巻の八 いつか観音さまが
ぼくはそれからどれくらい泣いていたのだろうか。来たときにはもう真っ暗だったので時間感覚がない。
「……何なら今からここに四の君をお呼びしましょうか? 既にあの子は帥さまの妻、お話をさせるわけにはいきませんが、あの子は明日には難波津に向かい、筑紫に船出します。今日この日が今生の別れとなるのです。あなたもこのままでは思い切れないでしょう」
衣通の上の声が、大分穏やかなものになっていた。――よほどぼくの泣き喚きっぷりがみっともないものだったのか、ここに来て憐れみを抱き始めたらしい。
散々言葉でしばき倒しておいて今更同情なんかするなよ、と言ってやれればよかったのだろうが。
「お、おでがい、しばず」
涙と鼻水でドロドロでそれどころではなかった。女の童が角盥など手水の支度をしてくれて、顔を洗ってやっと人間に戻った。少しは気持ちも落ち着いた。
「とはいえあなたのお姿を見れば四の君は心惑うでしょう。ただでも都を離れて知らない土地に行くのは不安でしょうに」
今度は雑色が、大きな
「これは末の三郎君、先ほどの少将が童の頃に隠れ遊びに使っていたものですが、古くて隙間が空いていて息ができますし外の様子も見られます。これにお入りになって。あなたはほっそりしておられるから大丈夫でしょう。これに入って決して声をお上げにならないで」
――さては几帳で仕切って隠した程度では、ぼくがショックで暴れ出したり四の君に取りすがったり大騒ぎになると思っているんだな。なかなか無茶苦茶言うな、この人。
とはいえ、おおっぴらに貴族の男女が顔を合わせることができない時代。男は塀の穴から庭を覗いたり、鍵のかかった戸を無理に開けようとしたり、引き戸の持ち手が擦り切れた穴から中を見たり、物置に隠れ潜んで女の話を聞いたり、そのまま出るに出られなくなって一日ほど経ってから這々の体で帰ったり。必死でいろいろみっともないことをしていた。平安恋愛工学はほとんど隠密の技だった。床下や屋根裏に潜んだやつだっていたのではないだろうか。床下に潜むよりは唐櫃の方がマシだった。
――なりゆきで入ってみたが、思ったより窮屈だ。関節がおかしな方に曲がる。息ができると言うがやっぱりちょっと息苦しい。二時間にも三時間にもなったら死ぬな、と思った。虫かごの鈴虫*1の方がもっと待遇がいい。
「では四の君をお呼びして。船出が近いのです、衣通が別れを惜しんでいるとお伝えして」
相変わらず御簾の内の衣通の上の姿は見えないが、ばたばたと女房が行き来する。女は家族に会うのにこんな段取りをしていたのか。何せうちの妹はずっと出仕しているので新鮮だ。
――やがて。懐かしい香の匂いがして、男のものではないしずしずとした足音が近づいてきた。彼女だ、とわかった。結婚期間は十日ほどでもう十年以上経っているのに、憶えているものだ。
「姉上さまにおかれましてはご機嫌うるわしゅう……」
か細いたおやかな声。――何てことだ、ぼくは四の君が意味のある言葉を発するのを聞くのはこれが初めてだ。マジかよ。マジだよ。
あの頃十四歳だったから、ええと二十五、六? 四の君は大人びた風情だが変わらず色が白く物憂げで可憐で、華やかな衣をまとって、とにかくかわいかった。語彙がない。あ。目が合った。
「まあ、この櫃はお母さまのものですか?」
「懐かしいでしょう?」
「こんな古いものを大事に取っておくなんて、お恥ずかしゅうございますわ」
「物を捨てるのはどうにも気が咎めて。船出の支度は整っておられますか? 足りぬものなどございませんか?」
「足りぬものなど。姉上さまがいろいろとくださるので余っているくらいです。いただいたもの全て積み込んだら舟が沈んでしまいますわ」
ころころと軽やかな笑い声。
――ぼくと一緒にいたときは泣くかレイプ目だった四の君が。笑って。
感極まって、ぼくはあんなに泣いた後だというのにまた目に涙がにじんだ。
「――姉上さま、何か妙な音がしませんこと? いういうと馬のいななきのような」
「厩の馬が暴れてでもいるのでしょうか。折角の別れの夜、風情が台なしですから黙っていてほしいものですわね」
衣通の上に釘を刺された。いけない、黙らなければ。……息が詰まりそうだ。
目が合ったのは一瞬のことで、彼女は御簾に向かって話しかけるので灯台の光で横顔が浮かび上がる。うう。やっぱり世界一かわいい。この櫃、しっかり閂がかけてある。もうちょっと姿勢を変えたいと思うが全然動けない。
「本当にお名残惜しいこと、ご縁とはいえ筑紫は遠すぎます」
「姉上さままでお母さまのような。良縁というのに嘆いてばかりですよ、お母さまは愚痴っぽいから。十日ほど前は帥さまの男ぶりがよいと喜んでおられたのに、すぐお気が変わる」
「でもあなたに別れを惜しむようなお方はおられないのでしょうか。何年も京の都を離れるのですよ。あの黄金の州浜の方などは」
ずきりと胸が痛んだ。例の贈り物のことだ。
「あれは……姉上さまがお考えになるようなものではありませんわ、きっと」
四の君が寂しげにつぶやいたのは、ぼくの仕業ではないと気づいているのか。
ぼくとの別れなど今更惜しんでいないということなのか。
「腹違いとはいえ姉妹ではありませんか。他の者には言えないようなことでもわたくしにはお話しになって」
「……思うことはあります。近頃、昔のことを悔いてなりません」
「悔いですか」
衣通の上が息をついた。
「――女は無力でございますね、女房や乳母が男君を引き入れたらどうすることもできませんもの。ましてや許嫁が違う方だったなんて――」
「いえ、そういうことではありません。――姉上さまはきっと大馬鹿者とお笑いになるでしょうが」
「笑いなどしませんよ、どうぞ」
「今となっては思いますの」
四の君が顔を上げた。心なしか声が弾んでいるようだった。
「姫の父君ですけれど。――あのときわたくしがあのひどいお歌に自分で返事を書いて、あの方の正体が知れても落胆せずにちゃんと女房に言いつけて手水や朝餉やお召し物をさしあげていたら、あの方、それは見事な公達に変身していたのではないかしら。わたくしに詫びのお歌などくれたのではないかしら。あのひどいお歌もお姿も、わたくしたちの心を試すものだったのではないかしら」
「は?」
そのときの四の君は。
まるで夢見るように輝く瞳で空中を見ていた。
「あの方は、石山の観音さまだったのではないかしら」
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