秒針が歩く音
彼の吸収力には目を見張るものがあった。髪色よりも深いブラウンの瞳が、俺の指を追って揺れる。細く長い指が、時に少し躊躇を忍ばせながら慎重にタイピングする。
こんなに真剣に指導を受ける後輩はそういなかったから御影相手とは言っても少し、こそばゆいような気持ちになった。
それでも今日は十分な厄日だった。朝から御影のデスクに張りついて仕事を教えてから、昼食は食堂に連れて行った。とは言っても御影はすぐに女子社員に取り囲まれていたので、俺は適当にコンビニのサンドイッチで済ませた。
でも午後になって必死で取り組んだ成果か、割と自分のタスクは片付いていた。
終業のチャイム。少し喧騒が大きくなる。
──明日の分も、手は付けておくか。
「葵くん」
彼は俺をそう呼んだ。高校時代からそうだ。俺がいくら「御影」と名字で呼んでも、名前に"くん"付けをやめなかった。俺はそれが嫌だった、馬鹿にされているようで。
「……俺のことですか」
「他に誰がいるの」
御影は例の爽やかな笑みでパソコンに向かう俺を見下ろしている。画面から目を離さない俺を見て、少しムッとしたような表情になった気がした。
「浅田さん達に、歓迎会に、誘われたんだけど」
女子社員に囲まれていたのは、歓迎会の話だったらしい。俺の反応を伺うように文節切りで話す御影に、少し気まずくなってパソコンから目を離した。
「葵くんは来ないの?」
「俺はまだ仕事があるから、行けないです。でも部長達はいると思いますよ」
御影は見るからにしゅんとした顔になった。少し俯いたように頷いて、去っていく。その姿はまるで仔犬のようで──これだから感情が表に出る人間は嫌いだ。
──どうしたらいいか、分からなくなる。
少し経って、オフィスには俺だけ。近頃の残業問題など欠片も感じられない空間だ。外はもう、暗い。酸素を吸う音が、うるさい。
灰色のデスクに牛乳パックが置いてある。
──混ぜたら、美味しくなさそう。
秒針が歩く音が聞こえる。それは着実に進む音だ。俺はどんな音で歩いているのか──
深層から
心よりもずっと奥にあるところから
聞こえて──
瞬間、無数のコピー用紙が舞った。自分の質量を感じながら、俺の周りを不規則に降りていった。
──大丈夫、俺はまだ独りだ。
俺の数秒前の行動は理解できないまま、舞い降りた白を拾い集めようと思ってゆっくりと腰を下ろした。
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