第12話 バイク乗りのスーツ

 大学の入学式が千代田区有楽町にある大型の催事ホールで行われている間、小熊はずっとスーツのウエストを気にしていた。

 学生が着るスーツとしては少し派手かなと思ったが、式典に出られるような服はこのニック・アシュレイのパンツスーツしか持っていなかった。

 ローラ・アシュレイの息子でバイク愛好家としても知られるニック氏が、高級レストランでライディングウェアを着たままの入店を断られたことをきっかけに創り出した、ディナーパーティーにも出られるドレッシーなライディングウェアのブランド。


 小熊が着ているほぼ黒に近い濃紺のパンツスーツも、見た目は周囲の新入生が着ているリクルートスーツとさほど変わり無いが、耐候性に優れた生地や、バイクに乗車する姿勢を考慮したカッティング、走行風の影響を最小に留める襟と裾など、バイクに乗る人間が必要とする機能を備えている。

 このスーツは小熊が高校の時に在籍していたバイク便会社の社長が持っていたもので、ドーナツが好物の浮谷社長は甘い物に偏った食生活が良くなかったのか、オーダーして早々にウエストがきつくなってしまったスーツを、気前良く譲ってくれた。


 事務所での仕事中、浮谷がタブレットに表示させたスーツの画像を見せながら話しかけてきた時、小熊は不要な服の処分が目的ではなく、家に遊びに来て欲しいための方便なのでは無いかと思ったが、そういう企みに乗るのは悪い気分じゃないと思った小熊は、浮谷のタワーマンションにお邪魔し、自炊をしない浮谷のために夕食を作ってあげた。

 あいにくスーツという物を着る機会に恵まれなかったので、貰って以来ずっとクローゼットに仕舞われたままだったニック・アシュレイは、今回の入学式で役に立っている。もしかして浮谷はこういう事を見越してスーツを譲ってくれたのかもしれない。


 小熊だって浮谷社長から貰っていた高給で、大手ビジネス服チェーンのスーツくらい新調できたが、もし浮谷社長が自分の事を安物を身に纏うのが似合わない女だと思ってくれたのならば、それは嬉しくもある。

 ならばウエストサイズも考慮してほしかったところだが、浮谷の体型に合わせてオーダーしたニック・アシュレイは、胴回りがやや大きかった。

 ベルトで締めようにも、小熊が持っているのはデニムを穿く時に使っているビアンキのベルトのみで、キャラメル色のオイルレザーは濃紺のスーツには合わない。結局、ブラウスの下にダマールの防寒肌着を着て、何とか調整したが、それでもまだ緩い。


 身長は小熊よりやや小柄なのに、こんなぶかぶかのパンツが穿けなくなっているなんて、浮谷社長は体型のコントロールが上手くいっていないのではないか、近いうちに甲府にある浮谷のマンションまで行き、今度は夕食だけでなく翌日の朝食まで作ったほうがいいのかもしれないと思った。

 自宅とガレージのリノベーション計画や、先日のバイク事故で全損したカブの代替で手に入れたカブ90の事、なによりも椅子の上で腰を動かすとずり下がっていくパンツを気にしているうちに、入学式は終わった。話は聞いていなかったが、特に実のある内容では無いという事は、周囲に着席する新入生の表情を見ていればわかる。


 今年から小熊と同じ大学に入学する生徒たちは、皆が同じようなリクルートスーツを着ていて、いずれもイージーオーダーらしく体に合ったサイズ。きっとウエストの悩みなど無いんだろう。

 小熊は自分のパンツスーツに触れた。お下がりのスーツで今年の流行からも無難な形からも外れ気味、おまけにウエストが緩い。

 それでも、小熊はこのニック・アシュレイのほうが好きだった。少なくとも周りの男女が着ているスーツには、高速道路の通行券を入れるポケットはついていないだろう。


 式を終えて会場を出た小熊は、帰路につく前に卒業旅行でも来たことのある有楽町の街を歩き、駅前の大型デパートでこのスーツに似合いそうなエナメルのベルトを買った。

 バイクがそうであるように、このバイクを愛した男が作ったスーツは、最大公約数的な体型や扱い方に着る人間が合わせる量販店の服とは異なり、その服を自分の物にするための慣らしや調律が必要な物らしい。

 ベルト一つの買い物を終えた小熊は帰路につくべく駐輪場へと向かった。

 新しいカブ90はまだ登録を終えていなかったが、ショップが代車に新型のカブc125を出してくれたので、今日はそれに乗って入学式の会場までやってきた。


 往路や入学式中とは打って変わり、ベルトでウエストを締めただけですっかり体に馴染むようになったニック・アシュレイを着ていると、この高性能なカブでどこまでも走りに出たい気持ちになっていくが、その前にやる事が一つ出来た。

 家に帰ったらまず、今まで寝室の衣装ケースに入れていたこのスーツを正しい場所に保管するため、バイクの部屋にスーツを吊るすことの出来るハンガー架けを作ろうと思った。

 

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