巻の六 真打ち登場

 それから十年ほど、ごろごろと寝て暮らしていた。二十を過ぎるとあっという間に歳を取るものだ。

 最初はあの恐ろしい道頼に殺されるのではないかと怯えていたが、だんだんどうでもよくなって、惰性でごろごろしていた。虚無の十年だった。



 ある日、宮仕えをしているはずの妹が部屋にやってきた。


「お兄さま。手紙を書いてくださいまし。わたくしの言う通りに」

「手紙?」


 不思議には思ったが、面倒くさいので書いた。何だかやたら小さな紙で書きづらかった。


『今はとて島漕ぎはなれゆく舟の領巾ひれ振る袖を見るぞかなしき

 聞ゆるからに、人わろし。よしよし、聞えじ』


 相変わらず和歌というのはよくわからない。ヒレって何。この時代には辞書もないし。「かなしい」って「悲しい」と「愛しい」の二つ意味があるんだぞ。これ、読みやすく漢字を当ててるだけで全部ひらがなで書いてあるんだぞ。本当に何なんだよ。



 それでまた三日ほど経った頃、今度は従者の利秋が何やら深刻そうな顔でやって来た。


「あのう、御曹司。いいんですか」


 曹司とは部屋のこと。御曹司とは「父親の邸の曹司に住んでいる息子」。若いならともかくこの年齢になるといい加減厭味だ。


「何が」

「ああやはりご存知ない」


 こいつの他に世間話をするような相手もいないからな。世間に興味なんてないし。利秋は気まずそうに切り出した。


「……ええと。かつておつき合いのあった源中納言さまの四の君さまが、筑紫権帥つくしのごんのそちの中納言さまとご結婚なさったとか」

「え?」

「御子をなしたお相手が再婚するというのはそのう、何もなさらなくていいのですか。リアクションというか」


 思いもかけない話に、声を失った。

 愕然としてものも言えないぼくに、利秋は一つ一つ説明を始めた。


「源中納言さまは大納言におなりで、少し前に亡くなられました、七十を過ぎていたので大往生です。それでそのご令息は越前の守ですが、それより身分の高い、姫君の聟の左大臣さま……御曹司のご親戚の道頼さまがすっかり家の主も同然ということになっていたのですが」

「そ、それってその」

「これは元々、姉姫さまに聟入りしていた道頼さまが四の君さまに持ってきた縁談でしたが、それがあの」

「ぼくから何もかも奪うのかあの男は!」


 あの道頼の名前を聞いただけでぼくの目の前は真っ暗になって、利秋の話す声も聞こえなくなった。数十秒のことだろうか。


「――そちさまは四十であられますが近頃、北の方を亡くされ、お子らを伴っての筑紫下向にあたって再婚相手を探しておられたと」


 筑紫権帥は九州の長官。九州の長官は帝の皇子が任されることもある重要なポスト。相当に身分の高い上達部かんだちめ、都に掃いて捨てるほどいる貴族の中でも選りすぐりのエリート。――一方ぼくは何せ宮中に顔を出していないのでもう多分、兵部少輔でもない。


「四の君さまは今、左大臣さまの二条の邸においでですが、今日明日にも帥中納言さまとともに筑紫の国に下られるとのこと」


 諸国代官の単身赴任は結構あったが、勿論、妻子を連れていく方が圧倒的に多い。

 ――いてもたってもいられなくなった。


「車! 牛車の支度を!」

「いやあの。そういう目的で真正面から行っても多分入れてくれないと思います。大体、道頼さまと気まずくなってたじゃないですか。何かこそっと忍び込む方法をですね」

「任せる!」

「え、いや、わたしに任せられても……せめて暗くなってから行ってみては」

「そうする!」


 思えば四の君のもとに通い始めたのも暗くなるのを待ってからだった。



 牛車を使うと目立つのでこっそり歩いて近づいたが、二条の左大臣邸とやらは夜でも煌々と灯りを焚いていたので道に迷う心配はなかった。

 ――こちらが明るくて便利だと思うということは、向こうも明るくて便利だというわけで。

 邸宅がやたら広くてそういえば四の君がどこにいるのか知らない、とかそういう問題ではなかった。塀の隙間から入り込もうとしたらあっという間に警護の侍に袋叩きにされてしまった。


「待った、待った、ここは道頼の邸ではないのか、ぼくは親戚の者で」



 いきなり殴られたせいで一瞬で何をしに来たのかを忘れ、みっともなく言いわけをしていると。


「何だ、賊か。よろしい、我が成敗してくれる。我は大納言・源忠頼みなもとのただよりが三男、近衛の少将・景政かげまさであるぞ。我が姉は左大臣・道頼公のだ*1」


 渡殿わたどのの方から声がした。


「我も武官なれば、太刀にてお相手しようではないか。弓射がよいか?」


 ……何かまた、一層キラキラした新キャラが通りかかったようだった。実に立派な直衣姿で目鼻立ちも麗しい、まぶしいような好青年。二十くらいだろうか。

 道頼の弟や息子にしては歳が合わない。って源大納言の三男って自分で言ったよ。ということは四の君の弟?


「ああ、あの。違うのです」


 ぼくは必死で、しどろもどろで弁明した。


「ぼくは賊ではなく、ええと、忠頼さまの四の君の聟で」

「四の姉上の?」


 好青年は眉をひそめた。


「出鱈目を申すな、姉上の聟君は帥さまだ」

「だからぼくはその前の、ええと――」


 何と説明したか迷っていると。


「少将さま。そちらは左大臣さまのご親戚のお方です。狼藉はおやめくださいまし」


 横からしずしずと若い女房がやって来て、涼しげな声で口を挟んできた。……全然知らない人だ。


「暮らし向きにお困りで、密かに衣や米など用立ててくれるようお願いしにいらしたのでしょう。わたくしどもでお相手いたしますから、左大臣さまのためにもおおごとになさらないでくださいまし」

「そ、そういうものですか」


 美青年少将は戸惑ったようだった。――さっぱりわからないが、女房は助けてくれるらしい。


「こちらへ」


 と扇で対屋たいのやを指し示す――侍たちと少将とやらは目配せをしたが、特に何も言わなかった。ぼくはびくびくしながらきざはしを上がり、女房について対屋に上がった。

 ひさしでしばし待たされた後、奥へと通された。――御簾の下りた奥に、それはかぐわしい薫香の香り漂う貴女がいる気配がした。

 ……あれ。ぼく、こんなにちゃんとした感じで身分のある女の人に会うの、生まれて初めてなのでは。母親と妹以外で会ったことある女、女房ばっかりだし。四の君は道頼がお膳立てしていたのでこんなことしてないし。ヤバい。手汗がにじんできた。


「面白の駒――兵部少輔さまでいらっしゃいますね」


 凛とした声がした。女房に代わりに喋らせているとは思えなかった。*1

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