グラスとケース

 ガチャ、と冷たい鉄の音だ。扉が開く。マンションの高層階なんか初めて訪ねたから少し緊張している。


「お邪魔しまーす」


「ちょっ、勝手に入るな」


「お客さんが先でしょ」


「誰がお客さんだ……?」


 彼はそう言いながら内側から施錠した。呆れた顔の葵くんも可愛い──思いかけてから部屋の淀んだ空気に気付いた。


「?」


 思わず眉間に皺を寄せた俺に、彼は純粋な疑問の顔を向けた。この淀みをむしろ、好んでいるかのように見えてしまった。


 革靴を脱いで、冷えた床に足を付ける。何も置かれていない真っ直ぐな廊下を抜けると、リビングへと続いていた。長い廊下を進んでいくと、徐々に淀んだ空気が濃くなっていく。灰色に包まれている気がする。

 直感で触れた壁際のスイッチは、広いリビングを薄暗く照らした。どうしてこんなライトを選んだのかと問い詰めたくなる。


「暗すぎ」


 思わず零した言葉は彼に届かない。見渡すと、洒落たアイランドキッチンに大きな灰皿が置いてある。扉も窓も締め切られた部屋にいつかの残り香が漂っているのを感じる。



 ──煙草、吸うんだ。



 ようやく淀んだ空気の汚染源が分かり、少しほっとする。それでも自分が喫煙者でないだけに、清潔感のある部屋に堂々とあるそれがとても荒んだものであるように思えた。

 中央に大きく佇む透明なテーブルに、グラスと錠剤の入ったケースが置いてある。



 ──!



「散らかってるね、ごめん」


 いつの間にか目の前に現れた部屋の主は、グラスとケースを手早く回収する。他にもいくつか片付けているような仕草だが、明らかに誤魔化している。こればかりは聞いても答えてくれないだろう。でも、気になる。


「それは何?」


 彼の背筋が跳ねる。


「何の薬?」


 捲し立てるように質問すると、彼は俺に背を向けたまま答えた。


「──頭痛薬」


「本当に?」


「最近ちょっと頭痛くて」


 言いながら彼は振り返った。笑った。嘘なんだと分かった。悔しかった。彼はまだ過去から抜け出せていないのか。彼はまだあの黒くて暗い部屋の扉を開けられていないのか。



 ──俺だけだったのか。




「まだと関わってるの?」




 彼の笑顔はもうそこにはなく、あるのは「沈黙」という回答だけだった。

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