逃亡 ーユウの過去編ー
第36話 最ッ低!
「ね、飴買ってきてもいい?」
先を跳ねるように行くララが、振り返った。
ユウに背負われることを喜んでいたララでも、ようやく不自由なく歩けるようになったことは、やはりうれしいらしい。
今朝から笑顔が絶えない。
「好きにしな」
アレサンドロが答えると、
「やった!」
と、走り出した。
「派手に動くなよ!」
「わかってるって!」
「西門集合だ!」
ララは大きく手を振って、人ごみの中に消えていった。
ここはウィンザー地方、治領都市ウィンザー。
治めるのは、領主にして帝国七将軍筆頭、ジークベルト・ラッツィンガーである。
とはいえ、将軍としての責務をかかえるラッツィンガー自身が、この地にいることは滅多にない。
おかげでこうしてユウたちも、若干の余裕を持って街を歩きまわることができるわけだ。
無論、当座の食料を調達できれば、いつもどおり街を抜け、野宿するつもりでいる。
「大丈夫なのか? ひとりでやって」
言いながらユウは、胸に抱いたモチをかかえなおした。
モチは、例によって寝ている。
「心配か?」
「……そういう意味じゃない」
「また、そうツンケンすんな。女に好かれんのは悪い気分じゃねえだろ?」
「俺はもっと……静かな女が、好きだ」
「へえ」
アレサンドロが、にやりと笑った。
「おまえでも、女の好み、なんてもんがあるのか」
「当たり前だ」
「言っとくが、明るく優しく、つつましやかで家庭的、なんてのは『好み』じゃねえ。男全員が持ってる、ただの『理想像』だぜ」
「……悪かったな」
「プ、ハハ、ハ」
門が閉まるまで、まだ時間がある。天気もいい。
もう少し、のんびりしていこう。
ララは噴水のふちに腰かけ、買ったばかりの紙包みから、キャンディ・バーを一本取り出した。
「あ、レモン」
しゃぶると、とろりとした甘酸っぱさが、口いっぱいに広がる。
隣では、飴売りの手まわしオルガンが、新しい曲を奏ではじめていた。
「……なんだっけ、この歌」
有名な童謡。
頭をひねるが、名前だけが一向に思い出せない。
「……まいっか」
巻き上げられ、送り出されていくオルガンの譜面を、ララはそのまま、飽きることもなくながめ続けた。
一曲目が終わり、二曲目が終わり……。
そうして、ふと気がつくと、
「あっ!」
空が茜色に変わっている。
「いっけない!」
外門は、日の入りとともに閉鎖されるのが決まりである。
すでに、ユウたちは待っているに違いない。
ララはひょいと立ち上がり、紙包みを胸に駆け出した。
と……。
「お許しくださいませ! どうか、どうか!」
耳をつんざく女の叫び声に、ララは思わず足を止めた。
見ると、騎士三騎の前に、転がった水おけと、町娘がひれふしている。
「貴様! ジラルド様のご乗馬に水を跳ねるとは何事か!」
「下民風情が!」
居丈高な、従者らしき騎士ふたりに言葉きたなく罵られ、
「も、申し訳ございません! 申し訳……ッ!」
娘は泣き崩れ、もはや半狂乱の態だ。
「またか……」
「自分でおけを倒しておいて……」
そうした人々のささやきも、入るともなしに耳に入ってくる。
ララは、なんとも言えぬ嫌な気分になった。
そこに、
「おい、おまえたち」
鼻につくねばり声で、主らしき騎士が、言った。
顔こそ夕暮れの逆光に黒く覆われているものの、その倣岸な態度は、ララのよく知る貴族、そのものである。
その貴族はなんと、
「馬の足をけがした罰だ。足を切り落としてやれ」
などと言うではないか。
振り向き、にたりと笑った従騎士のおぞましいつらに、
「ひ……ッ!」
娘は激しくかぶりを振り、地を這うように逃げ出した。
「た、助けて……! 助けて……!」
しかし、それまで哀れみの目をもって様子をうかがっていた領民たちも、引き潮のごとく、その場から離れていく。
救いを求める指先は、むなしく、空をかきまわした。
「クク、ク、無駄だ、無駄だ」
馬を降りた従騎士は娘の襟首をつかみ、主の前へ引き立てると、
「ほぅら、立て」
ひとりが、その身体を羽交い締めにした。
娘のひざが、歯の根が、がたがたと震えている。
重たげに抜かれた剣が、ゆっくり、持ち上がり、
「いやぁあぁぁッ!」
娘が絶叫した。
そのときである。
「な、なんだ、貴様!」
つかつかと歩み寄ってきた赤毛の少女に、騎士たちは驚いた。
まさか、止めに入る者がいるとは。
と、思うと突然、その少女は剣を抜いた騎士の顔面に、ためらいもなく紙包みを叩きつけ、
「ちょっと、あんた!」
と、言い放った。
ララの剣幕に、貴族を乗せた白馬が数歩、あとずさった。
近くで見ると、貴族は二十代の、なるほどやはり、下品な面構えである。
「馬の足をよごしたくなかったら、靴でも履かせれば?」
「なに?」
「かわりに足切るなんて、意味わかんない!」
「このっ!」
呆気に取られていた従騎士ふたりがつかみかかり、なんの対抗策も持たないララは、簡単に拘束されてしまった。
噛みつくようなララの視線に、見守る群衆が、皆、目をそらす。
最低、最低! あんたたち、みんな……!
「最ッ低!」
「ッ……、無礼者!」
乗馬用の鞭が、したたかに、ララの頬を打った。
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