明してやりてえと思ってる……」
「やはり、そうか……」
ジャッカルは泣き声を出して、顔を覆った。
「やめてくれ、仇討ちなど。死ににいくようなものだ」
「それならそれでいい。俺も、カラスとオオカミを殺した。裁かれて当然だ」
「まだ、そんなことを言っているのか」
「じゃあ、どうすりゃいい。教えてくれ先生。俺をどうしてえんだ」
ジャッカルは手を差し出して、
「その指輪をよこしなさい。そしてもう二度と、ここへ来てはいけない。それが、おまえのためだ」
アレサンドロの答えは、決まりきっていた。
「……できねえ、できるわけがねえ……ッ」
「アレサンドロ」
「もう消せねえんだ! この入れ墨も! 思い出も! 傷も! だったら、全部背負って生きてくしかねえだろ!」
そして、なおもあふれ出る想いを抑えつけるかのように唇を噛みしめ、降りしきる雨の中、飛び出していってしまったのだった。
それから、数刻ののち……。
あとを追ったユウは、小川にかかる板橋の上に、アレサンドロの姿を見出した。
うずくまり、雨に打たれるまま首をたれたその顔には、じっとりとぬれた髪が張りついている。
その隣に、ユウもまた腰を下ろした。
「……ユウ」
一瞥もくれずに、アレサンドロが言った。
「おまえを、だましたわけじゃねえ。あのときは本当に、N・Sを眠らせてやりてえと思ってた。ついさっきまで、そのつもりだった」
「ああ……わかってる」
「でもよ、俺はやっぱり、手放したくねえんだ。うらみも、忘れることはできねえんだ」
「ああ」
「俺に、その力も、資格もねえってことはわかってる。あいつらの遺したN・Sを、手前勝手な復讐に使っていいはずねえってのも、先生が、俺を心配してくれてる気持ちもわかってる。それでも、俺は……」
深く、ため息をはく。
「俺はもう、自分でもどうしてえのか、わからなくなっちまった……」
遠くで、小さく雷が鳴った。
「なあ、アレサンドロ」
ユウは、極力明るく声を作った。
「アルケイディアに行こう」
アレサンドロは答えない。
「俺も昔、よく言われた。悩んだときは動け。悩む前に動け。悩んでいいのは……」
言いさして、ふ、と、笑う。
「いや……。だから、とにかく行こう」
アレサンドロは薄目を開け、ちらりとユウを見たが、特に追及はしなかった。
「アルケイディアに着いて、それでもまだ、やり残したことがあると思うなら、そのときこそ戻ってくればいい。俺は、とことん付き合う」
「俺が……帝国との殺し合いを望んでもか」
「ああ」
ユウは即座に答えた。
「ふたりなら、帝国にだってそうそう負けはしないさ」
すると、
「三人です」
いつの間にやら、ユウの背後の欄干に、ずぶぬれのモチが止まっている。
「ユウ、これはまったく水くさい話です。私も行きます。たとえそれが、皇帝の鼻先であっても。……もっとも」
モチは翼を羽ばたかせ、水を払った。
「私を『ひとり』と数えるかどうかは、疑問ですが」
そこへ、さらに、
「ユーウー!」
雨コートを羽織ったララが、足を引き引き、駆けてきた。
「やぁっと見つけた。あ、アレサンドロも。じゃあ、早く帰ろうよぉ。もう、風邪引きそう」
「……」
「……なに?」
「……台無しだ」
しかし視線を落とすと、ララは足の治療もそこそこに追いかけてきたらしい。足首に巻かれた包帯がほどけかかっている。
これはこれで心配していたのかもしれないと思うと、ユウはひとりで帰れ、とも言えなくなってしまった。
「おそらく、この子は駄目と言ってもついてくるのでしょう」
モチが言う。
「え? え? どこに?」
「四人です」
「……ハ」
「ねぇ、だから、なにがぁ?」
翌朝は、嘘のような快晴となった。
「これを持っていくといい。薬と、道具を少し、まとめておいた。N・Sの修理にも使えるだろう」
と、ジャッカルは少し気まずそうに布袋を差し出し、アレサンドロも、それを無言で受け取った。
「西海は遠い。気をつけて、行きなさい」
「ああ」
昨晩からいままで、ふたりは目も合わせられずにいる。
「アレサンドロ、その……私は……」
もじもじと身をよじり、ジャッカルがなにか言いかけたが、
「なあ、先生」
「な、なんだ?」
「戻ったら一度、顔見せに来る。それくらいはいいだろ?」
「アレサンドロ……!」
ジャッカルは矢も盾もたまらずというように、アレサンドロを抱きしめた。
「私は……私はなんということを、おまえに……」
声を震わせたその細い目に、涙が光る。
「ああ、ああ、なにが悪いものか! おまえは私の息子だ。いつでも、何度でも帰っておいで」
「先生……ありがとう」
「わ、私こそ、私こそだ……、ありがとう……ありがとう……」
ひしと抱き合うふたりの姿に、ユウとモチは顔を見かわして、うなずき合った。
かたわらに立つヤマカガシの大きな瞳からも、大粒の涙がこぼれ落ちていた。
「……じゃあ、もう行くぜ、先生」
「うむ、うむ……。ヤマカガシのことは心配しなくていい。しばらくはここで、ともに暮らすつもりだ」
「わかった。ヤマカガシも、元気でな」
しゃくり上げながらヤマカガシは、アレサンドロやユウたちと抱き合い、また涙した。
「そちらの友人たちも気をつけて。どうか、この子を支えてやってください」
さざ波立つ水たまりに、陽の光がきらめいている。
差しかかった曲がり角で振り返ると、ジャッカルとヤマカガシが、まだ、大きく手を振っている姿が見えた。
「いいなぁ、家族かぁ」
背負われたララが腕を伸ばし、しみじみと言った。
赤い髪が風に吹かれ、青空へ、ふわりと舞い上がった。
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