第41話 拒絶
引っ越しの時に家財と共に借り物のサニートラックに載せて持ってきて以来、ほとんど乗っていなかったパナソニック・レギュラーの実用自転車は、良好な状態だった。
特に講義を受けに行くわけではないので、自転車整備をしてた時のツナギのまま自転車に跨る。小熊が高校時代にバイト先のバイク便会社で数着貰った、ホンダのサービス部署で伝統となっている純白のツナギは特に汚れていなかった。
ホンダではこのツナギを汚す事無く作業できるようになるのが一人前の証らしい。小熊は自分の整備技術がプロから見れば稚拙な物だという事はわかっていたが、自転車の日常整備で汚すほどお粗末でも無い。
唯一ツナギを汚す事を許されているのは、やはりホンダの社員食堂で恒例となっている、休日を控えた金曜夜のカレーうどんを食べる時。その事を考えた時、小熊は今日の夕食を何にすればいいのか決めた。そこらで売っているレトルトカレーで済ませるのも性に合わないし、以前は関係者への販売に限られていたホンダ社食のカレーうどんも、今では青山のホンダウェルカムプラザで売っている。帰ったらカブを出してちょっと買いに行こうかと思った。
自分の整備した自転車を後ろから見たかったので、春目に先に行かせた。自転車を漕ぎ出した春目は、快調というより普段聞こえる異音が聞こえない事に戸惑っている様子。それまで可動部に砂か接着剤でも詰めたような劣悪な状態だった自転車は滑らかに走っているが、乗る春目が慣れないのか、ややふらついている。
錆びついて動かなかったハンドル横のシフターを押した春目は、この自転車にギアチェンジの機能がついている事に初めて気づいたかのように、トリガータイプのシフターを見ている。小熊は自分が初めてカブのギアをチェンジした時を思い出した。あの時は一速から二速に切り替えた事で、自転車より速く走れるようになったカブに高揚を覚え、車と同じ、あるいはそれ以上のスピードを出せる三速に期待を抱いた。以前カブに乗っていた事があるという春目も同じ感想なのかと思ったが、春目はギアを上げた自転車で今までの速度を維持するようにペダルを漕いでいる。自分にもたらされる変化を拒んでいるように見えた。
道は短い上り坂から平坦な幹線道路を経て、緩く長い下り坂となった。
竹千代を大学で待たせているせいか、春目は坂を降りていく自転車の速度が上がるに任せていたが、走行風で褐色のセミロングヘアが靡いた途端、自転車にブレーキをかけて速度を殺す。
私鉄の線路をくぐり、大学に向けてゆっくりと自転車を走らせる春目を見た小熊は気づいた。それは推測の域を出なかったが、それまで春目の行動や反応から得た総合情報のようなものが、一つの結論を導き出した。
これから係わりになる事も無く、自分に益をもたらす人間でも無さそうな単なる大学の上級生に対し、小熊は興味など無かったが、自分が出した答えの検算くらいしたくなる。大学の構内に入り、セッケンの部室があるプレハブ前に自転車を乗りつけた春目に、小熊は言った。
「あなたは自転車を丁寧に乗っている、きっとバイクに乗るのも上手だ。今度わたしのカブに乗ってみる?」
それまで小熊を気弱ながら友好的な視線で見ていた春目の目つきが変わる。目の前の小熊ではなく、瞳の焦点をもっと遠くに合わせるような表情をした後、激しく首を振ってから言った。
「乗りたくありません!」
小熊の推測は概ね当たってた。春目が過去にカブに乗った事があるというのは本当で、そして彼女はカブを恐れ、拒んでいる。
理由はいくらでも想像がついた。オートバイを楽しむ人間は、必ずしもそれを生涯の趣味とする人ばかりとは限らない。金銭や身体、また駐輪場の事情などで乗りたいのに乗れない人間も居て、中にはバイクに乗るのがイヤになって降りる人間も居る。
バイクで辛い目に遭った、家族をそういう気持ちにさせた、ある日突然、乗りたい気持ちが消えてしまった。春目がどのパターンに当てはまるのかはわからない。小熊が春目のバイクに対する拒絶に気づいたのは、下り坂で自転車が原付並みの速度を出し、原付に乗っていると吹く風に晒された時。
自転車が大学構内に入った時、春目を観察していた小熊の疑念は、確信とまでいかずとも可能性の高い推論となっていた。
絶えず走行速度の変わる複雑な構内道路で、小熊はついカブに乗っている時の気分で、ありもしないシフトペダルを操作するかのように足を動かしてしまったが、春目は自分の自転車についているシフトレバーを一度も動かそうとしなかった。
切り替えたギアによって走り方が変わる、カブに乗る人間が等しく覚え、他の乗り物を扱う時にも得意げに流用する技術を、春目は思い出したくなさそうにしていた。
自分の出した激しい声に自分で驚き、小熊に何か悪い事でも言ってしまったかのような反応を見せる春目に、小熊は言った。
「悪かった。乗りたくないなら無理に乗らせたりしない」
春目は慌てた様子で首を振りながら言う。
「でも! はじめて会った時、冷蔵庫とわたしを運んで貰った事は感謝してます! カブには乗りませんが、乗せてもらうのはいいっていうか」
小熊のささやかな好奇心から始まったつまらないやりとりで時間を浪費する事は好まない。とりあえず春目に、ここに来た理由を思い出して貰った。プレハブの上階を指して言う。
「竹千代さんはまだ居るのかな?」
春目は飛び上がるようにプレハブの外階段を登り始める。彼女もまた、この話を出来るだけ早く終わらせたがっていたのかもしれない。
「い、今ご案内します」
プレハブ二階の引き戸を開ける前、鉄階段の手すりを握りしめた春目は、引き戸のガラスを見つめながら言った。
「やりたくない事は、もうやらなくていいんですよね」
小熊は春目の言葉が自分に向けられた言葉じゃない事はわかった。ガラスを通して見える暗い室内と、その奥に居るであろう人物に言ったのか、窓に映る自分自身に言ったのかはわからなかった。
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