第46話 理想的な暮らし

 翌日以降も、小熊のセルフリノベーション作業は続いた。

 午前中は大学に行き、専攻、一般教養共に自分の見識を広げられる実感に乏しい講義を受け、午後は資材を買って回り、自宅や周辺の敷地、コンテナガレージに手を入れる。

 壁を珪藻土で塗り直した六畳の和室も、バイクの部屋と名付けた四畳半の部屋も、日に日に快適かつ自分らしいスペースになっていく。

 バーカウンターの作り直しも、檜の天板の下を食器や食材、調味料の棚にする事で重心が高すぎる問題は解決し、奥行きも広くなった事で快適な食事時間を過ごせるようになった。

 コンテナガレージについては、節約研究会の倉庫から貰ってきた樫の一枚板で、カブのエンジンを乗せてもびくともしない丈夫なワークデスクを自作した。鉄板むきだしの壁にはタペストリーを飾り、照明を追加することで、作業に便利なだけではなく、そこに居るだけで楽しくなるような空間を作ることが出来た。

 

 リフォームが佳境を迎えた頃、小熊はもう一つの趣味にとりかかり始めた。

 貰い事故で廃車にしたカブの修復。天候や時間を問わず効率的な作業を行えるようになったコンテナガレージで、カブを分解し始める。

 外された部品を置くスペースも充分にある二〇フィートのコンテナで、カブはフレームだけの姿となった。

 この歪んだフレームを修正する費用次第で、このままカブを修復するか否かが決まる。フレーム以外にも交換しなくてはならない部品は多く、そのまま純正の部品を発注し組み付けるだけでなく、アフターパーツと呼ばれる改造部品に取り換える選択もある。


 生活における必要性からは離れ、純粋に楽しみのため行うカブ整備は小熊にとって、今まで経験したことの無い物だった。ただひたすらカブのについて考え続ける幸福な時間。

 大学に入ったら始めようと思っていたアルバイトも、既に山梨でバイク便の仕事をしていた頃に培った実績と、小熊の仕事っぷりを言いふらしてくれた浮谷社長のおかげで、都内にある幾つかの急送会社から仕事の依頼や在籍の打診が来ていたが、生活費については高校の時より手厚い給付型の奨学金で足りているので、とりあえず学業の優先という建前で回答を保留した。

 小熊は今の暮らしに不満は無かった。大学に入学して間もない頃に近づいてきた節約研究会なる面々は、小熊が彼女らの所有するガラクタを好きに漁って持って行く権利を得て、バーカウンターとワークデスクの材料を頂戴して以来、連絡も接触も無い。


 カブのフレームは、二年前にこのカブを買って以来色々と世話になっていて、たまに仕事を手伝っていた中古バイク屋のシノさんに、八王子にあるビンテージバイクのレストア業者を紹介して貰い、レーザーによる歪み測定を行った。

 追突事故で後部フェンダーを凹ませただけのように見えたプレス鉄板製のフレームは、小熊が思った通り全体に渡って変形を起こしていたが、歪みそのものは軽微で、商売に汚い中古バイク屋なら、このまま後部の凹みだけ板金修正して売り出すであろうレベルだったが、小熊はそんな状態のカブに乗る気は無かったので、プレス修正機で歪みを取り去って貰った。


 車両じゃなくフレーム単体で持ち込んだおかげで、費用はかなり安く押さえられたが、もし何から何までプロに依頼していたなら、エンジンやその他の部品の脱着工賃だけでも、中古のカブが買えるくらいの費用がかかっていた。当然破損した部品の交換も、メーカーから新品を取り寄せていればそれなりの値段になる。

 後学のため作業を見せて貰い、あれこれと口を出しているうちに、鋭い感覚とカブの知識を見込まれショップのサービススタッフとしてスカウトされる羽目になった小熊は、申し出を丁寧に断り、カブの後部にカブのフレームを積んで家に帰った。原付における積載の法規などことごとく無視していた高校の同級生にしてカブ仲間の礼子は、自分のハンターカブで分解したカブを丸ごと一台運んだこともあると豪語していた。最近は高校時代に知り合った人たちの事を思い出す事が増えた。


 自宅のコンテナガレージに籠った小熊は、修正を終えメーカーの新車より高い精度を取り戻したカブのフレームに、部品を組みつけ始めた。事故での破損や今までの使用による劣化を起こした部品を交換すべく、出来るだけ安い物を探しては取り寄せた中古パーツも、コンテナガレージには揃っている。

 このカブを修復してどうするのか、小熊はまだ決めていない。とりあえず今乗っているカブ90の予備車にするつもりだが、カスタムベースにする、あるいは仕事用と遊び用のカブを分けるなど、色々な選択肢が広がっている。


 コンテナガレージはここ数日のリノベーション作業のおかげで、快適な作業が可能になっていた。明るい照明の下、ラジオで音楽を聞きながら、広々としていながら必要な工具や部品が効率的に配置された環境で、趣味としてのバイク整備を楽しむ事が出来る。

 小熊は自分の生活が、理想的な形で完成しつつある事を感じていた。ガレージは人に自慢出来るような物になったし、ダイニングのバーカウンターでは、雰囲気のいい灯りの下で充実した食事やお茶の時間を過ごす事が出来る。和室仕立ての寝室では重厚な木の柱や天井、真新しい壁や畳に囲まれながら、高校の修学旅行で行った高級旅館に泊っているかのような気持ちで眠れる。バイクの部屋と名付けた趣味のコレクションを揃えた部屋も洋間風のリフォームは良好な仕上がりで、これから収集品で飾られていくであろう部屋で過ごす時間は何物にも代えがたい。風呂やトイレも、高校時代に住んでいた山梨の集合住宅とは比べ物にならぬほど上等な代物だった。


 大学の豪奢な女子寮をバイク禁止という理由のみで蹴り、コネで見つけた木造平屋の賃貸契約から始めた、自分の居場所を作り上げる作業が一つの完成形を迎える中、小熊の心に何かが引っかかっていた。

 もう手を付けなくてはいけない所を探すほうが難しい家とガレージ、順調な大学生活、面倒な人間関係からの解放、そして二台のカブ。

 今の自分が手に入れなくてはいけない物、欲しい物は何なのか、それを考えながら小熊はガレージでの作業を一段落させ、縁側の水道で手を洗った後、夜になると自動的に点灯する玄関灯に照らされたドアを開けた。


 玄関を開けて部屋に入り、室内灯のスイッチを入れると、磨かれた木の床と自作のバーが目に入る、小熊は自分がこの家で最も気に入っている光景を見た時、今まで抱いていた疑問の答えに突然気づいた。

 家の中には誰も居ない。

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