第40話 自転車整備

 困惑した様子の春目に、これから急ぐ用事が特に無い事を確かめた後、小熊は自転車の整備を始めた。

 春目はこの後、大学で竹千代に会う予定で、竹千代は事前に外出を伝えている日以外は、いつもあのプレハブ二階に居る。

 彼女が乗っていた自転車はAEONのシティサイクルで、小熊の知り合いもバイクや車の予備に使うセカンドマシンとして持っている人が何人か居た。

 海外生産の安価なママチャリながら、手荒い扱いに耐えるという自転車は、春目の使い方がメーカーの想定外だったのか、ひどい状態だった。

 タイヤ、チェーン、ペダル、ステム、ブレーキ、可動する部分全てが耳障りな軋み音を発している。


 よくこれを漕いでまっすぐ前に進むもんだと思わされるようなボロ自転車だが、春目を見ていると、自分にはまともに走らない自転車がお似合いと諦めているように見える。実際のところ購入や維持整備に必要な代償を払わない、あるいは払えない人間の使う機械はそうなって当然だが、機械の世界にはもう一つの定理がある。

 技術のある人間が扱えば、機械は正しく動いてくれる。

 軋み音の正体が油切れで、破損等の致命的なダメージを負っていない事を確かめた小熊は、コンテナ前まで自転車を転がしていきながら、春目に声をかけた。

「そのカブをどかしておいて」


 邪魔な物を片付け、必要な物を手元に置くのは作業の基本。散らかった環境では効率が悪くなるだけでなく、工具類を出す時にその手前にある物を動かさなくてはならなくなるので、つい手近な工具で間に合わせてしまい、結果としてつまらないミスをしてしまう。

 春目は小熊に言われた通り、カブのスタンドを上げてコンテナ横に移動させる。小熊はそこで一つ気づいた事があったが、とりあえずそれは後回しにした。


 作業環境が整ったところで、春目の自転車を分解し始めた。小熊はカブより長い付き合いの実用自転車パナソニック・レギュラーを自分で整備して乗り続けているので、自転車用の工具も必要最低限揃っている。

 整備は基本的に調整、洗浄、給油だけで終わった。ステムやBBと呼ばれるペダル回転軸のベアリングにグリスを差し直し、ワイヤー類にインジェクターを使って以前カブのオイルを交換した時に抜き取った使用済みの廃油を給脂する。


 基本的に買ってから捨てるまで手をつけない人間が多いからか、整備性が悪く脱着の大変なママチャリの後輪を外し、チェーンを専用工具で切って廃油に放り込む。春目が投棄自転車回収のバイトをしていた時に貰って以来ずっと動かないと言っていた変速装置も、スプロケットとディレイラーを洗浄給油し、変速ワイヤーを調整したところ滑らかな動きを取り戻した。耳障りな音を立てて鳴いていたブレーキもリムへの当たりを調整する。


 後輪を組み立て直し、車体全体にシリコンスプレーを吹いて使い捨て雑巾のキムワイプで磨き上げたところ、埃を被っていた自転車は見違えるように綺麗になった。

 前後タイヤの空気を入れなおした後、試しに自宅敷地周辺を走ってみたところ、全てが円滑に動き異音はもう聞こえない。変速も問題なく極めて快調。坂の多い町田で乗るなら、小熊のパナソニック・レギュラーよりも楽に走れるかもしれない。

 テスト走行を終え、自転車の整備を完了させた小熊は腕時計を見た。三十分少々、バイクほど慣れていない自転車の整備にしてはまぁまぁといったところ。


 カブのシートに座って待っていた春目を手招きした小熊は、コンテナ裏から自分の自転車を出した。

 これから竹千代に会わなくてはならない。カブで行って自転車の春目に速度を合わせるのは面倒だし、いじっている内に自分も自転車に乗りたくなった。

 春目をシートから降りさせ、カブをコンテナの中にしまいながら、小熊はついさっき抱いた疑問を春目にぶつけた。

「カブに乗っていた事があるの?」

 春目は「ええ」とだけ言って自分の自転車に跨った。


 彼女が小熊に移動させるように言われたカブを押し歩いている時に、もしかしてそうかもしれないと思った。スタンドを上げる仕草、押す時の力の入れ方、カブを知らない人間の動きではない。

 シートに座る様を見て小熊は確信した。カブに乗った事の無い人間は、座った時の足の置き場に迷う。春目はごく自然に足をスイングアームの上とステップの上、カブで走り続けた人間が一休みする時、もっとも落ち着くところに足を置いていた。

 この女が過去にカブに乗っていようと関係無い。今は竹千代を捕まえ、受け取るべきでない金を叩き返すという自分の用を優先させなくてはならないと思ったが、疑問の解決はもう一つの疑問を産んだ。

 この女はカブの事を話す時、何でこんなに悲しげな、いやな事を思い出した顔をするんだろう。 


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