巻の十一 とある姫君の物語

 ……昔々のことでございます。

 源中納言家に一人の姫君があられました。宮家のお血筋で高貴なお方でしたが、六歳で母を亡くした後は、粗末な部屋に住まわされ針仕事ばかりさせられていました。

 部屋の床板が落ち窪んでいたことから落窪の君と呼ばれておりました。中納言さまには五人の姫がいらっしゃったのに、末姫は四の君。彼女は数に入っておりませんでした。

 ところがいかなる宿縁のなせる業か。今をときめく右近の少将・道頼さまが彼女のもとにお通いに。


 なべて世の憂くなる時は身隠さむいはほの中の住みか求めて


 この世の全てがつらい時には身を隠してしまおう、岩山の中に住処を求めて


 麗しい姫君がこのような悲しいお歌を口ずさんでおられるのを道頼さまはお耳に留めたのです。

 紆余曲折あって、ついに道頼さまは彼女を中納言邸より盗み出し、邸に迎えて北の方となさいました。和歌一つで、そのような幸運が本当にあるのですねえ。

 めでたしめでたし。……ということになればよかったのですが。

「あなたをひどい目に遭わせた源中納言家の連中に、一泡吹かせてやらないと気が済まない」

 道頼さまはそうおっしゃって、中納言家の清水詣でを台なしにし、祭りで車争いを仕掛けて牛車を打ち壊し、放っておいても死ぬような年寄りを嬲って殺して……挙げ句、彼女の持つ権利書を盾に邸を奪い取るまでに。


「もうやめてくださいまし。わたくしは幸せです。それだけでは駄目なのですか」

「あなたは優しすぎる。もっと懲らしめてやらなければ」

「あの人たちにかかわってほしくないだけなのに」


 落窪の頃から衣や調度を都合してくれ、三日の夜の餅を用意してくれ、何くれとなく親切にしてくれて頼りにしていた優しい女房も、

「姫さま、親御さまとてあの方たちを許してはなりませんよ。道頼さまはわたくしがしたいと思ったことを全てなさってくださいました。大層気分がすっきりいたしました。いっそ道頼さまにお仕えしたいくらいでございます」

 人が変わったように、落窪の君の言葉を聞かなくなってしまいました。

「あなたは優しすぎるから」

 道頼さまはおっしゃいました。

 本当にそうなのでしょうか。


「道頼さまの北の方は幸運なこと。あれほど見目麗しく心根優しく雅やかな男君と添われるとは羨ましい」

 世の人々は申しました。

 本当にそうなのでしょうか。


「うちの娘にも道頼さまのような聟を取りたいものだ」

 本当にそうなのでしょうか。


 ついに道頼さまは落窪の君の妹、四の君を、ご自分で娶ると言って約束を違え、都で一番愚かな醜男の妻にしてしまったのです。

 四の君がご自分でその男を引き入れたのだということにして。

 四の君は間違いなく清らかな乙女であったのに、お前の身持ちが悪く妙な男と通じたせいでと毎日親たちから責められました。

 あんな男に惚れる女がいたとは、と都中の人々に指さされ笑われました。

 そのうち子を身籠った四の君はいっそ死んでしまいたいと嘆き悲しむほどでございましたが、道頼さまはお笑いになったのです。

「いい気味だ」

 ……もう落窪の君には、道頼さまの御心が何一つわかりませんでした……


 その頃には落窪の君も身籠もっておられました。道頼さまによく似た玉のような男の子を二人、麗しい女の子を一人お生みになりました。

 道頼さまは勿論その父君母君も大層お喜びになり、二番目の次郎君は祖父母のもとでお育ちになるほど。

 妹君も、帝の妃である姉君もそれは上品で優しい方々で、仲よくしてくださいました。

 中納言家にいた頃とは何もかもが違いました。

 今や落窪の君は誉れ高き権門のご一族の一人。道頼さまは他に妻も妾も持たず、一途に愛してくださいました。

 それは息苦しいほど。

 これを捨てて何を望める、というほど。

 帝のお妃でさえこれほどではあるまい、というほど。

 一体他に何がほしい、というほど。


 その後、中納言さまが落窪の君に詫びてやっと道頼さまは機嫌をよくして、婚家に様々な便宜を図りました。舅の中納言さま、もう七十にも手が届こうというかのお方のために法華八講の大法会を開きました。大納言の位すら融通しました。

 その後、親しい方々の葬儀などがあり。すっかり何もかもがお終いになり。

 それでもどうしてか物語は続いていて。

 そろそろ、喪が明けて五年になります。

 新しい人生を考えるときです。

 まずはこたびの縁談。四の君に今度こそ世間に指さされることのない立派でまともな聟君を。


 それで全てなかったことになるのでしょうか。

 詫びれば何もかもが消えて失せるのでしょうか。

 忘れてさしあげるべきなのでしょうか。

 いつまでも憶えておくべきなのでしょうか。


 四の君がお生みになった、数えで十一になる姫御前は己が身の上をどう思っているのでしょうか。

 落窪の君は道頼さまを、己が父君を、今更になってどう思えばよいのでしょうか。

 幸せ者と皆が褒めそやしましたが、この心に靄のようなものがけぶっていつまでも晴れないのはどういうわけでしょうか。


 物語はまだ続くのです。

 都で一番愚かな醜男にも言い分はありました――

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