なのに、彼はそうしなかった。

 彼の気怠そうな睫毛が上下する。キーボードを走る俺の指を眺めては、画面に視線を戻す。俺が時々じっと彼の顔を見ても気付かないのは、きっと彼自身が人の目を見て話さないからなんだろう。

 上司から言われたから仕方なく、という姿勢はいつの間にか消えている。時には「そういう方法もあるのか」と呟いて手帳に何か熱心に書き込んでいる。そういうところ、高校の頃から変わってない。




   君を守りたいんだよ、葵くん。




 そう言ったら彼は目を丸くした。俺も少し早まった言い方をしたとは思ったけど、まさかそこまで驚くとは思わなかった。



 ──だって彼は、知ってたから。






 俺がずっと、気にかけていたことを。

 俺があの時、守れなかったことを。

 俺が今まで、伝えられなかったことを。






 だから彼には、俺を拒絶する権利がある。




 なのに、彼はそうしなかった。

 あの時から見て見ぬふりをしている俺に対して、彼もまた見て見ぬふりをした。



 ──でも、俺は逃げない。


   逃げたくないんだよ、葵くん。






「葵くんの家に行ってもいい?」


「なんでそうなる」


「住むところがないんだ」


「……は?」



 ──ああ、この表情カオ



 君の困った表情が、俺に義務を与えてくれる。大丈夫だよ。ここまで来るのは大変だったけど、もう君を傷付けたりしない。

 俺にとって葵くんは人生の一部だ。思えば自分の無力さに唇を噛んだ別れの日だって、今や思い出したくない過去なんかじゃない。


 あの日から、俺は生きる意味を見つけた。






「帰る家がないから俺を待ってたのか」


 合点がいったように呟いて考え込む彼は、もう俺の早まった発言のことなど微塵も覚えていないように見えた。それが助かったような、悲しいような。自分の複雑な気持ちに気付いてしまったから、どこかに押しやった。

 彼の憂いを帯びた目は、あの日から全く変わっていない。彼のガラス玉のようなそれを見つめているだけで──




   目の痛くなるような夕暮れも


  グラウンドに舞った黄金の砂埃も


    隣の家のカレーの匂いも




 ──全部、全部。




 逡巡を繰り返す彼を半ば強引に言いくるめると、人の少なくなった電車に揺られながらやっと頷いてくれた。

 これでやっと、彼を守ることができる。




     何が起ころうと必ず

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