巻の七 黄金色の世間体
「は、え、はあ……面白の駒とは呼ばれたくないのですが」
「失礼、少輔さま。侍どもや我が弟が無礼を働きました、どうかお許しくださいませ。突然のご来訪で驚いただけなのです。弟などはあなたがお通いの頃はほんの子供でございましたから、憶えていないのです」
「あ、だ、大丈夫です、はい」
声音に笑いがないのが逆に落ち着かない。
――「まあ、何て不細工な人。こんなにひどいのは初めて見た、よく生きていられるわね。あまり見ないでくださいます?」とか言わないんだ。「アポなしで表門じゃないところから来たんだから打擲されるのは当たり前でしょう、どれだけ常識がないの」とか。
「わたくしは
と、いうことは。噂の、四の君の姉君。
「四の君が再婚し、筑紫に下向するという話を耳にしておいでになったのでしょう」
「そ、そう、です……」
……あ、そうだった。今の今まで忘れていた。
が、すぐにもやもやとした怒りが沸き起こってきた。
「そうだ! ぼくはこの家の聟だ! ――あなたの夫はとんでもない男だ! 四の君を勝手によその男と縁組みして。そ、帥中納言とやらがあれにとっては正しい人間だと言うのか! そ、それはぼくは今となっては無位無官も同然の者だが、いないかのように扱われて!」
自分でも珍しく、大きな声が出た。
御簾の中の衣通の上は――ため息をついた。嘲笑ではなく。軽蔑でもなく。
「十年以上もお通いがなかったと聞きますが。あなたさまと四の君の間に生まれた姫は、もう十一ですよ*1」
「そ、それはその」
少し言葉に詰まったが――ええい、ままよ。こうなれば一気に言ってやれ。
「道頼が怖かったのです。あれはぼくと四の君を縁組みしておきながら、ぼくを遠ざけようと。――あなたはきっと道頼の本性をご存知ない」
「本性?」
「あの道頼はぼくに歌の代作をしてやると言って、四の君にそれはひどい後朝の歌を送りつけたのです! 十四歳の女の子に!」
「存じております」
何でもないと言うようなさらりとした返答。
ここに怪物がもう一人いた。
「おかげで四の君は帥さまの後朝のお歌が恐ろしくてなかなか開けなかったとか。大変なことをしてくれましたね*1」
「あなたの夫がやったんだ!」
「書いて送ったのはあなたでしょう? 夫の
「そ、それは」
恐ろしいことに平安貴族は皆、心眼による筆跡鑑定スキルを会得していて一度見た筆跡は決して忘れず、文字を見ただけで誰が書いたかわかるのだ。このスキルがあるので代筆を頼んでも、大体自分で書き写さなければならない。
――そこを突かれると胸の奥に苦々しいものがこみ上げた。
〝気づいて別のを寄越せと言うと思って〟
道頼もそう。
「……あの男はぼくが歌がわからないのをいいことに」
「なぜ道頼さまにお願いしたのです。歌の代作者など、世にいくらでもいるではないですか」
「人に歌を送るなどしたことがない」
「まあ、それは驚いたこと。京の都にお歌もひねらず女を口説く男君がいらっしゃるとは」
驚いたと言いながらその声音は冷たかった。
「道頼さま、あの方が型破りで破天荒で無茶をなさったのは存じておりますわ。わたくしもあの方に攫われて妻になったのです。まともに露顕もしていない吹けば飛ぶような身の上、頼る親もおらず妾の一人となるのだと思っておりました。北の方などと持ち上げられたのは思いがけないこと。あれほど立派なお方、皇女さまなどをいただいてわたくし如きはそのうち邸の隅に追いやられ、下女のように扱われるものと思っておりました。実際あの方の乳母などは、わたくしのようなどこの者とも知れぬ女よりもちゃんとした姫君を娶るべきと申していたのです」
「あの男は人を人と思っていない。四の君の人生を滅茶苦茶にしたのです!」
「――ならばあなたは四の君の人生を滅茶苦茶にしていない、と」
ぱちんと檜扇が閉じる音がした。
「全て我が夫のせいであってあなたは何も悪くないと。あなたは人を人と思って大事にしていると」
――その言葉は矢のように胸を貫いた。
「我が妹に懸想していながら歌一つひねることがなく代作者を頼むことすらしていなかったのに、あなたに責任は何もない、と」
「そ、それは道頼が全てお膳立てしているという話で」
あれ? 何だか雲行きが怪しいぞ? 悪いのは道頼のはずなのに?
「あなたは我が夫に一から十まで任せきりで、それで夫に騙された、夫が全て悪いとそうおっしゃるのですか? 愛しい女に文一つご自分で書こうとなさらないで」
「……ぼくは不細工だから、そんな、文など送っても笑われるだけで……」
「お顔がまずいから何をしても無駄、なので道頼さまが我が妹を騙してくれたのにまんまと便乗して結婚なさった、と」
「そ、そうでもしないとぼくみたいな者は、一生結婚できないし……」
しどろもどろで答えていると。
ふう、とため息の音がした。
「――あなたが醜いのはお顔ではありませんね。我が妹を人と思っていないのはあなたではありませんか。四の君はあなたとの結婚生活は泣き暮らすばかりなのに早くに子を孕んで、いっそ死んでしまおうとまで思い詰めたというのに」
頭を殴られたようだった。
キモメンが生意気言ってんじゃねーよ、と笑われた方がまだマシだった。
四の君は何も言わない人だった。確かに、泣いていることはあったけど。
死んでしまいたいと思うほどぼくを嫌っていたなんて。
ぼくにひどいことを言って笑う人はたくさんいたが、笑われることなど何ほどもないと今初めて思い知った。
彼女は、泣いていたじゃないか。
「お顔が醜いから、官位が低いからと言って聟君を見下すなど愚かなことと思っておりましたが、そんな話ではありませんでしたね。どうせあなたは地位ある父を持つ姫君ならば誰でもよかったのでしょう。人並みのふるまいができないことを見目かたちのせいにして、道頼さまのたくらみの都合のいい部分だけを味わうつもりで近づいていながら、都合の悪い部分を指さして糾弾する。何て性根の曲がった方なの。姿が美しくないならそれなりに文や贈り物や麗しい言葉で真心を伝えようとは思わなかったと」
「そんな――」
そんなこと、したことがないからわからない。
と、御簾の端からするりと小綺麗な女の童が膝行り出て渡殿の方に向かった。戻ってきたときには何やら豪奢な宝箱のようなものを持った女房を連れていた。
金に輝く透かし彫りの箱で、中に朽葉色の薄物の包みが入っていた。両手で抱えるほど大きなものをぼくの前に置く。
「中をご覧になってくださいまし」
衣通の上の声がする。
ぼくは恐る恐る箱を開いた――おとぎ話ではないのだから開けたら物の怪が出てくるなんてことはないだろうが、何やら嫌な予感がした。
包みを解くと水色に染めた布を敷いた上に、金の置物が置いてあった。香木の彫刻で舟のように彫ったもの、木々のように彫ったものが飾られている。
どうやら島とその周りの海をかたどって作ってあるらしい。舟には小さな人形まで乗っていた。
舟に紙が貼ってある――
その紙を見たときぼくは大声を上げた。
「こ、これは何ですか」
「何って、四の君に贈られてきたものでございますよ。筑紫に船出するさまを写したものでございましょう。
衣通の上が小さく笑った。
『今はとて島漕ぎはなれゆく舟の領巾振る袖を見るぞかなしき
聞ゆるからに、人わろし。よしよし、聞えじ』
これでお別れだと陸から漕ぎ出てゆく舟で、領巾を振って夫を見送った
あなたとわたしの関係はもはや外聞をはばかること、世間の人に聞かれてはよくないでしょう。よろしい、もう何も言いません。
――ぼくの字だった。
そうだ、これは、いつか。
「……これは、きっと妹が仕立てたものです*1」
「なるほど、そういうわけでございましたか。美しいお別れの文だと思いました」
「美しい別れだって」
かっと怒りがこみ上げ、思わず立ち上がった。
「別れるつもりなんかないぞ! い、妹が勝手に! こんな、どういうつもりで!」
「気のつくお方ではないですか」
「気がつくだって!?」
「子までなしておきながら自然と離れて消えて失せた、では決まりが悪うございますから」
「消えて失せるつもりなんかぼくにはない!」
――美しい和歌。黄金と薄物と香木。
妹はこういうやり方を、宮中で憶えたのだろう。
豪奢で気の利いた細工物と歌と。
「見た目が美しく整っていればいいのか! ぼくは何も納得していないぞ! ぼくの心はこんなものではない!」
「ならそうおっしゃい、新たな夫を迎えた我が妹とあなたが見たこともない十一の姫に!」
女の声がぼくを打ち返した。
「歌が詠めないなら、気の利く言い回しができないのならそのままに! 何も偽らぬそのままのあなたさまで、我が妹の心をとらえられると思うのならそのままに!」
――頭がぐらぐらする。へどを吐きそうだ。
いや、これは。
ぼくは、気がついたら。
涙をこぼしていた。
「――気の毒な人」
衣通の上が何か言っている。
「あの方は、道頼さまは本当は
――だが、書いた。
「
――何だよ、それ。
「愚かなお話。詫びて償えばなかったことになるだなんて、十一の姫が聞いたら何と思うでしょう」
――何だよ、それ。
「道頼さまは気立てがよく育ちのよいお方。この世の無情というものをご存知なかった。だからそのときまでご自分がそれほど非道な行いができると知らなかったのでしょうね。――本当に気の毒な人。あなたもあの方も」
――何だよ、それ。
この期に及んで自分の夫を庇うのかよ。
「――ぼくは何だと言うんだ」
「それはご自分でお名乗りあそばせ、
かつて。あまりに人に嘲られ、笑われるので、透明人間になりたいと思った。心の底から。
あれから十余年。今やぼくは何者でもない。
おめでとう。あの頃の願いは叶った。
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