巻の九 大好きな人は落ちぶれた悪役令嬢でした。

 そうして、彼女はべらべらとたわごとをほざき始めた。


「神仏はときどきそのようにして人を試すと聞きますわ。わざとみすぼらしい老人など醜い姿に変化して訪れて……真心からもてなせば金銀財宝や長命などを施してくれますが、みすぼらしいからとむげに打ち払うと呪われると。きっと観音さまが情けをかけてくださったのに、わたくしたちが愚かだったから去ってしまったのです」


 ――あまりのことに、衣通の上の舌がもつれた。


「そ、それは本当に痴れ者の夢ですよ。その方は人です、只人です。今も……都のどこかにおられます」


 流石に、唐櫃の中にいるとは言えないのだろう。


「わかっております。でも夢を見てはいけませんか?」


 四の君が小首を傾げた。かわいらしいが――見ていると不安になるような。


「あの方のくださった姫はとてもかわいいのです。あんなかわいい姫を授けてくれた方がそんな悪い方なのでしょうか。お顔の造作などどうでもよかったのではないでしょうか」

「でもひどい後朝の歌であなたを傷つけたと、この前は」

「わたくしもいろいろと考えたのです。――わたくしだってあの方を傷つけた。一度も手水や朝餉やお召し物をさしあげなかった。お父さまはちゃんともてなせとおっしゃったのに、お母さまがあんな無礼な歌を寄越す愚か者を聟扱いする必要などないと強くおっしゃるから。あんなみっともない者とはさっさと縁が切れればよいと。わたくしがちゃんと皆に夫のお世話をしてさしあげよと言っていれば。――わたくし、もっと話しかければよかった。わたくしだって文をさしあげてはいなかった。何もかも与えられるものと思って待っていただけだった」


 そのとき、四の君は。

 ぞっとするような笑みを浮かべていた。


「姉上さまはまばゆいばかりの公達とご結婚し、子らを童殿上に上げて、姫君も美しく育てていらして。太政大臣さまの後ろ盾を得て。いずれ次の帝の妃になさるのでしょう? 正しくあられます」


 紅を引いた唇が吊り上がった。


「わたくしは、駄目なのですわ。望まぬ子を身籠もって死にたいと思っても死ねず、尼になろうにも子を捨てられず。望んでいなかったはずなのに。ここに至ってこんなによい縁談を喜べずに……ひねくれ者なのです。夢くらい見せてくださいまし」

「まさか、あなた」


 衣通の上の声音は焦る一方だ。


「帥さまとうまくいっていないのですか」

「――下向の支度で、使いの者どもに褒美を取らせよと言われたのですが、わたくし、上手にできなくて。あちらは筑紫に下るだけでなく五人もいる子らが元服、裳着、結婚と忙しくなるから、奥向きのことを任せられる妻を探していたのに、これでは子が増えたようだと」


 皮肉げな口ぶり。

 衣通の上は必死になだめているようだった。


「あなた、帥さまに叱られて昔の思い出をいいように歪めて浸っているだけですよ。お腹を痛めた姫がかわいいからその父君も憎んではいけないと思い込んでいるだけです」

「思い込んではいけないのですか。歪めてはいけないのですか。憎んだり恨んだりしなければならないのですか。わたくしが憎んだり恨んだりする相手も姉上さまが決めてくださるのですか」


 ついにその顔から笑みが消えた。声が高く、早口になる。


「誰が幸せになりたいと言いました。もう放っておいてくださいまし。わたくしは姉上さまのお考えの通りに立派な夫を得て筑紫に下るのです。姉上さまのお望みのままです」


 彼女は立ち上がった。拳を握り締めているようだった。


「筑紫は遠うございます、舟は沈むやもしれません。無事たどり着いてもそこで死ぬるやもしれません。これが今生の別れかもしれませんから、もう洗いざらい申し上げますが――姉上さまはわたくしにたくさん物をくださって、親切にしてくださっているおつもりなのでしょうね。憐れんでおられるのでしょう。それとも従者のように褒美を取らせてくれているのですか。立派な調度をたくさんお持ちなのにそんな古ぼけた櫃を大事にして、厭味ですか。わたくしが心の内で何を思っていてもどうでもよいではありませんか」

「そ、そんな。わたくしは」

「わたくしが目につくところで結婚が失敗だった人生が失敗だったと嘆いていると姉上さまの気が塞ぐから、太政大臣さまにお願いして都から遠い筑紫に流して厄介払いするのでしょう? ええ、行きますよ。行けばいいのでしょう。わたくし、考えるのは得意ではありませんから姉上さまのよろしいように。賢く正しいあなたさまはわたくしよりよほど幸せの何たるかをご存知なのでしょう?」


 そして。

 御簾に檜扇を投げつけた。


「お望み通り筑紫で死んで梅の花になって京に帰ってまいります。その頃には雷の一つも落とせるようになっているでしょう!」


 ――そんな。

 こんな彼女を見たかったんじゃない。


「――かわいそうな姫。お父さまお母さまが勧めてちゃんと露顕までしたお相手の御子なのに、麗しく生まれついたのに、愚か者の子、日陰者と皆に蔑まれ疎まれて。挙げ句わたくしと筑紫に流され、死ぬるのですか。世間体もなく見苦しいというだけで。何の罪もないのにどうして」


 四の君は嘆いた後に、ふんと笑った。


「どうせ御簾の内は暗くてお顔の造作などわかりませぬし、いずれの男君も共寝の折には鼻息が荒くなるものですし、女は足を開いて寝転がっていればやや子を授かったり授からなかったりする。それだけでございます。いいも悪いもございません」


 ――これが、本当にあの彼女なのか。

 最初から最後まで、ついに何も言わなかったぼくの妻。


「お母さまの愚かなこと。あのとききちんと聟君をお迎えしていれば……姫の父君ですよ。歌とかお顔の造作とか……」


 へたり込むと袖で顔を覆い、四の君は悲しげな息を漏らした。

 四の君はぼくを慕ってくれている、と無邪気に喜ぶことはできなかった。

 彼女は石山の観音さまから子を授かったのだ。ぼくではなく。

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