巻の十二 vs.コミュ力モンスターの妻

「本当に昼なのに寝ているのですね」


 ……何で起き抜けから男のいい匂いなんか嗅がなきゃいけないんだよ。顔のいい男、腹立つな。

 会いたくないって言ってるの気づけよ。お前のことが嫌いなんだよ。夜具を引きかぶったが、道頼がしつこく話しかけてくる。


「寝てばかりで暇ではないですか? お話をしたり歌を詠んだりしませんか?」


 しないよ。本当にお前ら平安貴族はいちいち鬱陶しいな。


「ではなぜうちに遊びに来たんですか?」


 ……ん?

 ふと、ぼくは起き上がった。御帳台の帳の色が違う。


「今日はあなたに縁談を持ってきました。中納言家の姫君です。落窪の君と言っておかしな名前ですが、帝室の血を引く美女です。――わたしの妻ですが、お譲りしようと」


 譲るってそんなこと。

 できるわけないじゃん。


「厄介なことをしてくれたな?」


 恐ろしい目で見られたのを思い出した。

 それでどっと記憶が蘇って、悲鳴を上げた。

 ――殺される。



 帳を引き開ける。――いない。

 御簾の向こうは。

 もう明るくて女房たちが何かしている最中だったが、皆、動きを止めてぼくのことを見ていた。衣通の上も。

 夢ではなかったので、ぼくはもう一度悲鳴を上げそうになるのを口を押さえて必死に止めた。――どこだ、どこにいる、あいつは。

 道頼の姿は見えなかったが、代わりに昨日の古い唐櫃を見つけたので慌てて駆け寄った。蓋を開けて中に入る。これ、かなり縮こまらないと入らないんだよな。これ以上やせたら死ぬからもっと身体を柔らかくしないと。酢か。酢を飲むか。


「……あのう、何をなさっているのです?」


 暢気なこと言ってる場合か。


「いいから閉めてください、隠れないと」


 ぼくは精一杯小声でささやいた。


「なぜ?」

「道頼に見つかったら殺される。早く閉めて」


 途端、衣通の上がくすくす笑い始めた。そのうち、しゃっくりみたいな声まで上げ始めた。――こっちは必死なのに何て思いやりのない女だ。

 ひとしきり笑ってからこちらに膝行って来て、


「殺しませんよ。大丈夫です」


 子供にするように背中を撫でた。


「だってそこにいる!」

「まあ、そういうことを気になさるのですか? いませんから大丈夫ですよ。わたくしと女房だけです。わたくしが申すのだからそうですよ」

「本当にいない?」

「いるわけがないです。夢でも見ましたか?」

「絶対?」

「絶対です。――ごめんなさい、笑われるのがお嫌でしたね。つい。あんまりおかしくて」


 そういう問題じゃないだろう。おずおずと唐櫃から顔を上げ、目だけで見回す。一応、いないのか? いや、寝殿造りは隠れるところが多いぞ。几帳の陰は?


「あいつの匂いがするんだよ! 近くにいる!」

「そんなに?」


 衣通の上は自分の袖を鼻に当てた。


「まだ残っているものですか、嫌だわ。ずっとこの邸にいるとわからなくって。人より匂いがよくわかったりするのですか? でもゆうべはおっしゃっていなかったのに。別の香を焚きましょうか?」

「そんな簡単に! 嫌って!」

「いつまでも辛気くさいではないですか。お外に出て大丈夫ですから。お手水とお召し替えをいたしましょう。お帰りになるだけなら狩衣で大丈夫ですか?」


 ――高級貴族の妻ってこんなに悠長なのか。それともこの人が特別豪胆なのか。おっかなびっくり櫃を出た。部屋の広さが落ち着かない。

 昨夜はいろんなことがあってただでも動きの鈍い脳味噌がいっぱいいっぱいで、何だかとんでもないことをしてしまったが……今になって改めて心臓がバクバク言い始めた。その辺の陰から道頼が顔を出しそうな気がする。顔を洗った端からまた汗が吹き出す。

 着替え終わった辺りでようやく落ち着いてきたが――朝ご飯まで出てくると、別の意味で落ち着かなくなってきた。

 天女のような美人の女房たちが嫌な顔をするでもなくてきぱきと道具を持ってきたり衣を持ってきたり膳を持ってきたり。手つきも丁寧で、うちの無愛想な女房たちとは全然違う。そのくせ全く笑わない。ちょっと怖いくらい。

 衣も着てきたものよりずっと縫い目が綺麗な上等なものだった。よくわからないが重ね着の色の組み合わせとかあるのだろう。女はそういうの、滅茶苦茶気にするものらしい。目がチカチカして何だか恥ずかしいくらいだった。

 朝ご飯は水飯に焼き魚に漬け物と簡単なものだが、半分くらいしか食べられなかった。お腹は空いているのにのどにつっかえる。


「あら、それだけでよろしいのですか?」

「物食べてる気分じゃないんですが……」


 膳を下げると女房たちは出ていって、二人きりになった。

 改めて、圧がすごい。


「い、いいのでしょうか」


 ……向こうが誘ってきたとはいえ、ものすごいことになったような。

 ……向こうが誘ってきたんだよな? 女君が御簾の内に男を招くって世間一般的に合意だよな? でも混乱しすぎて記憶を改竄してはないか? いないはずの道頼の声が聞こえるくらいだ。

 ぼくを御簾の内に招く女君なんて都合がよすぎる存在がこの世にいるのか? 後から訴えられたらどうしよう? やっぱり殺されるのでは?

 前にあんなひどいことがあったというのに、この期に及んでよりによって妻の姉に誘われたと思ってその気になるぼくは見境のないケダモノなのでは? さっさと出家していればよかった。生きて帰れたら法師になろう。それしかない。俗世を生きるのに向いていない。


「今更、いいも悪いも。あなたはわたくしの恋人ですよ、我が君」


 衣通の上がにこにこしているのがかえって落ち着かない。寒気すらする。


「いいのですか」


 同じことを二度も聞いた。


「わたくしと通じたのはあなたではないですか。――後朝のお歌が必要なところですが、ええ、ご無理はなさらず。でも代作のできる者を紹介しますからお雇いになって。今後、何かとお役に立ちますよ。わたくし以外の相手には必要ですから」


 何でもないように言って――


「なるほど、復讐とは実に甘美なものですね」


 うっとりとつぶやき、脇息に頬杖をついた。


「ふ、復讐って」

「夫はわたくしの家族に石礫を投げて清水詣でを台なしにし、車争いで義母を牛車から転げ落とし、典薬助を蹴殺し、仕立て直した邸を奪い、挙げ句あなたを四の君に差し向け子を生ませたのです。わたくしが復讐するは当然では?」


 それから急にぼくに膝行り寄り、手を握った。妙に温かい。


「あなた、お帰りにならずにこのままこの邸に住んでしまえばよいのでは?」

「は?」


 何言ってるんだ、この人。


「外聞が気になりますか? どうでもいいと言いたいところですが、妹の夫が今度は姉にとなったらまあ世間体は悪うございますね。でもあなた、出仕なさるわけではないし家の者に口止めしておけば何とでもなるのでは。どうせ寝ているならお父君の邸でもここでも大差ないではないですか」


 何だか異様に目が輝いている。綺麗だが怖い。


「今度はわたくしがあなたを落窪から盗むのです。お歌も、気の利く話し方も教えてさしあげましょう。叱ったりなどしませんよ。あなたを笑う者など皆遠ざけましょう。わたくしがこの邸の主ですもの。どうにでもします」


 どうやら一人で盛り上がってしまっているようだった。


「まだ四の君を愛していると言えますか?」


 ぎゅっとぼくの手を握る。その言葉にぼくは震えそうになった。


「四の君の女房はあなたを避けますよ。四の君ではそうした者たちを罰することもできない。帥中納言さまの奥向きどころか、あなたを聟君として遇することもできなかったのではないですか。今では世を恨み人を憎み、貴船の生成なまなりのようになって。――出来損ないの娘!」


 吐き捨てる語調にぞっとした。


「今朝方、難波津に向けて旅立ちました。何も知りません。今頃は山崎辺りにいるのでしょう」

「……道頼に見つかったら殺される」


 ぼくの声はからからにかすれていたが、衣通の上はぷっと吹き出した。


「そんなに怖いの。――殺しませんよ。殺せるものですか。あの方はあなたを恐れていたのに」

「だって車争いで年寄りを」

「懐かしいお話ですこと。今更祟られるとでも?」


 そして彼女は、子供のような笑い声を上げた。


「わたくしがあなたを愛していると知ったら、自ら引き込んで望んで契ったと知ったら、あの方、どんな顔をなさったのかしら。この世で一番見下しながら恐れていたあなたに妻を奪われたらどうなってしまったのかしら。わたくしとあなたこそが非の打ちどころのなかったあの方の、たった一つのあやまちになるのです」


 その目の光には憶えがあった。


「わたくしのような者がこんな邸で北の方と呼ばれ敬われているのがそもそもの間違いであったのです。いいではないですか。誰かに咎められたら、邸を逃れて寺にでも入りましょう。寺で法師の衣を縫っていれば暮らしてゆけるでしょう。わたくし、縫い物は得手なのです。何とでもなりますわ。あの落窪にいた頃を思い出せば何とでも」


 彼女は熱っぽくささやき、ぼくの手にほおずりする。


「あの方が四の君を苦しめた分だけ、わたくしたちであの方を裏切り、苦しめるのです。二人で四の君の仇を取るのですよ」

「仇だって」


 思わず声を上げていた。


「仇とかもうたくさんだ」


 手を振り払った。衣通の上がきょとんとした顔をしたが、かまわずに。


 どんなにいないということにしても、匂いがする。ぼくの見ていないすぐ後ろに道頼がいるような気がする。畳に座っているような気がする。


「女に怯えて逃げ隠れするばかりの人生でいいんですか! あなたの一生、ここで変えなければいつまで経っても変わらない!」


 あの綺麗な顔で、いつかのようにぼくを見ている気がする。笑っているような気がする。


「ここで変えなければ」


 時間はない。今すぐ決めろ。


「盗むだって。落窪に閉じ込めるつもりじゃないか。あなたの心はまだ落窪に囚われている。……あなたは、不幸な人間の天運を操ってみたいだけだ。道頼と同じように」


 彼女の目に宿った光は、あのとき。

 道頼が浮かべていた憎悪にそっくりで。


「あなたが言った通りだ、人のためと称して悪事を成すのはそれは気持ちがいいのだろうな。自分の恨みをあいつにぶつけたいだけなのにぼくや四の君を言いわけに使うな。あなたの気晴らしにぼくらを巻き込むな。仇など討ったところで四の君の心は何も変わらない。これまでのことがなかったことになどなりはしない」


 ぼくは唇を噛んだ。悔しくてたまらない。

 そうだ。そういう魂胆だったんだ。当たり前だ。裏がないわけないじゃないか。

 この人もあいつと同じだ。

 丁度いいところに使える醜男がいる、と。

 こいつは嘲って指さす以外にも遊び方があるんだぞ、と。

 まだここに四の君から奪えるものが残っているぞ、と。

 ――着替えさせてご飯なんか食べさせて。

 ぼくもぼくだ、何で気づかないんだよ。親切のわけないだろう。


「道頼がぼくを見下しているよりもひどくぼくを見下しているくせに、当てつけのくせに。共寝すれば愛し合っていることになるのか。馬鹿にするな。ぼくはあなたじゃないしあなたは四の君じゃない。根性が悪いのはお互い様だ、面の皮一枚であなたに見下される筋合いなどない!」


 そのとき、やっと。

 言葉に出すことができた。


「頭と顔が悪かったから何だ! ぼくは人間だ! 何様だ、お前たちは!」


 ずっと思っていて言えなかったこと。

 衣通の上はみるみる顔を強張らせた。まるで夢から醒めたように。


「――話せるではないですか」


 短くつぶやいた。

 ぼくは立ち上がった。

 ――自分で変えなければ。


「どうなさるのです」

「四の君に真実を告げます。ぼくが下心から道頼の策に乗ったことも、後朝の歌のことも、観音さまではないことも」

「それでどうなるのです」

「今からでも筑紫に行くのが嫌ならやめてしまえと言うだけです。お一人で無理なら一緒に逃げる男がここに一人いる、と。こんなのしかいなくて申しわけがないけど。――おかしなことを言うやつがいると思われて、すげなくされて恥をかいたとしてもいつものことです、慣れています。ぼくが恥をかくのを恐れてそれで誰も名乗り出なかったら、今度こそあの方はお終いだ」


 話しながら決心した。

 あの人をあのままにはしておけないと。


「四の君の人生を取り戻すのです。ぼくのものにならなくても。帥や道頼や、あなたのものではない。もう自由にしてあげなくては。一人にしてあげなくては。長い間、あの方から逃げていたのです。一つくらい何かしなければ。幸せどころかこのままではあの方は、あなたたちの許しがなければ息もできない。あなたたちはあの方が死ぬまでここが駄目だこれが駄目だちゃんとしろと言い続けるんでしょう?」


 ちゃんとなんてできるはずないじゃないか。

 何をしたって気に入られないのはわかってる。

 人にじっと見られているととても息苦しいんだ。

 みっともないことをしているのを誰かが指さして笑っているかもしれないと思うと息が詰まる。

 陰口を叩かれ笑われ嘲られているのではないかと思うと。

 駄目なやつだとため息をつかれているのではないかと思うと。

 次は何のことで説教されるのかと思うと。


「人の世を恨むばかりの醜い心根の女ですよ」

「だからでしょう。ぼくの他に誰がいるのです。あの方も道頼に盗んでもらうのですか? あいつにわかるもんか。人の世を恨んでうまくやっている連中を蔑んでいたのはぼくだ。落窪から盗んでさしあげなければ。お一人では出られない。ぼくを踏み台にしてあれよりは自分の方がましだと思うならそれでもいい」


 それで衣通の上から背を向けた。

 もう彼女を見ないことにした。


「――我が想い人は四の君、昨夜のことは気の迷いでした」

「忘れたりはしませんよ。人に言いますよ」

「どうぞ。もとより失うものなどない。ぼくはこれから無位無官の身の上で恥知らずにも帥中納言の妻を盗むのです」

「あなたになくても四の君にあります」

「あなたたちの期待がね。最初の結婚で失敗してすっかり性根が曲がったのを、ご立派な夫のおかげで治ったふりをする、あなたたちがそうなってほしいと思っているだけだ。放っておいてくれと本人が言っているんだ、放っておいてやればいい」

「偽りでも幸せです、今つらいだけでいい夫婦になるかもしれないでしょうが」

「本気で言ってるんですか」

「あなたに何ができるのです。あの子をかくまう邸も何もないのに」

「だからあの方が筑紫で死ぬかもしれないと思っても今まで通り気にせずに寝ていろと? 冗談じゃない」

「あなたがそうなさりたいだけでしょう。二人とも破滅して、お互いを呪いながら生きることになるのが望みですか」

「彼女に呪われることすらない人生よりましだ。ぼくは彼女に憎まれてすらいない、情けない。子までなした妻に愛されていないだけならまだしも、生きた人間だとすら思われていないなんて」


 ――あの頃、彼女は泣いていたが、今の彼女はもうぼくに傷つけられたと泣くことすらできなくなってしまって。

 手の届く姉に怒りをぶつけるくらいしか。

 自分のせいではないと、母親を恨むくらいしか。


 憎んで恨んで内裏に雷を落とした人もいたがそれで世の中は何か変わったか。

 北野に神社ができただけだ。


 たまたま馬鹿な男が二人いたというだけで、鬼や雷神になるほど大層な話ではないと言ってあげなければ。

 ぼくの人生、どうせこの先何も変わらない。

 何もなしえないこの人生で、一つだけでも。


「ぼくを殴ったり呪ったりして済むならそうすればいいんだ。今のまま身だけ筑紫に行って新しい夫に媚びへつらうふりをして、そんな惨いことがあるか。ぼくだけでももう十分だと言ってさしあげなければ」


「ああ、悔しい」


 衣通の上は笑っているような、泣きそうなような、不思議な声を上げた。


「今のあなたは石山の観音さまよりも立派ですよ。ええ。口惜しいこと。わたくしが仕立ててさしあげたのに」

「馬を借りていいですか」

「どうぞ。支度させますわ」


 手を叩き、やって来た女房に伝える。支度の間に難波津の港までの道筋まで教えてくれた。


「あの子にあげるお歌を詠みましょうか」

「いりません」


 それだけはきっぱりと断った。

 もうわからないのにわかったふりをするのは嫌だ。

 何だかわからないものに振り回されるのは嫌だ。

 ――馬を用意してもらったものの、本当のところ乗馬は嫌いだ。「馬が馬に乗っている」などと指さされるから。

 ――人に指さされるのがどうしてそんなに怖かったのだろう。


〝笑われても堂々としておればそのうち、皆、見慣れる。お前には辛抱が足りない〟


 父の言った通りだった。


〝笑わせておけばいいではありませんか〟


 道頼の言った通りだった。

 どうでもよかったじゃないか。

 人が笑うとか指さすとか。

 どうせ馬鹿にされるからという理由で今までどれほどのことを諦めてきたか。

 もっとしたいことをすればよかった。

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