巻の十 君の名は
「ぼくは彼女を不幸にするつもりなんかなかった」
唐櫃を出たとき、それがぼくに残ったたった一つの真実だった。
「幸せになりたかっただけなんだ。何か素晴らしいことがあると思ったんだ」
四の君が去った部屋はがらんとして、畳の上に残り香だけがいつまでも漂っていた。
その香りこそがぼくの追い求めたものだったのかもしれない。初めて垣間見た彼女はあまりにも強すぎて。
いや。ぶっちゃけ解釈違いです。
怖い。本気で。うちの妹より怖いとか。唐櫃に閂がかかっていてよかったと心底思った。あの場に出ていくとか超無理。サプライズ登場しなくてよかった。
彼女だって。生身のぼくから目を背けるあまりコペルニクス的転回にたどり着いてしまって。どこを取っても正気とは思えない。
ああまでなってしまったのはあの十日ほどの結婚生活、のことだけではなく。
ぼくが引きこもっている十一年の間に、彼女は。少しずつ心を削られて。
今度の結婚も、人が言うほど素晴らしいものではなく。
どこで間違ったのか、分かれ道があったのか、自分に落ち度があったのか、一生懸命答えを探して探してその果てにたどり着いたのがあの。
「――そうですね。わたくしはてっきりあなたが道頼さまと一緒に四の君を陥れたのだと思っていましたが、違ったのですね」
衣通の上もすっかり元気をなくしていた。相変わらず御簾のうちで姿は見えないが声に力がない。
「あの子にとってはとうに姿を消したあなたよりも今も近くにいるわたくしの方がよほど憎い仇なのですね」
さっきまでの正しさに満ちあふれた彼女ではなかった――それは大ショックだろう。四の君があんなにキレる人だったの、この人も初めて知ったっぽい。
ぼくだって女が扇を投げるとか初めて見た。横から見てても女鬼みたいだったのに、真正面からって腰を抜かすだろう。まだ床に檜扇が転がっている。御簾を突き破ったりはしなかったんだろうけど。
「心を尽くしてもわかってはもらえないのね、きっと。――我が妹はあなたの望んだ通りすっかり性根の歪んだ女になりました。道頼さま、これで満足ですか?」
泣きそうな声だ。
「わたくしとあの子で何が違ったと言うの。道頼さまはあの子と結婚するはずだったのに。たまたま先にわたくしにお通いになっていただけで。色好みの方は普通の女など見飽きてしまって、変わり者に興味をお持ちになるというだけだったのに。所詮あの方の気紛れ、わたくしが選んだことなんて何もなかった。賢いとか正しいとかそんなものではなかった……」
「でも賢くて美しいあなたは気の利いた歌であいつの気を引いたりしたのでしょう?」
つい皮肉っぽくなった。泣くのが女の仕事と思うな、こっちだって半泣きだ。
「歌、歌って、何だって言うんだよ」
――もういい加減にしてくれ。
「歌が詠めたらそんなに偉いのか!」
――結局。話はそこに戻るのだ。
道頼の書かせた歌。
妹の書かせた歌。
そんなものでぼくらの人生は。
たった三十一文字で。
畳に突っ伏した。憤ろしくて。情けなくて。
「――誰も教えてくれなかったのです。母は妹にかかりきりでぼくのことなど知らぬふり。きっと母も嫌気がさしたのでしょう。ぼくといるといつも怒ってばかりで、何か相当ものの道理のわからない馬鹿者だとうんざりしていたようで。相手をしてくれるのは下働きの者ばかりでした。父は、男は和歌など詠めずとも武芸を達者にしていれば何とかなると……武芸など侍がすることなのに。結局ぼくは武芸も駄目でしたが」
……こうして語ると、まずいのは歌と顔だけではないとわかって余計に惨めだ。
「あなたの夫君は遊びに来いと声をかけてきましたが、あちらの邸の女房や雑色に笑われるのが怖くて……」
言い終えてから、「あ、これはまた叱られる」と思った。
こういう間が悪いのだぼくは。言う前に気づければいいのに。
いつもそうだ、「笑われたから何だ」と。頑張れば歌の勉強くらいできただろう、と。
言いわけをするな、と。
「ああ……ああ!」
しかし。
彼女の反応は、予想と違った。
「追いかけてきた」
それはまるで泣き出しそうな声で。
「――わたくしは六歳で母を亡くし、それ以降はなさぬ仲の継母のもとで育ちました。世間の姫君たちが母から教わることを義母は何一つ教えてくれず、わたくしは見るに見かねた女房たちから伝え聞くばかりで……歌も物語も……わたくしはどのような身分でも女ゆえ、小綺麗にして男君を迎えねばならぬと世話を焼いてくれる者がありましたが……気紛れな公達にすがるにせよいずこかの受領の邸に迎えてもらうにせよ」
御簾のうちで影が動いたような気がした。
「男君は己でどこへでも行けるから教えずともよいと思ったのでしょうか、あなたの周りの人々は」
それは憐憫の声だったが、これまでのものと違った。
「どこへも行けません。邸に閉じこもっていると心が強張ってしまうのです。わたくしは、義母に叱られると思うと何もできなかった。逃げることすら思いつかなかった。――父は血のつながった親なれどわたくしの言葉を聞いてくださったことはついにありませんでした。最初から最後までわたくしのことなどどうでもよいとばかり」
ぼくを責め立てたときと同じ人とは思えない弱々しい様子で。
「わたくしはあの頃、右近の少将さまでありました道頼さま、あの方に盗んでいただいたのです。少将さまはわたくしを愛して助けてくださいましたが、実の親に疎まれる苦しみはついに理解してくださいませんでした。――衣通の上など片腹痛い。わたくしは落窪、親に打ち捨てられた落窪にございます」
――そのとき。
彼女は、片手で御簾を上げていた。
顔立ちは四の君によく似ていたが、四の君より目鼻立ちがくっきりとして。
唇に引いた紅が、四の君のものより赤かった。
「あなたはわたくし。義母の怒りに怯えて泣いていたあの頃のわたくし。――それがどんなに恥ずかしくつらいことだったかあの方はわかってくださらなかった」
御簾より膝行り出てぼくの前にひざまずく。香の匂いは少し、道頼が使っているものに似ていて。
「落窪というのは、わたくしが粗末な落ち窪んだ部屋にうちやられていたという意味でございます。義母がそう呼んだのですがいつの間にやら父までがそう呼ぶようになっておりました。あの方はそれで心底わたくしのわびしい身の上を憐れみ、わたくしを愛し、わたくしを守り義母を懲らしめようと思ったそうです」
伏せた目から。
「果たしてそれは愛だったのでしょうか? あの方が欲したのはわたくしではなく、罰するべきわたくしの家族では?」
涙が一粒こぼれ落ちた。
「あの方はただ、幸せになる者、不幸になる者、そのさだめを己で決めてみたかっただけなのでは? 望めば何でも叶うお方。わたくしの憐れなありさまを見て、人の天運というものを操ってみたくなったのでは? 閻魔の裁きを前倒しにしてわたくしの家族を裁いてみたかっただけなのでは?」
それはぽたりと板敷きに落ちて。
「人を傷つけ、貶めて、正しき行いだと、悪人に当然の報いを与え罰しているのだとうそぶくのはそれは楽しいことなのでは? あの方はわたくしと四の君のさだめをそっくり入れ替え、楽しんでいただけなのでは? ――わたくしは天の助けと思って一族にとんでもない災いを引き込んでしまったのでは? 己一人が助かりたいばかりに」
濡れた目がぼくを見た。憂えた瞳は、だがどこも見ていなかった四の君のそれとは違い。
「あなたにも呼ばれたくない名がありましたね。道頼さまはそうなのでした。最初に落窪という名を聞いたときそれがわたくしのことだとわからず、〝へこんでいるとは妙な名だ、性根が曲がってでもいるのだろうか〟と。――人の心がわからぬ方でした」
――心の奥まで見透かすような。
「衣通とはどういう意味かご存知ですか?」
「……ぼくは何も知らないので」
「昔、衣通姫という方がおりました。美しさが衣をまとっていても透けて見えるというほどの優美な乙女であったと。――わたくしが初めて落窪で道頼さまにまみえたとき、衣が擦り切れて透けて穴が空いておりました。わたくしはそれが大層恥ずかしくて、立派な男君にみっともない姿を晒したと泣いてばかりいて。後朝の歌もろくに返せずに。わたくし、あの方から歌をいただいてもからかわれているのだと思っていました。どうせぼろの衣を見たら幻滅なさるのだと思っていました。人並みの女のようにふるまっても恥をかくだけだと思っておりました。――笑われるのが怖くてどこにも行けませんでした。こんな邸で北の方と崇め奉られるうち、すっかり忘れておりました」
少し笑った。泣きながら。
「人並みにできないのは怖い。他の者が当たり前にしていることを、己ができないのは恥ずかしくて恐ろしい。わかります。道頼さまのご家族に会うのが恐ろしくて……優しい方々だとわかった後はかえって胸がつまるようで。まともに育っていないわたくしのような者はいつ地金を見抜かれてしまうかと」
「……あなたはお美しいではないですか」
使ったことのない言葉で、舌を噛みそうになった。
「もう十年も二十年も経てばどうでもよくなりますよ」
彼女は頭を横に振った。
「二夜目はね、女房の衣を借りたのです。よく気のつく子が方々走り回っていろいろ調度を揃えて朝餉もお出しして。三夜目には餅まで持ってきてくれて。立派な宴というわけにはいきませんでしたが、あの子のおかげでわたくしの夫は左大臣さまです。あの子が一生懸命、美しい心でもてなしてくれたから。――四の君にはあの子はいなかった。たったそれだけ。わたくしの力で成したことではありません。わたくしが美しく生まれついたから、母が縫い物を教えてくれたから、皆が歌や物語を教えてくれたから、よく気のつく子が世話をしてくれたから……そうです。何が偉いと言うのです」
その笑みもすぐに歪んで、また涙がこぼれた。
「道頼さまは義母を罰していればいつか父がわたくしを顧みてくださると思っていた。父がわたくしの言葉を聞くようになると思っていた。あの方は素晴らしい両親に恵まれて愛されてお育ちになったから、血のつながった親がそんな非道なはずがないと。話せばきっとわかり合えるだろうと。――違います。父はあの方を顧みてあの方の言葉を聞くようになっただけです。わたくしではありません。わたくしに冷たく当たったのは義母でしたが、そもそも見て見ぬふりをしていたのは父です。きっと四の君にも、綾錦の衣を着せて美しい娘と褒めそやしていただけでまともに向き合ったことなどなかったのでしょうね。あの子もあなたのことで大層責め立てられたようです、何もあの子のせいではなかったのに。ええ、わたくしも地下人如きと通じたのであろう、身持ちの悪い恥知らず、死んでしまえとひどくなじられた。お父さまはそのことも憶えてはおられなかった。毎日あのようになじられたらそれは性根が歪んでしまうことでしょう。道頼さまもお父さまもついにお気づきにはならなかった。わたくしたちが何を嘆いていたかを」
「――あいつは小役人に突き飛ばされて牛糞の上に転んで笑いものになったことがあったと言うが、二人や三人に一刻や二刻笑われたところでぼくの気持ちがわかりはしない。鼻で息をしているだけで笑われるのに」
ぼくが言うと、くすりと笑う。
「わたくしの鼻があなたのようであったならあの方はわたくしを盗んではくれなかったのでしょうね。鼻が大きいというだけで、男君というだけで、あなたを盗んでくれる方はいなかったのですね」
彼女の手がぼくの手に触れた。
涙で濡れたほおを指でなぞらせる。
「人の身など儚いもの。わたくしとあなた、火事でもあって燃えてしまえば同じ骨なのに」
――人妻は、紅まで甘いのだと知った。
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