第02章 『前園幸助は困惑する』 - 03

 俺が住んでいる二階建ての木造アパートは、日当たりが悪く、年中じめっと湿った空気が渦巻いている。築五十年ということもあってか、周囲の建物に比べて一際暗い印象を放っていた。


 立地自体はそれほど悪くなく、最寄り駅から徒歩五分でたどり着くことができるが、俺はその日、あの少女にあとをつけられないよう、念のため二十分かけてここへ帰ってきた。


 錆びついた集合ポストの横を通り過ぎ、二階へ続く階段に差し掛かったところで、廊下の奥まった場所にある部屋の前に二人の人影を見つけた。


 一人はこのアパートに住んでいる二十歳前後の男で、特に知り合いというわけではないがたまに顔を合わせることがあった。


 もう一人の若い女は見たことはないが、男と仲良さげに話している様子を見る限り、どうやら男の恋人のようだった。


 わいわいと廊下で盛り上がっている二人を横目に階段を上がり、自室がある二階へたどりつくと、不意に前方から四十代前後の女が現れた。


 女はこのアパートの大家で、肉付きがよく、派手な柄シャツを身に纏っていた。


 大家はこちらの存在に気づくと、どこか不機嫌そうにじとりと視線を向けてきた。


「あら、前園さん。もう帰って来たの? 大学は?」

「今日は休講になったんで帰ってきました」

「そう。いいわね、大学生は暇で」


 その棘のある物言いに抵抗を感じつつも、愛想笑いと会釈で大家の横を通り過ぎようとすると、大家は不満げに一言付け加えた。


「あ、そうそう前園さん」

「なんですか?」

「ゴミ出し、もう少しきちんとしてくれる?」

「ゴミ出しですか? ……いや、きちんと分類して、回収日も守ってますけど」

「カップラーメンの容器。あれね、ちゃんと洗って出してくれないと環境に良くないから」


 わざわざゴミ袋を開けて確認しているんですか、と問いたくなったが、角が立つのでぐっと言葉を呑み込んだ。


 一年以上もこのアパートで暮らしていると、大家からの度を越した忠告などは日常茶飯事だった。目まぐるしくここの住人が入れ替わるのは、ほとんどこの大家が原因だろう。


「……すいません。これからは気をつけます」

「ほんと、ちゃんとしてよね。どうせ暇なんだから」

「はぁ……」


 適当に生返事をすると、大家は一応満足したのか、そのままずかずかと階段を下って行った。そして大家とのやりとりにため息をついてから部屋に向かおうとすると、今度は一階から、また大家の苛立った声が聞こえてきた。


「ちょっと田中さん! このアパートは部外者立ち入り禁止ですよ!」


 どうやら大家は、先ほど一階で見たカップルが廊下で話し込んでいたのが気に食わなかったらしく、中々の剣幕でまくし立てている。


「それに女なんて連れ込んで……。うちはラブホテルじゃないんですからね!」


 そんな品のない大家の怒声から逃げるように、俺はそそくさと廊下の一番奥にある部屋の扉を開けた。


 パタンと扉を閉めても、少しの間大家の声が聞こえてきたが、荷物を部屋の隅に置いて、冷蔵庫から麦茶を一杯飲み終わる頃にはもうすっかり静かになっていた。


 十畳にも満たないこの部屋のおよそ半分を占拠するベッドに腰かけると、正面の壁一面にある本棚が目に入るが、次々と増えた新しい本はその許容量を超え、床やパソコンラックを侵食し始めていた。


 だが、その本棚には一段だけ、一冊も本を置いていない場所が存在した。


 そこに目を向けると、俺がこれまで受賞した計四つの賞状が、額縁に入れられてこれみよがしに飾られていた。


 四枚の賞状のうち三枚は、中学の頃、地元の新聞社が開催していた短編小説のコンクールで獲ったもので、三年間、毎年最優秀賞を受賞し続けた。


 そして残る一枚は、そこそこ有名な出版社で大賞を受賞した時の物で、俺が小説を書けなくなるきっかけを作った賞だった。


 どうしても小説のラストが書けなくなった俺は、自分を鼓舞する意味も込めて賞を飾ってみたりもしたのだが、これといって効果はなかった。


 賞状が並んでいる棚のすぐ下の段にはぴっちりと本が並んでいて、その真ん中にある一冊の文庫本を取り出した。


 その本のタイトルは、『思い出の刃』。最初で最後の、書籍化された俺の小説だった。


 本の上には埃が被っていたが、それを払いのける気も、ページを捲る気もさらさらなかった。ただそのまま手に持って、じっと表紙を眺めた。


 木漏れ日が差し込む中、ブランコに座って背中をこちらに向ける男。その男の視線の先には、かつて自分が住んでいた大きな屋敷がある。細い線と繊細な色使いで描かれた水彩画だ。


 そんな、どこか哀愁が漂うイラストを見ていると、頭の中で、いつか見聞きした文言が浮かび上がった。


『特にラストがおもしろかったよ』『あの最後には驚かされた』『お前って才能あったんだな』『この新人作家の将来が待ち遠しい』


 それは全て、『思い出の刃』を読み終えた読者の声で、それは何度も、壊れたラジオのように俺の頭の中に響き渡った。


 そしてその壊れたラジオに、新しい文言が追加された。


『お願いします! 私が死ぬまでに、『約束の矛先』を完結させてください!』


 その声に苛立ち、咄嗟に持っていた『思い出の刃』で、目の前に並んでいた四つの賞状を全て払いのけた。


 本棚から飛んでいった賞状は、カタンカタンとむなしくなるくらい軽い音を立てて床に落ち、手からすっぽ抜けた『思い出の刃』もそこらへんに転がった。その表紙に描かれている男の背中が、より一層哀愁を漂わせているように見えた。


 誰も、俺の気持ちなんてわからない。


 その悪意のない言葉の一つ一つが、どれだけ俺の心に突き刺さるかなんて、きっと想像もしていないのだろう。


     ◇  ◇  ◇


 ピンポン、とチャイムの音が鳴ったのは、俺がちょうど床に散らばった賞状を拾い集めようとした時だった。


 作業を中断し、そそくさと玄関扉まで行くと、のぞき穴から外の様子を確認した。


「……は?」


 思わずそんな間抜けな声が漏れたのは、そこにさっきの少女がいたからだ。


 少女はじっとこちらを見つめていて、俺がのぞき穴を見るや否や「あっ」と小さく声を上げた。


「今、そこにいますよね? 光の加減でわかります」


 ギクリとして扉から離れるが、少女の声は続いた。


「……家まで押しかけてしまって本当にすいません。でも、さっきの話の続きがしたくて……」


 いったいなんなんだ……この子……。まさか、家までつけてきたのか? ……いや、そんなはずはない。駅からここまで遠回りして帰ったし、ずっと後ろにいないかは注意していた。……それなのに、どうしてこの家がわかったんだ?


「あの、聞こえてますよね? 前園さん? 前園さーん! おーい!」


 なんで俺の名前まで知ってるんだ……。表札には名前は書いていないし、俺は名乗った覚えもない……。なんだ? なにが、どうなってるんだ?


 少女は俺の名前を呼びながら、ゴンゴンと玄関扉を叩き始めた。するとそのうち、廊下の奥の方から、カツカツと階段を上ってくる人の足音が聞こえてきた。


 まずい……。この足音は、大家だ……。こんなところを大家に見られたら、さっきのカップル以上にどやされるぞ……。いや、しかも相手は女子高生だ。さらに厄介な事態になりかねん……。だけど、このまま無視して知らぬ存ぜぬを貫き通せばなんとかなるか――。


 そんな自己保身の考えを頭の中に蔓延させていると、少女はピタリと扉を叩くのを止め、ボソッと小さく呟いた。


「もしもこの扉を開けてくれないのなら、このアパートの大家さんに、私と前園さんは恋人同士だと嘘をついてしまいますよ? そうなれば困るでしょう? いろいろと」


 こいつ……ほんとになんなんだよ……。


「扉を開けるなら早くしてください。もう大家さんが来ますよ」


 そして、考える時間すら奪われた俺は、しぶしぶ扉を開け、階段を上がってきた大家から少女を隠すように部屋へ引っ張り込んだ。


 その様子を大家に見られなかったかしばらく扉の前で音を聞いて警戒していたが、大家の足音はすぐに一階へ戻って行った。


 ひとまずほっと胸を撫で下ろすと、まんまと部屋に上がり込んだ少女が、なにやらスマホに向かって話しているのに気がついた。


「……はい。……はい。大丈夫です。入れてくれました。……いろいろありがとうございます、鈴寧さん。……では、また」


 そう言えば、さっきのぞき穴から見た時もスマホを耳に当ててた気がする……。ということは、この状況でずっと誰かと話していたのか?


 少女は耳に当てていたスマホを学生鞄にしまうと、「さて」と、靴を脱ぎ、そのまま勝手に部屋の奥へ進んで行った。


「おい。勝手に上がり込むな」

「何言ってるんですか、前園さん。私を引っ張り込んだのは前園さんでしょう?」

「いや……それは――」

「未成年である女子高生を、乱暴に部屋へ連れ込んだのは前園さんでしょう?」

「誤解を招くように言い換えるな。……俺がお前を部屋に入れたのは、お前が脅してきたからだろう」

「そうでしたっけ? もう忘れました」

「……とにかく、大家に見つからないように帰れ」

「嫌です」

「嫌って……お前、ほんと何がしたいんだよ」


 そう言うと、少女は本だらけの俺の部屋で翻り、わざとらしく笑顔を作ってこちらを見つめ返した。


「忘れたんですか? あなたに、小説を書いてもらいに来たんですよ」


 そんなことを言われれば普通、小説を書いている者としては嬉しくないはずがない。けれど、謎ばかりの少女にそんなことを言われたところで、俺の胸中には疑惑の二文字しか浮かばなかった。


 少女は「それと――」と付け加える。


「私の名前は夢月れいかです。お前ではありません。どうぞれいかと呼んでください」

「……とにかく、夢月さん。できればさっさと帰って――」

「れいかです。れ、い、か」

「……れいかさん」

「なんですか、それ。前園さんの方が年上でしょう? さんはいりません」

「……れいか?」

「はい。私がれいかです。以後お見知りおきを」


 最近の女子高生は、みんなこんな感じなのだろうか?


「じゃあ、次は前園さんの番ですよ。自己紹介をしてください」


 人に名前で呼ぶように言っておいて、自分は苗字で呼ぶのか……。


「自己紹介って……もう前園って言ってるじゃないか。……というか、どこで俺の名前を知ったんだよ。郵便ポストにも、表札にも、名前は書いてないはずだぞ」


 れいかはさっきスマホをしまった学生鞄をぽんぽんと叩きながら、


「私には優秀なサポーターがついているんです。どんな情報であれ、彼女にかかれば一発で調べてくれますよ。……ちなみに、あなたの家の住所も、ここの大家さんにいろいろと問題があることも、全て彼女が教えてくれました」

「個人情報保護法って知ってるか?」

「そんなの、もうじき死ぬ私には関係ありませんよ」


 そう言われて、ようやく少女の置かれた立場を思い出した。あと六日もすれば死んでしまうという、彼女の立場を。


 でも、本当にこんな元気そうな奴が死んだりするのか?


 そんな疑問に眉をひそめると、俺の考えを察してか、れいかは「はい、これ」と一枚のカードを差し出してきた。


 それはさっき、駅でれいかと会った時に見せられた若年死亡予定証明書というカードだった。


 そこには確かに、寿命の欄に六日後の日付が記入されている。カードの作りもしっかりしていて、とても一人の女子高生に偽造できるような代物ではなかった。


 それでも、やはり目の前にいる少女があと六日で死んでしまうと言われてもピンとこなかった。


 その後もまじまじとカードを眺めていると、あることに気がついた。


 あれ? これって……。


「はーい。おしまいでーす」


 れいかはそう言うと、無理やり俺からカードを奪い取った。


「これで私が六日後に死んでしまうことはご理解いただけましたよね?」

「…………まぁ……なんとなくは」

「ではもちろん、もうじき死んでしまうかわいそうな女子高生のために、前園さんは小説の続きを書いてくれますよね?」

「いや、だからなんでそんな話になるんだよ……。自分で言うのもなんだけど、俺の小説は命を懸けてまで読むようなものじゃない。本当に六日後に寿命が来るなら、もっと他のことに使った方がいい」


 れいかは少し考え込むように目を伏せると、ため息交じりに持っていたカードをひらひらとさせた。


「……このカード、若年死亡予定証明書というんですが、これは若くして寿命が尽きると決まっている人に、その寿命が来る一週間前になったら配られるそうなんです。で、このカードを持っていると、役所の人がそこそこ特別なお願い事を叶えてくれるんです。前園さんの住所や名前も、このカードを持っているからこそ教えてもらえたんです」


 そういえば、たしかにそんなカードが存在するとか、ネットで見たことがあるな……。都市伝説の類だと思ってたけど……。


 れいかは続ける。


「ですが困ったことに、叶えたい願い事なんて一つも思い浮かびませんでした。そりゃそうですよね。私はずっと前から、一週間後に死ぬということを知っていたんです。だから心残りがないように工夫を凝らして生きてきました。それを、寿命が残り一週間になったところで願い事はないか、とか言われても……って感じですよね」


 れいかはこちらに視線を向けると、


「ただ、読みかけのネット小説が、歯切れの悪いところで止まっているのはずっと気になっていました。けどさすがに、ネット小説の続きが読みたい、なんて願い事をしても役所の人を困らせてしまうだけなので黙っていました。……ですが、今日、電車の中であなたに出会った。私がずっと続きを読みたくて仕方がなかった『約束の矛先』の作者、冬森光が目の前に現れた。これを運命だと言わずにいられるでしょうか」


 少女は、まるで嘘をついているような、大仰な物言いだった。


 そして一歩こちらに歩み寄ると、一切目を逸らさずに言った。


「だからお願いです! 私が死ぬ前に、『約束の矛先』を完結させてください!」


 れいかは一切取り繕わず、必死に、懸命に、ひたすらに懇願した。


 たしかに彼女の話を聞く限り、俺とれいかが出会ったのは運命と言っても過言ではないように思えた。


 けれど、そんなことを言われたところで、今の俺にはどうしようもなかった。


「……それは、できない」


 小説家として死んでしまっている、今の俺には。


「どうしてですか!」

「……悪いけど、もう帰ってくれないか」


 れいかは困惑するようにたじろぐと、床に転がっていた賞状にことりと足をぶつけた。


 れいかはその場に座り込み、まじまじと賞状を眺めた。


「これ、小説の賞状ですよね? もしかして前園さんって、プロの小説家なんですか?」

「……昔、一冊だけ本を出しただけだ」

「すごいじゃないですかっ!」

「いや、別にそんな――」


 興奮気味に話すれいかは、俺の言葉を遮り、近くに落ちていた『思い出の刃』を持ち上げた。


「あっ! これですよね! この賞を受賞したのって! すごぉい!」


 れいかは『思い出の刃』と、「他にもあるじゃないですか!」と、残り三つの賞状も抱えて立ち上がると、本棚の空いていた段に賞状を丁寧に並べた。


「せっかくなんですから、きちんと並べておきましょう!」

「……いや、それはもう片づけようと思ってたところで……」

「いけません! こういうのは飾っておくことに意味があるんです!」

「なんだそれ……」


 賞状を棚に戻し終えたれいかは、満足そうにうんうんと頷くと、


「じゃあ、私はもう帰りますので!」

「え? あ、あぁ……。帰ってくれるのか」


 ありがたい、と続けようとしたが、機嫌を損ねて居残られたら厄介なので言わなかった。


 れいかは目を輝かせながら、さっき拾った『思い出の刃』をがっしりと握りしめ、


「私は家に帰ってこれを読まなければいけません。明日には必ず返しますのでご安心を」

「ちゃっかり明日も来る宣言をするな。その本はやるからもう来ないでくれ」

「そういうわけにはいきません! 必ずお返しします!」


 頑なだなぁ……。


 明日は一日中大学で時間を潰してから家に帰ろう……。


 れいかは「では、また!」と、足早に玄関扉から飛び出して行った。


 一人残された俺は、彼女が綺麗に並べた賞状をじっと眺めた。


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