第24話 赤毛の女


 部室のプレハブを出た小熊は、この場を立ち去るべく階段を降りた。

 しっかりとペンキを塗られた階段は安アパートの鉄階段と同じ安っぽい音を立てるが、忍び足でも足音の鳴る階段は、防犯性能に優れていると言えなくもない。

 何かを断る時は、向こうの頭数が増えると厄介になる。階段下に居る赤毛の女とは、出来るだけ関わり合いになることなく擦れ違おうとしたが、プレハブの部室から外に出てきた春目が、二階から声を上げた。

「ペイジちゃん! 小熊さんを連れてきたよ!」


 四輪駆動タイプの軽自動車を降り、プレハブ前に駐めてあった小熊のカブを眺めていた女が、かけていたレイバンの黄色いレンズのサングラスを外してシャツの胸ポケットにしまい、長い赤毛をかきあげた。

 身長は小熊と同じくらいだった。出会った人の大多数に美人と呼ばれるであろう顔だが、目つきが鋭い。眉や頬のラインも意思の強さを窺わせる。

 女はガムを噛んでいた。光彩の色素が薄い目を小熊に向ける。さっさとカブに乗って走り去ろうとした小熊は、彼女の持つ不可思議ながらどこか以前から知っている人間のような雰囲気に引き寄せられたように足を止める。


 体格は小熊と同じくらいだが、長身な印象を与える女だった。カーキ色のチノパンに包まれた足は、明らかに小熊より長い。白いコーデュロイのシャツの上にステンカラーのレインコートを羽織っている。

 枯草のような色の着古したコートが、赤みがかった栗毛の髪を際立たせている。

 噛んでいたガムをしまうように頬を動かした赤毛の女は口を開く。服装や目つきに似合わず、高く通るフルートのような声。

「あんたが、姉ちゃんの言っていた小熊って女か?」


 初対面で失礼な物言いをする女に少々面喰らい、自分も外見や雰囲気から好感を抱けない人間に対しては同じようなものかと思っていたら、背後で誰かが階段を降りる音がした。

 春目の安全靴じゃない。男性が背広に合わせることの多い革底のスリップオン・シューズの足音。小熊が初めて見た時からうさん臭さを覚える人種の筆頭が、小熊の横まで歩いてくる。

 竹千代は険悪な雰囲気に見えなくもない小熊とペイジの間に立つように、二人の顔色を同時に観察できる位置から言った。

「私に小熊君の事を教えてくれたのはこのペイジ君なんだ。ある大学で准教授をしている、彼女の叔母に当たる人から色々と聞いたそうだ。私はそれを又聞きし、有望な人材だと判断した」


 ペイジは竹千代の言葉には反応せず、小熊よりカブのほうを熱心に見ている。小熊は大学准教授の知り合いと言うものを頭の中で検索し、最初に出てきた女の顔を思い浮かべながら言った。

「その女が私について何を言っていたか知らないけど、それは信じないほうがいい」

 ペイジは小熊の言葉を遮るように手を振った。それから小熊のカブを指しながら言う。

「AA01のボアアップに乗っていたと聞いたが、HA02に乗り換えたのか。ノーマルで綺麗に乗っているな」


 スーパーカブの詳細な型番がすらすらと出てくる。小熊はこの女の前で足を止めた理由がわかった。それからペイジの背後に駐めてある、ジープスタイルの軽自動車を指しながら言う。

「そのジムニーはエンジンをいじってるの? 」

 それまで笑顔一つ見せなかったペイジが頬を緩めた。彼女は嬉しそうに見えなくもない表情で、ノーマルより車高を上げられた軽自動車のボンネットを指す。

「キャブとチャンバーは替えたよ。それからピストンのバランス取りと鏡面仕上げ、ヘッドの面研、ポート研磨。全部自分でやった」 


 小熊でカブの整備である程度知っている積もりのエンジンの話ながら、聞きなれない用語が幾つか入っている。いや、聞いたことが無いのではなく、小熊のカブとは違った種類のエンジンに使われる言葉。

「2スト?」

 2ストロークエンジンと呼ばれる、カブや現在主流の自動車エンジンの4ストロークとは異なる動弁機構を持つエンジン。

 バイク用のエンジンとしてはほぼ見かけなくなったが、かつてはハイパワーなレーサーレプリカのエンジンとしてレースやストリートで活躍した2ストローク。理論上では同じガソリン供給で二倍の回転数を発揮すると言われていて、それが空論でない事は、一九八〇年代のヤマハRZ三五〇が、倍以上の排気量のバイクを上回る性能を発揮した事から、ナナハンキラーと呼ばれた事で証明されている。

 その呼称は決して誇張では無く、実際にRZが七五〇ccのバイクより速かった事は、当時のバイク乗りなら知っている。

 スポーツバイクに積めば麻薬のようなパワーを発する2ストロークエンジンは実用エンジンとしても優秀で、数年前までスーパーカブと実用バイクとしてのシェアを競っていたヤマハ・メイトはずっと2ストロークエンジン。 カブより優れたメイトの発進加速と、重荷での低速走行でよく粘るエンジンに羨ましい思いをした新聞配達員は多いらしい。

 ペイジは綺麗に磨き抜かれたジムニーの、車にさほど詳しくない小熊にとって最新型とさほど変わりないように見えるボディを誇らしげに叩きながら言った。

「SJ30のⅡ型。昭和五十六年製だ」


 竹千代と彼女に続いて階段を降りてきた春目は、饒舌に喋り合う小熊とペイジを見ながら不思議そうな顔をしている。小熊にとっては何ら不可解な事は無い。ただ、同じ言葉が通じる相手というだけ。

 カブの前にしゃがみこみ、タイヤを触っていたペイジは小熊に言った。

「乗ってみるか?」

 お誘いなら乗らない手は無い。小熊は助手席のドアを開けたペイジを無視して運転席に座る。


 小熊が軽自動車はに少々不似合いなバケットシートに座り、前後位置を慎重に調整してから四点式のシートベルトを締めているのを見て、納得したように頷いたペイジは助手席に収まった。

 あと数年で過去の遺物になりそうな金属製のキーを回し、エンジンを始動させる。クラッチは思った通り重い。アクセルを煽ると吹け上がりは軽く、音は現代の車やバイクでは聞き慣れぬ、鼓を打つような乾いた高音。今の車ではほとんど見かけないが、商用車に乗る機会の多い小熊は馴染んでいるハンドルで巻き下ろす窓を開けると、オイルの燃える匂いがする。

 2ストローク・エンジンはこの環境性能上まことによろしくない排気ガスのせいで、市販車としてはほぼ姿を消した。

 そうやって人は機械製品のように効率的な物体へと「進化」していくが、世の中には自らの高揚と歓喜を何者にも奪われることを拒む人間というものも居る。カブに乗る小熊や、ジムニーに乗るペイジのような、非効率的で困った奴ら。

 小熊やペイジにとって、どんな楽器より美しい反逆者の音色をしばらく味わった後、マニュアルミッションのギアをローに入れてジムニーを発進させた。


 ジムニーの特性を見るべく、大学構内を慎重に走らせた小熊は、背後の荷物室にある何種類かの野菜が詰まった段ボール箱を指で指した。

「これを届けに来たんじゃないの?」

 ペイジは胸ポケットから出した黄色いレンズのサングラスをかけながら答える。

「そんなもの後でいい」

 それからついでのように言い足す。

「私はペイジ。理学部の一年、それから」

 どうやら自分の話をする時は口下手になる女らしい。しかし彼女がどんな人間なのかを饒舌に示すものがある。小熊にとってのカブがそうだったように。


 大学の敷地から外の公道に出た小熊は、軽バンのアクセルを踏みこみながら、先ほどのペイジを真似て手を振った。

「いいよ」

 ペイジも頷いてガムを噛みながらシートに身を預ける。それだけで互いに理解できる関係。高校の時にもそういう人間が何人か居た。長い付き合いの末にそうなった例もあれば、会っていきなりという事もある。

「このジムニーに乗れば充分わかる」

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