第49話 柿の葉茶

 春目はいつも余裕が無さそうに見える。

 初めて会った時も、中背の小熊の顎くらいまでしかない小さな体には大きすぎる冷蔵庫を。小口荷物用の台車で運ぶべく奮闘し、押しつぶされそうになっていた。

 体も栄養の足りてなさそうな痩せぎすで、身に着けている物は決まって欧州小説に出てくる貧民の娘が着ていそうな厚手木綿のワンピースに、爪先の革が剥げた安全靴。

 彼女の金銭状態がどうなのか詳しくは知らないが、いつも孔雀のように着飾った竹千代や、鷲のような生命力を窺わせるペイジの後を必死でついていっている、アヒルのような女。

 今も小熊が整備したおかげで、今まで固着し動かなかった変速装置が使えるようになったにも関わらず、荒い息を吐きながら、ふらつく自転車を漕いでいる。


 道路に面した敷地に出た小熊は、自分の家を振り返った。元は老朽した木造平屋ながら、今では奨学金頼りの大学生には不相応なほどの贅沢気分を味わえる家と、バイク好きには理想的な趣味の時間を楽しめるようになったガレージ。

 加えて今では二台のカブを所有し、セカンドマシンとして乗っている自転車も、売ればそこらの量販店に並んでいるシティサイクルよりずっと高値がつくというパナソニックの実用自転車。

 これらの生活を、小熊は全て自分の力と人脈で手に入れてきた。親も無く資力も無く、ないないの女の子だった頃から、一台のカブを機に積み重ねてきた生活の余裕。


 今、この家に近づいてくる春目という女は、どんな人生を過ごしてきたんだろうかと小熊は思いを馳せた。自分と同じく、満たされた環境とはほど遠い境遇だったと竹千代から聞いている。そして彼女は、小熊が出会い、手に入れた物を得られないまま苦難の十代を過ごした末、竹千代と出会い、ペイジや小熊と巡り合った。

 春目はまだ暑いというには早い気候の中、小熊なら自分の変速ギアのついていない自転車でも片手ハンドルで登れるような坂を、汗まみれになって漕ぎ登っている。


 自転車はようやく坂の頂上に達し、春目は小熊の家の前を通る道路に自転車を乗り入れた。あの自転車は数日前、小熊が善意というほどでもない暇つぶしと好奇心で調整を行い、今は快調に動いているが、そのうち日常整備では直しきれない部分が壊れ、修理の技術も店で直して貰うす金も無い春目には維持できなくなるだろう。自転車を買い直す余裕などあるわけもない。きっと彼女をそういう不幸な星の下に置きたがる神が居て、何か大切な物を手に入れる事など許さないとでも言うかのように、ささやかな幸せすら奪っていく。


 自分の目前を通り過ぎようとする春目に、小熊は手を振った。春目はなぜか申し訳なさそうに頭を下げる。小熊は先日、春目たち節約研究会の人間が自分の家を訪問する事を許可しなかった。春目の不幸に人並みの同情をしつつ、他人が自らの生活に入りこむ事を拒絶した。  

 春目はそのまま自転車で小熊の家を通過する。平地で自転車を漕いでいるのに、なにか重荷を背負い上り坂と戦っているかのように、苦難に満ちた表情。自転車の前カゴにはドンゴロスと呼ばれる土嚢や建築資材入れとして使われている麻布の袋が入れられ、中には雑草が詰まっている。


 竹千代が言うに、生まれついて拾い物の嗅覚を有しているという春目は、普段から多摩の里山を自転車で走り回り、食用や薬用、染色に使える野草を探し回っているというが、既にあちこちの山道を走り回り、野草を摘んできたと思しき春目は、町田市北部の丘陵地帯に向かっている。さらに収穫の手を広げようとしているらしい。

 春目は以前、節約研究会の部室で言っていた。ノビルやゼンマイ、タンポポやフキノトウなど、春の野草が撮れるこの時期は、これからの生活を楽にするため、少しでも食用の草を摘んでおきたいと。


 春目が手に入れようとしている生活の余裕は、きっとまた再び奪われていくだろう。神が百頭の羊を活かすため選んだ、一頭の迷える羊の人の上に暗く輝くという不幸の星に、あるいは彼女自身の破滅的な潜在意識に。

 自転車が壊れるかもしれない。栄養の欠乏で倒れるかもしれない。意外と車の流れが速い山中の道路で轢き逃げでもされるかもしれない。人はいとも簡単に不幸に落ち、あっさりと死ぬ。

 我が家の敷地。誰にも邪魔されぬ幸せで満たされた場に立っていた小熊は一歩足を踏み出した。目前を通過する自転車に声をかける。

「春目」


 春目は自転車を停め、振り返った。来るなと言われたのに、やむをえずこの道を通ってしまった事を申し訳なく思っているような表情。きっと彼女は、今から自分に不幸をもたらす神に出会った時も、同じような顔をするんだろう。

 小熊が手招きすると、春目は自転車を押し、おそるおそる道路と敷地の境目に自転車を寄せる。何か怒られるものと思いこんでいる春目に小熊は言った。

「今ちょうど出来上がったバーに誰か招きたいと思っていた」

 

 春目の顔が明るくなった。小熊が玄関から家の中に招くと、自転車を家に寄せて駐めた春目は、安全靴の紐を解いて嬉しそうに部屋に上がってきた。ドアを閉める仕草を見るに、もしかして春目はこの家に似た木造平屋に住んでいたことがあるのかもしれない。その時の記憶からイメージした室内の雰囲気とは異なるインテリアを見回し、感嘆の表情を浮かべている。

「なんだかお店みたいです」

 小熊はバーカウンターの前に置かれた、一人暮らしには多すぎるスツールの一つを勧めながら言う。

「客は来ないけどね」

 カウンター内のキッチンに入った小熊がコーヒーを入れるため、パーコレーターを出したところ、スツールから降りてカウンターの中に入って来た春目は言う。

「あの、よかったらお茶はわたしに任せてください」


 春目は雑草の詰まったドンゴロスの袋に手を突っ込み、小さな革袋を取り出した。

 アンデスの高地民族がコカの葉を入れていたような袋をひっくりかえした春目は、中に詰めてあった茶色く枯れた葉を掌に落としながら言う。

「去年この山で採った柿の葉です。柿は渋柿ですけど、干した葉は煎じて飲むとおいしいんですよ。殺人事件が起きて立ち入り禁止だったんですが、地主の人が特別に入れてくれたんです」

 色々と言いたい事があったが、お茶についてさほど詳しいわけでもないので春目に任せた。


 淹れられたお茶は独特の爽快感があって美味だった。小熊はバーカウンターの下にある棚から、先日大学付近にあるアンティークショップで買ったばかりの砂糖壺を取り出してカウンターに置く。柿の葉のお茶の苦みは小熊には楽しめるものだったが、春目は苦いものしか知らないように見える。世の中には甘い物もあるという事を知ってほしかった。

 お茶に砂糖を入れた春目は、甘いお茶を気に入った様子。小熊と春目はお茶を飲みながら少し喋る。二人ともあまり口数が多いとはいえないので、会話はさほど弾まない。

 春目から聞いたところ、彼女の生い立ちは小熊の思った通り冴えないものだった。さほど富裕ともいえない両親の間に生まれ、貧しいながら平凡な暮らしをしていたが、このまま成功に縁遠い単調な人生が続くと思われた矢先に、震災で両親が死んだ。


 住んでいた自治体の福祉担当者の怠慢で、春目はろくな扶助が受けられぬまま、高校を中退しバイトで食いつないだが、社会への適応能力に乏しい春目は暮らしに行き詰まり、この二十一世紀のご時世に餓えて死にそうになった。

 多重に襲い来る苦難にまともな判断力を失いつつあった春目が腹を満たすため、あるいはこのまま楽になるため山に入り、食べられる草をむしっていたところで竹千代に出会った。

 春目が目の前の草を何でも口に突っ込みたくなるほどの飢えに苛まれつつ、山野で素人が見つけるのが案外難しい食用可能な野草や木の実を選んで摘んでいることに注目した竹千代は春目を保護し、自身への忠誠と引き換えに大検資格の取得と、大学進学の面倒を見たという。


 世に数多く存在する悪どい組織が貧困者を取り込む典型的な手口に、小熊は飲んでいたお茶を吐き出したくなるような思いをしつつ、スツールから立ち上がった。

「自転車を見せて」

 数日前に小熊自身が点検整備した自転車は、快調な動作を示していた。ただし、自転車整備の経験は浅くともカブをそれなりに弄り回した小熊は、機械の状態とは目に見える物だけでは無いことくらい知っている。


 小熊は自転車フレームのシートポストを強く引っ張った。微かな異音と嫌な感触。やはりシティサイクルによく使われているアルミフレームにクラックと呼ばれるヒビ割れが発生している。

 日常使用には問題の無いレベルで、ほとんどの自転車ユーザーは用済みになって処分するまで気づかない程度のクラックだが、春目の使い方が普通とは限らない。他にもあちこちを触ってみると、廉価な自転車の各部は老朽、劣化していて、いずれ致命的な破損を起こす。

 小熊は自転車を見た、それから春目を見る。自分を殺すかもしれない自転車に、愛着のこもった目を向けている、きっと竹千代のことも同じような目で見ているんだろう。


 小熊の頭の中で、色々な感情が交錯した。もしかしたら自分もそうなっていたかもしれない春目の人生。遠からず訪れる破滅。先ほどバーカウンターで過ごした時間。小熊は頭を振り、コンテナガレジの中に入っていった。

 コンテナから出てきた小熊は、自分で修復したカブ50を転がしてきた。外に運び出したカブを春目の前に駐め、言う。

「これをあんたにあげる」

 春目はメッキと塗装の輝くスーパーカブをしばらく眺めていが、小熊を見て言った。

「いらないです」


 春目が原付を嫌っていることは知っている。それでも小熊は、今の春目が人生の暗く深い沼から脱するには、何か彼女に力を与える物が必要だと思った。

「乗ってほしい」

 春目は小熊の勢いに圧されたように、スーパーカブに手を伸ばす、ハンドルグリップに触れた途端、春目はその場にしゃがみこんで叫んだ。

「乗りたくないんです!」

 自分の出した声に驚いた様子の春目は、我に帰ったように平静を取り戻し、顔の皮を引っ張って縫い付けたような笑顔を浮かべながら、お茶に招待してくれた事への礼を述べ、自転車に乗って走り去った。

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