巻の十三 まことの恋、まことの自由
――衣通の上はしばし、絵巻物も見ず琴も爪弾かず、ぼんやりと脇息にもたれていた。
そこに女房がやって来る。
「お方さま、どういたしますか」
「いつもの通りに」
特に感慨もなく、彼女はしずしずと奥の間に向かった。女房たちが
こうべを垂れて夫を迎えた。抹香が焚かれる。夫の匂いと言えばもうこれだ。
言われずとも知っていた。復讐など馬鹿馬鹿しい。今更、夫から何かを奪うことなどできない。そんなことができるのは御仏だけだ。
彼女の心がどのようであれ、夫を苦しめることなどできはしない。
出家し尼になって菩提を弔おうと何度も思ったが、舅に止められた。
〝あなたはまだ若く子供たちも幼いのだから〟
――本音のところは姫を育ててもらわなければまずいのだろう。
血筋よく東宮と年齢の合う姫だ。ご一族の誰かの養女となって次の帝の妃となる。
こちらのご一族では姫君はそれは大切なものらしい。
馬鹿げた話だ、まだ七つにもなっていないのに。
ため息をついてから、もう一度深くこうべを垂れた。
「何だか百年もお目にかかっていないような気がいたしますわ、道頼さま」
「わたしを放っておいたのはそちらだと思うけどね。新しい楽しいものでも見つけたのかな?」
「見つけたような気がしただけでした」
「おやおや。どのみちわたしは二の次か」
道頼は優しく笑う。女も羨む花のかんばせは若々しくまぶしいほどで、右近の少将だった頃と何も変わらない。
「物思いに耽っていたようだね。妹君が気になる? 今日ご出発だったね」
「半分はそうでございます」
「もう半分は?」
衣通の上も笑った。いつもよりぎこちなくなってしまっていると知りながら。
「……あなたはまこと麗しいお方。その男ぶりは都で一番との噂。同じ邸に住まうようになってもまめまめしく雅なお文をくださったし、何よりお優しかった。雨の中あの落窪にいらしてわたくしの針仕事すら手伝ってくださったこと、今でもよく憶えております」
「どうしたんだ、かしこまって。清水詣でにでも行きたいのかな。それとも熊野?
「あなたほどの夫はおりません。お慕いしておりますわ。でも」
ほろ苦いものが心の中に広がっていた。それを抑えることはできなかった。
「理に適うわけがあるものをまことの恋と呼べるのでしょうか」
「何だって?」
「恋は美しくて賢くて正しいから報われるなんてものなのでしょうか」
返事はない。
「泥中から蓮華の出ずるが如く――」
――たくらみとあやまちの中から純愛の花が咲くことがあるのでしょうか。
何もかも出鱈目で間違っていても、恋とは成り立つものなのでしょうか。
「あなたがお顔に怪我でもなさって性根がいじけてしまったら、頭でも打って美辞麗句も紡げなくなったら、理に適うわけがなくなったらわたくしはあなたから心が離れてしまったのかしら……」
――今だってあなたの優しさと歪んだ本性の狭間でこの身が張り裂けそうです。
きっと御仏がおられるならば、人を陥れて得意になっていたあなたは九品蓮台どころか地獄行きなのでしょうね。
法華八講はお役に立ちましたか?
道頼は冗談めかして笑った。
「法師の説法でも聞いたのですか? 修行の足りない半端な法師は不吉なことを言って人の心を乱すものです」
「夢ですわ。ゆうべ、それは立派な石山の観音さまが夢枕に立って、そしてわたくしのもとから去ってゆきました」
――馬頭観音でございました。
「嫉妬した方がいいのかな?」
「できるものならなさってください。今の幸せの全てがむなしいと思えてならないのです」
「夢などに惑わされてわたしを疑うとは、情けない」
「本当に今日のわたくしはどうかしているのですわ。柄にもなくはしゃいでしまって」
思いきろうとしたが切ない胸の疼きは強くなる一方だった。
……雅な歌を取り交わしたわけでもないのに。楽しく語らったわけでもないのに。優しい思い出があるわけでもないのに。
観音さまだとか自由だとか真実だとか。
あの人たちが見ているのは一体何なの。
あれが恋なのだとしたらわたくしはそんなものを知らない――
あなたはどうですか。
そんなものがあることをご存知でしたか。
わたくしが女鬼になったら助けてくださいましたか。
いえ。
わたくしが助けられなかったのですね。
あんなに愛の歌をさえずっていながら。
あんなに助けられていながら。
わたくしが同じ地獄に落ちてさしあげるべきだったのですね。
罪は償えばなかったことになどなりはしないのに。
歌に歌えぬ恋は、物語のようでないものは、はなからこの世になかったことになるのでしょうか。
人が憶えていない話はなかったことになるのでしょうか。
「難波津のなみだつ下に
口ずさんだそれは、彼が望むなら授けようと思っていた歌だった。
難波津の波と涙の下に身を尽くし、櫂も甲斐も持たないわたしのことをあなたは知らないのでしょうね――
もう誰にも届かない歌。
「四の君にあてた歌、にしては恋歌のようだね」
「あなたのために涙を流しても身を尽くしても甲斐がないと申しております」
「ひどいな、そんな不実をした憶えはないのに責めるのか」
「あなたはわたくしが泣いていても何もわかってくださらなかったもの」
――いつだってそうだった。
彼だって。
傷つけるつもりはなかった、幸せになりたかった、何かが変わると思った――彼と同じ。
ただそれだけのはずだったのに。
自分はよく話す方だと思っていたが、もしかして言葉が通じにくいのだろうか。話し方が悪いのだろうか。
こうも誰も彼も聞いてくれないというのは。
返歌はなかった。
四の君は舟が漕ぎ出すそのとき、昔の夫が来るのを待っているのだろうか。それとももう何もかも諦めているだろうか。
立派な衣を着て現れて、少しは喜ぶのだろうか。
突然駆けつけた彼を、帥中納言の家来たちが打つかもしれない。それを四の君は庇うだろうか。御仏の試練と思い、成し遂げるのだろうか。
彼は耐えるだろうか。
四の君と姫とを連れて、三人で逃げることなどできるだろうか。
姫までは手が回らず二人きりだろうか。
帥中納言が怒ればその声は帝にも届くだろう。
追われる身で三人、奪われた十二年間の愛を取り戻すことができるだろうか。
「そんな夢物語が叶うはずがないのに」
涙を流しながら、羨まずにはおれなかった。
衣通の上は落窪より盗み出されて道頼の作った幸せな箱庭に囚われることになったが、四の君は彼に盗まれて真に自由になるのだ。
二人、手を取り合って野垂れ死んでもよいし寺に入り僧尼になってもよい。
各々の不幸を嘆き、お前のせいだと罵り合い、悲嘆に暮れても。
憂き世のつらいこと全てに背を向けて、岩山の穴蔵に籠もり二度と出ないことにしても。
思い通りに破滅する自由だ。
ここにない全てが彼らにはあった。
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