第5話 赤い月

 ユウはおぼつかない足取りでタオルを川にひたし、おそるおそる口もとに当てた。

「……ッ!」

 もうしばらくは、なにを口に入れても血の味しかしないだろう。

「ちっ、くしょう……」

 横たわり、同じように顔を覆ったアレサンドロも、低くうめいた。

 ふたりが息も絶え絶えにへたりこんだのは、あれから、三十分もあとのことである。

 唇も目も、いまでは見るも無惨に腫れ上がり、身体中いたるところに痛々しい大アザができている。

「……ちくしょう……痛えな……」

 アレサンドロが再び、今度は自分に言い聞かせるように、うなった。

「……なあ、ユウ……」

「うん……?」

 切れた唇のせいで、出る声はどこか間が抜けている。

「意地ってのは……なんの意地だ?」

「?」

「あれを、N・Sを見つけたって意地か? それとも……」

「あんたの……相棒としての意地だ。……たぶん」

 金にこだわる気持ちも、ないと言えば、嘘になる。

 だがそれ以上に、いつまでも腹を割ろうとしないこの男へのいらだちや失望が大きかったのは確かだ。

 それだけ、ユウの信頼は固かったのだ。

 しかし、

「相棒、か……」

 くぐもった笑いが、タオルの下からこぼれた。

「おまえの言葉は素直すぎて、聞いてるこっちが恥ずかしくなるな」

「……茶化すな」

「そんなつもりはねえさ」

 ほめてるんだぜ、アレサンドロは言った。

「そう、馬鹿正直でまっすぐで、頭も経験も足りねえくせに前に出たがってよ。空まわりしてるのにも気づかねえ……」

 ぽつり、ぽつりと言葉が続く。

「昔の俺がそうだった」

 アレサンドロはそこで、それまで決して解こうとしなかった左腕の包帯を取り去った。

「見えるか?」

 かかげたのは、日に焼けそこなった肌と、赤黒くくすんだ入れ墨。

 ユウは目を見張った。

「見たことくらいあるだろ」

 確かにその印を知っている。そして、その意味するところも。

「魔人の……!」

「ああ」

 アレサンドロは静かに半身を起こした。

「俺は……こっち側の人間だったのさ」

 ユウは、唖然とした。

 その『赤い三日月』の入れ墨こそ、魔人の奴隷だった証なのである。

 それは魔人に魅入られ、身も心も捧げた狂信者。

 労働、戦闘。魔人のためならば、彼らはどのような酷使にも応え、どのような死でも受け入れたという。

 大戦では、実に万にもおよぶ奴隷たちが、先兵として命を落としたのだ。

「なんて言われてるがな……」

 アレサンドロは包帯を丸め、投げ捨てた。

「俺たちは、奴隷とは違う」

「え?」

「帝国だ。この国が自分たちの戦争を正当化するために、俺たちに奴隷のレッテルを貼った。魔人の悪らつぶりのアピールと……俺たちを殺す言い訳にな」

「待ってくれ。どうして、あんたたちまで……」

「簡単なことさ。俺たちは難民だった」

「難民?」

「ああ。あのころはどこも、ひどかった。なにを作ろうと全部搾り取られ、文句のひとつでも口にのぼせようもんなら縛り首だ。みんな、魔人を頼って逃げるしかなかった」

「それが、気に入らなかった……」

「くさいものに蓋。してみれば、十五年前の戦は、俺たちこそが標的だったのかもしれねえな。そうでなくても、一石二鳥だ」

『協力者』や『難民』では、帝国の内情が悪いと、外の国へ知らしめるようなもの。

 だからこその『奴隷』か。

 ユウは唇を噛んだ。

 勝てば官軍とはいえ、この国のなんと醜いことか。

 ……いや。

 この国の非情さなど、自分とて百も承知していたはずだ。

 で、ありながら、真実をゆがめて当然のごとく受け入れていたのは、やはりそれが他人事だったからに他ならない。

 ユウは歯噛みして自分を恥じた。

「誰だってそんなもんさ。多少疑問が残っても、時間がそれを押し流す」

 ただ……と、アレサンドロは言葉をつなぎ、

「魔人の下で、俺たちはなにも強いられちゃいなかった。俺たちは自由だった。好きであいつらと生き、あいつらのために戦った。こいつも……」

 左腕の入れ墨を、いとおしげにさする。

「遊び……みてえなもんだった。仲間意識ってのか、こんなちょっとしたことでも、あいつらに近づけた感じでよ。みんな喜んでやってたぜ」

 ……幸せそうな笑みだった。

「それだけが真実だ。俺にとってはな」

「そうか……」

 ユウは、疑問が晴れたような気がした。

 騎士団の巡回に過剰な反応を見せたのは、奴隷と知れれば否応なく収容所送りとなるため。

 N・Sについても、かつての仲間を帝国に売られるようなものだ。いい気はしないだろう。

 だが、しかし。

 事はユウが考えるほど単純ではなかったのだ。

「……でもよ」

 ふ、と、月が隠れ、あたりが薄闇に包まれた。

「俺が全部壊した」

「え……?」

「俺が、殺したんだ……」

 アレサンドロの声に、いまは深い悲しみが満ちている。

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