第02章 『前園幸助は困惑する』 - 02
『思い出の刃』が出版された直後、担当編集から毎週のように新作のプロットを要求される日々が続いた。大賞を受賞した作家には、新作を書く義務があるとかなんとか、耳にタコができそうなほど聞かされた。
けれど、適当にプロットを書いていざ原稿の執筆にとりかかっても、やはりラストシーンに差し掛かると手は止まってしまった。
本当にこのラストでいいのか? これは、本当におもしろいのか?
そんなことを数ヵ月続けて、結局一度も原稿が完成しないでいると、いつしか、あれほどうるさかった担当編集からの連絡も来なくなり、俺は一人になった。
「で、新作はいつ出るんだよ、作家先生」
大学での講義中、となりに座った巨漢の男が、にやにやと口角を緩ませて、そんなことを言った。
俺とこいつはそれほど仲がいいというわけではなかったが、出身高校が同じということもあって、講義が被ればそれとなく話をすることもあった。
「鈴木には関係ないだろ」
「なんだよ、冷たいな。高校の時から応援してやってんだから、もうちょっと優しくしろよ」
高校に通っていた頃、俺と鈴木はほとんど話したことがなかった。けれどこの大学で同じ文学部に入った途端、突然さも親しげな雰囲気を作り、「こいつは俺の友達で小説家なんだ。ま、一冊しか本出してないけどな」と周囲にのたまった。
高校に通っていた時、賞をとったことを担任教師に報告したのが間違いだった。その教師はそのことをまるで自分の手柄のようにたたえ、全校集会で校長から滔々(とうとう)とありがたい言葉を浴びせかけられた。そのせいで、俺とまったく接点のない鈴木まで、俺が小説を書いていることを知ってしまったのだ。
鈴木は額に滲んだ脂汗を手の甲で拭うと、舌なめずりをして顔を近づけてきた。
「で、そろそろうちのサークルに顔出す気になったか?」
俺と同じく、二回生に上がった鈴木は、最近になって文芸サークルに所属した。そして、そのサークルに来るよう何度も誘いをかけてきた。
おそらくこいつは、一応プロの作家である俺と友人関係にあると周囲に吹聴することで、学内における自分の地位を少しでも向上させようと考えているのだろう。
「だからそういうの興味ないって言ってるだろ。それより、お前はサークルでどんな小説を書いてるんだよ」
「いや、部外者に見せるのはちょっと……」
この鈴木という男は承認欲求が激しいわりに、決して自分で小説を書こうとはしなかった。だから大抵、この話題を出すと鈴木は黙り込む。
ようやく雑音が消えたことに満足しつつも、小説を書けないという点で俺と鈴木は同じところに立っているのだと思うと、なんだか無性に悲しくなった。
◇ ◇ ◇
朝一の講義を終え、文学部の連絡事項が載っている掲示板に目を通すと、昼過ぎの二コマある講義が休講になったと書かれていた。昼までにはまだもう一つ講義が残っていたが、なんとなくやる気を削がれ、そのまま帰路についた。
帰り道。電車に揺られながらスマホを開き、ネット小説のサイトに飛んだ。
担当編集から連絡が来なくなって一年以上が過ぎた。改めて他の新人賞に投稿してみようとも思ったが、やはりラストシーンになると急に書けなくなった。
ネット小説で毎日少しずつ書けば、もしかしたらそのまま流れで完結させることができるのではないかと考え、ペンネームを『冬森光』に変えて小説を投稿した。自分を追い込むため、書き始める前に総話数を定め、それを公言した。
けれども、いざ残り三話で完結するところまで来ると、途端に手は止まった。じっとりと手のひらに汗が滲み、動悸がして、言いようのない不安感が胸中に蔓延した。
頭の中で、『思い出の刃』を読んだ高校の友人たちの声や、ネットに書き込まれた批評などが次々と現れる。
『特にラストがおもしろかったよ』『あの最後には驚かされた』『お前って才能あったんだな』『この新人作家の将来が待ち遠しい』
違う。違うんだ。俺はあんなラストを書きたかったわけじゃないんだ。
心の中で、誰にも聞こえない言い訳を並べるばかりで、小説は遅々として進まなかった。
俺はもう、小説家として死んでいるのだ。
車内アナウンスが目的地の駅名を告げると、俺はスマホをポケットに入れ、そのまま扉の前に立った。
ゆっくりと電車が止まり、扉が開くと、そのままさっとホームに降りた。
鬱々とした心持ちでホームを歩いていると、不意に、後方から早足でこちらに走り寄ってくる足音が聞こえた。それは最初、すぐに俺を追い越して行くのだろうと思っていたが、どういうわけか、足音は俺の後ろにぴったりとついてきた。
そして、その足音から、随分可愛らしい少女の声が飛んできた。
「あ、あの!」
呼び止められ、振り返ると、そこには学生服姿の少女が立っていた。
ところどころ寝ぐせで跳ねた黒く長い髪。顔色は驚くほど白く、華奢な体つきも相まって、触れたら壊れてしまいそうなほど淡い存在に感じられた。
じっとりと額に汗を滲ませた少女は、まるで懇願するように俺を睨みつけている。
その顔に見覚えはなく、女子高生の知り合いもいないので見当すらつかなかった。
そのまま少女の言葉を待つが、何故だかだんまりを決め込まれ、仕方なくこちらから言葉を繋げた。
「えっと……どちら様? 俺に何か用?」
その一瞬、少女は酷く落ち込んだような表情をした。
その意図をくみ取ることができないでいると、少女は何かを決心したように、再び俺を睨みつけ、こう言い放った。
「お願いします! 私が死ぬまでに、『約束の矛先』を完結させてください!」
その見覚えのない少女が、どうしてそんなことを言ってくるのかわからなかった。けれど、かっと見開かれた少女の瞳は、俺を捉えて離さなかった。
少女は不安そうな顔でたずねる。
「あの……冬森光さん、ですよね?」
冬森光は、俺がネット小説で使っているペンネームだった。けれど、そのことを誰かに話したことはない。
訝しげに思い、そのまま黙っていると、少女は俺のズボンのポケットを指差した。
「その、さっき、スマホを見てしまって……」
「スマホ?」
「はい。冬森光さんのマイページが表示されていて……。あれって作者の人しか見られないですよね?」
たしかに少女の言う通りだった。あのページを見れば、俺が冬森光というペンネームでネット小説を書いていることはわかる。
だが、だからといって普通、声をかけて来たりするだろうか?
それに、さっき言ってた『私が死ぬまでに』ってどういう意味だ?
俺の頭の中の整理がつく前に、少女はポケットから一枚のカードを取り出した。そこには、若年死亡予定証明書、という文字と、少女の生年月日や住所、そして予定寿命が克明に記載されていた。
そしてその予定寿命を見て、俺はようやく少女の言葉の意味が理解できた。
少女は、まるで他人事のように言った。
「見ての通り、私はあと六日で死んでしまいます。だからその前に、『約束の矛先』を完結させてください」
「……いや、そう言われても」
「お願いします。このままでは心残りができて、死んでも死にきれません」
「心残りって……そんなに俺の小説が好きなのか?」
「……もちろんです。死んでしまいそうなほど好きです」
ブラックジョークのつもりだろうか……。あんまり笑えないけど。
「……寿命が残り少ないのは同情するけど、だったらもう少し有意義に使った方がいい」
「有意義になるかどうかはあなた次第です」
「だからどうして俺が……」
「もうじき死ぬいたいけな女子高生が頼んでるんです。書いてくれますよね? 続き」
「いや、だから……」
「ね?」
突然目の前に現れた見知らぬ少女。いわく、少女はあと六日の命らしい。そしてその少女は、俺がネットに上げている小説『約束の矛先』のラストを書いてくれと頼んできた。
何もかもが突然で、まるで出来の悪い小説を無理やり読まされている気分になった。
……だが何にせよ、俺に少女の願いを叶えてやれる度量がないことに違いはなかった。
何故なら俺は、とっくに小説家として死んでいるからだ。
「悪いけど、その頼みを聞くことはできない。他を当たってくれ」
そう言い放ち、踵を返して足早に改札口へ向かうと、後方から、少女の声が追いかけてきた。
「ちょっと、待ってください! 話はまだ――」
俺は少女から逃げるように、駅をあとにした。
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