巻の三 人生最大の試練

 ――正直、何だかふわふわしていてあまり記憶がない。「こんなものか」とも思ったし「こんなにも!」とも思った。

 ただ、真っ暗な時間帯にやってきたのだから夜明け前、明るくなるより前に出ていかなければならないことだけ気がかりだった。ぼくはダラダラ無限にいつまでも寝てしまう人間なので。――流石に赤の他人の家で熟睡できるほど神経が太くなかったらしく、全っ然眠れなかったけど。


 来たときほどではないが、ガチガチに緊張して衣装を整えて御帳台を出、牛車に乗り込んだ。帰り道も何だかふわふわしていた。

 ――父の邸に帰り着いた頃には別の問題がぼくを待ち受けていて、今度はガチガチ歯を鳴らしていた。


 アレだ。この後、アレがある。

 部屋に戻ったもののいつも通り寝るわけにもいかないし。かと言って何も思いつかないし。頭を抱えていると、


「御曹司、道頼さまからお手紙です」


 従者の利秋としあきの声が天の助けのように思えた。


『首尾はどうだった? 後朝きぬぎぬの歌は?』


 ――それだ! 後朝の歌!

 一夜を過ごした後には、男から女に恋歌を送り、女が返事を返す。これ常識。正式な結婚だろうが遊びだろうが不倫だろうが何だろうが関係ない。恋愛は歌に始まり歌に終わる!

 ……だが普段やっていないことが突然できるようになるはずもなく、語彙力のなさにうめいていた。「マジ尊い。推せる」とかでは駄目なのはわかっている。五七五七七ってどうやって書くの。リリックとかライムとかフロウとかパンチラインとかマジ無理。本当勘弁して。

 なので必死で道頼に返事を書いた。


『ゆうべは誰も笑わなくてよかったです。それはそうとして後朝の歌が思いつきません! 助けて!』


 恥も外聞もない。取り繕っている暇がない。

 幸い、道頼からの返事はすぐに来た。


『ではわたしが考えたのをお書きなさい。


 世の人のけふのけさには恋すとか聞きしにたがふ心地こそすれ

 たままくくずの』


 ――うん! 全然意味わからん!

 わからないけど恋愛脳のパリピが考えたからには何かすごい平安ハイコンテクストな意味があるんだろう! 『恋す』って入ってるし!

 間違えないように必死で丁寧に、字が綺麗に見えるように筆圧も高く書き写した。


「これ、中納言家の四の君に!」


 手紙と言っても郵便とかないので家来に持っていかせる。届け間違いが多いので、一番気のつくやつにちゃんと言い聞かせなければならない。正式な結婚の後朝の歌となると、届けに行くやつにも婚家から衣だの酒だのご馳走だの褒美がふるまわれる。こうして平安王朝経済は回っていた。

 その手紙を持っていかせてから、ぼくはほっとしてもう一通、手紙を書いた。勿論道頼に。


『ありがとうございます! 超助かりました、何もかもあなたのおかげです! ブサに親切なあなたにはきっと幸運があるでしょう! 本当に感謝してるんですよ!』


 大絶賛したつもりだったが、道頼からの返事はなかった。

 一方、中納言家からは、


『老いの世に恋もし知らぬ人はさぞけふのけさをも思ひわかれじ

 くちをしうとなむ、女は思ひきこゆる』


 返歌が届いたが――やっぱりわからん!

『老いの世に』って何でここでお年寄りの話が出てくるんだろう。本当に平安ハイコンテクスト文化、キツい。日本語でお願いします。

 こういうとき女側はチョロいと思われないようにキツめのツンデレで返すものだと言う。古の諺に言う〝嫌よ嫌よも好きのうち〟だ。察しと思いやりの忖度文化はこの頃から。正直面倒くさい。


 いやいや、結婚はこれからだ。今晩が第二夜で明日が第三夜、三日の夜の餅を食べて露顕の宴をして、本格的に中納言家の人間になる。新しい家族ができる。――あちらの家に住むとなったらもうこの景気の悪い実家とおさらばだ。

 中納言はもしかしたら「うちの聟を馬呼ばわりするとは無礼な」と世間の皆を叱ってくれるかもしれないし……そうなれば宮中に出仕できるようになるかもしれないし……ぼくもちゃんと人間扱いしてもらえるかもしれないし……

 こうしてぼくの、人生で一番素晴らしい日が終わろうとしていた。

 本当にぼくにとっては幸せな日だったんだ。

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