第48話 心の余白
陽が落ちるまでずっとサッカーボールを蹴り合って遊んだ後、椎を夕食に招待した。
椎は小熊が昨日作ったルンダンの辛さに目を白黒させ、冷蔵庫から勝手に出したヨーグルトをたっぷり乗せて食べている。真似したところなかなか美味い。
唐辛子の辛さもまた美味だと思っている小熊は、せっかくの刺激を緩和させるような味など加えたくないと思っていたが、辛さは一つだけではない。柔らかい辛さもまた味わう価値のある物だと知った。
椎は小熊が出した無糖の炭酸水をマドラーで混ぜていたので、それに関しては遠慮なく椎の頭を張り倒させてもらった。炭酸はかき混ぜるとただの水になる。世の中には丸めたり和らげたりしていいものといけない物がある。
食事と食後のコーヒーの間ずっと檜のバーカウンターを触りまくり「これいーなー、くださいー」と言っていた椎は、夜が深夜になる前にリトルカブに乗って家に帰った。フットサルを始めた椎は、三年の後半ずっと受験勉強をしていた高校時代より健康的な生活になったらしく、小学生のような早寝が習慣になっているという。
椎は帰り際に、ボトルを一本置いていった。ロングヴァイユのノンアルコールシードル、リンゴの果汁を何も加えることなく発酵させた発泡ワイン。
小熊は山梨に居た頃を思い出した。椎の家が営んでいるイートイン・ベーカリー。夜はしばしば酒が酌み交わされる店に小熊が招待された時は、いつもノンアルコールのシードルを飲んでいた。
バーには酒瓶が無いと物足りないですと言って椎が持ってきたシードルのボトルを、シンクの上にあるガラス戸の棚に飾る。ワインは瓶を横にして寝かせて置かないと空気に触れて早く酸化してしまうが、どうせすぐ飲んでしまうなら見栄えを優先したほうがいい。
バーカウンターの下に収納を作ったため、入居直後の様に空っぽになった棚は、シードルの瓶が一つ置かれたことで小熊のスペースになった感じがした。上等で堅牢な作りの棚に、ボトルが一本。
明日にでも南大沢のショッピングモールに行き、あと何本かシードルを買い足そうと思いながら、小熊はバーカウンターでコーヒーを啜った。椎が言った言葉が頭に引っかかる。
椎は自分のことを、寂しがりな人間だと言っていた。そんな覚えは無いが、他人が、特に人を見る目に関しては小熊よりずっと確かな椎が言ったのなら、その通りなのかもしれない。
家に母が居て、平凡な学生だった頃は人を恋しくなるより、疎ましく思うほうが多かった。一人が苦痛になったことは無く、不便を感じたこともそれほど多くない。
母が失踪し他の高校生より早く世の波風に立ち向かう必要が生まれた時、小熊の自我と感性はだいぶ広がったが、それからも孤独を自覚した事があったかどうか。
小熊はコーヒーカップをカウンターに置き、自分以外誰も居ないダイニングを見回した。白熱灯の暖色に照らされつつ、どこか寒々しい部屋の中で、温もりを感じる物が視界に入る。
ダイニングに隣接した四畳半。小熊がバイクの部屋と呼んでいる趣味の物を収集するスペース。先ほど椎に部屋のコレクションを自慢し、羨ましそうというより空間の無駄遣いに呆れられた部屋の戸が開け放たれ、読書や作業に適した蛍光灯の照明が点けっぱなしになっていた。高性能な銀塩カメラで撮られた写真のパネルが壁に飾られている。小熊が高校三年の夏に、スーパーカブで富士山を登頂した時の姿。
泥まみれのカブと傷だらけの自分自身を見た小熊は気づいた。自分の傍らには、いつもカブがあった。
高校二年の春に買ったカブは、絶えず小熊に楽しみや苦しみを与え続け、退屈させてくれなかった。カブに乗った事で知り合った人たちはいつも小熊の周りに居て、孤独という感情に気づく暇など無かった。
寂しくなった時にはカブがある。カブと一緒に居る限り辛くない。そう思った小熊は、家を出てコンテナガレージの灯りを点けた。今乗っているカブ90は特に手をかけるところは無いが、修復中のカブ50はまだまだやるべき事が数多くある。それをいつか、後で、暇になったらなどと後回しにしていたから、孤独などというつまらない感情が入り込んでくる。
部屋着から作業ツナギに着替えた小熊は、カブの修復作業を開始した。歪んでいたフレームは既に修正を終えていて、交換すべき部品はガレージの中に揃っている。あとはそれを組み立てるだけ。
これからどれほどの時間を費やすのか、そう思いながら始めたカブの組み立ては、夜が明ける頃にあっさり終わってしまった。ヘルメットを被って試走に出たが、不調や異変は何も起きない。
また、やる事が無くなってしまった。
住み心地良い家と趣味に没頭出来るガレージ、それに加え極めて調子のいい二台のカブに恵まれた小熊が、何もない空間に放り出されたような気持ちを味わっていると、ガレージの外から物音がした。
公道に面した家。たまには車や歩行者が通る事もあるが、小熊にとって他の雑音とは異なる音が近づいてくる。
自分で組んだ機械の音は忘れない。
つい先日、小熊が修理調整した自転車に乗って、節約研究会の春目がやってきた。
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