第10話 満たされた暮らし
家の中に自分のお気に入りの場所が出来ると、帰るのが楽しみになる。
小熊はこの家に入居してから数日を費やし、当初の予想より良好な環境を構築する事が出来た。
外での所用を終えてカブで自宅に帰ると、まず渋茶色の木造平屋の隣で際立つカエル色のコンテナにカブを仕舞う。
コンテナのロックバーは市販の鍵を取り付けられる構造になっているので、今は南京錠を付けているが、そのうちもっと開錠、施錠の簡単な電子ロックでも付けようと思った。どちらにせよ盗まれやすいカブの盗難リスクは、以前住んでいた集合住宅の自転車置き場よりずっと低くなり、安心してカブを置いておく事が出来る。
コンテナを開けて灯りを点けると、内部は小熊のスーパーカブ専用のガレージとなっていた。
幅二.五m、奥行き六mのISO規格二十フィートコンテナ。小熊は内部の出口寄り三分の一をカブの保管、整備スペースに使っていた。
元々スチールのコンテナには荷役業者の手荒い扱いに耐える丈夫な木の床がついていたが、オイルの染みやスタンドの傷がつくのは気分が良くないので、リサイクルショップで買ったコンパネを数枚敷いてある。
壁がスチールのままなのがいささか殺風景だが、それはいずれタペストリーでも買ってきて掛けよう思いながら、コンテナガレージの奥を見た。
ガレージの真ん中は、作業スペースになっていた。2by4材の丈夫なテーブルを中心に、工具や部品、書類が効率的に配置されていて、空調の問題さえ考えなければ、外した部品の分解整備等の細かい作業をするためには理想的なスペース。壁には大きなホワイトボードが架かっていた。
画鋲ひとつ刺せない賃貸の集合住宅と異なり、小熊の退去後は取り壊しが決まっている木造平屋とそれに付随するコンテナは、潰して建替えでもしない限り自由に使っていいという許可を家主から得ていて、好きな場所に穴を開けたりボルトを打ち込むことが出来る。
リサイクルショップ店員の話では倒産した予備校の処分品だったというホワイトボードは、カブの整備に関する覚え書きのために買ったが、実際に設置したところ、最近故障と縁遠いカブについて特に書く事は無く、専ら暇つぶしのお絵かき遊びに使っている。
コンテナの奥にはまだ、手付かずの二m近いスペースが残されている。この空間を見ただけで、どう使おうか想像が広がった。
エアコンプレッサーやボール盤のような大物の工作機械でも導入するか、仕切りと空調設備を追加して塗装ブースにでもしようか、それとも、もう一台くらいバイクを増やすか。
バイクどころか軽自動車さえ入りそうな余剰スペースの使い方はまだ思い浮かばない。考えるだけで楽しくなる物事ならば、もうしばらく想像や思索で遊ぼうと思った。
コンテナを出て施錠した小熊は、木造平屋の正面に回った。
プラスティックのカバーを清掃、研磨しただけで、だいぶ見栄えのよくなった屋外灯に照らされた玄関を開け、灯りを点けると、まず目に入るのは、小熊がホームセンターの端材から自分で作ったバー。
白熱灯の間接照明が、長年に渡って素足で磨かれた木の床と鳶色の砂壁を優しく照らしていた。今夜も小熊は以前から持っていた木の丸椅子を加工して作ったスツールに腰掛け、ラジオでFMを聞きながら2by12材のバーで食事時間を過ごす。
メニューは少々手抜きで、外出の帰りに買ってきた中華テイクアウトの酢豚と焼きそばだけだが、蛍光灯の無機的な灯りの下で、間に合わせで買ったテーブルに並んだ食べ物をただ体内に取り入れるだけだった時とは、気持ちの豊かさが違う。
そんな恵まれた時間を一人で過ごすのは、他人からすれば物足りないのかもしれないが、小熊は一人の時間に満足していた。
家の壁や床の色に合わせ、オイルステインを塗って磨きこんだバーカウンターに、買ってきたテイクアウトの紙箱を置き、ユニットバスのお湯張りスイッチを押した小熊は、ヘルメットを取りライディングジャケットを脱ぎながら、この家の中で最もお気に入りの場所へと向かった。
バーの横にある引き戸を開けた先の部屋。ごく普通の四畳半の和室を、小熊はバイクの部屋と呼んでいた。
小熊はジャケットを壁に掛け、ヘルメットをスチールデスクに置いた。それ以外にもバイクに関する書籍やグッズなどをあちこちにディスプレイしている部屋は、ただバイクの道具を置くだけの目的で行っても、つい長居してしまう。今日はバイク雑誌の編集部から献本で送られて来た新刊のグッズカタログをめくりながら過ごした。
カタログに出ている新製品を眺め、目の前の掃き出し窓から見えるコンテナガレージに視線を送りながら、次は何を買おうかと考えているうちに、ダイニングの壁に取り付けられたユニットバスのコントローラーがお湯張りの完了を告げる。小熊はそろそろ交換時期を迎えたグローブやシューズのページに折り目をつけ、後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。
バイクの部屋に隣接するユニットバスで、防水ラジオから流れるNHK-FMを聞きながら、入浴の時間を過ごした。集合住宅に住んでいた頃の風呂もユニットバスだったが、自動お湯張りや追い焚きの機能も、汚れ付着防止素材の浴槽と壁も今まで無かった。何より大きな窓があるのがありがたい。昼は多摩の里山が一望できて、満月の夜に風呂場の灯りを消すと、月の光が差し込む。
ひとつ不満があるとすれば、バイクの要素が無い事。今度防水素材のポスターでも買ってこようかと思った。
風呂から出てベトナム製の黒い木綿のパジャマを身につけ、まだ寒気の残る春の宵に風邪など引かぬよう、高校の手芸部教師が編んでくれた未脱脂ウールのカーディガンを羽織った小熊は、ダイニングのバーでスツールに腰掛け、レンジで温め直した酢豚と焼きそば、ジャスミン茶の夕食時間を過ごす。
自炊より割高だったので、買うのを少し躊躇した南大沢駅前のテイクアウト中華は予想より美味で、家事を手抜きしたいという理由が無くとも、また買いに行こうと思った。
夕食後、ラジオを聞いたりスマホで高校時代の同級生とLINEをしたりして過ごした小熊は、そろそろテレビが欲しいなと思いながら寝室に入る。
六畳の和室は、引越し直後は山梨に居た頃から使っていた洋間対応の家具を使うため、下に木の板を敷いたりウッドカーペットの購入を検討したり、色々と苦労させられたが、結局何もかも面倒になった小熊はパイプベッドを分解しスチールデスクをバイクの部屋に移し、部屋を和室として使う事に決めた。
畳は部屋の日当たりがいいせいか変色していたが、まだ擦り切れは見当たらないので、外に干した後ホームセンターに売っていた天然素材の畳リフレッシュスプレーを吹き付け、青々とした畳の外見と薫りを取り戻した後、部屋に敷き直し、寝床もベッドから布団に変えた。
いざ使ってみると、修学旅行くらいでしか縁のなかった和風の寝室は自分と相性が良かったらしく、実によく眠れた。途端に今まで非効率的だと思っていた押し入れや、見るたび人の顔が見えるので早く塗り替えようと思っていた砂壁が、部屋の風合いに合った素晴らしい物のように思えてくる。証明は蛍光灯だが、行灯のような形のランプシェードも手伝って、和室には案外似合っている。
引越しを機に新調した布団を押し入れから出して敷き、一度部屋を出て戸締りと火の元を確認した小熊は、寝室に戻った。
まだ大学が始まるまで何日かある。その間にもう少しバーとキッチンに手を入れるか、それとも寝室で使うため、和室によく合う卓子でも探しに行くか、いや真っ先に手をつけたいのは、自分のスーパーカブとそのガレージ。
布団に入る前、小熊は窓を開け、当たり面を清掃、調整したおかげで滑らかに動くようになった雨戸を少し開ける。空には浴室からも見えた満月が浮かんでいる。
今の自分のような、一つの欠けも見当たらない真円の月。
雨戸と窓を閉じた小熊は、スーパーカブとそのガレージがより良くなるであろう明日を楽しみにしながら眠りについた。
翌日そのカブを失う事になるとは、夢にも思わなかった。
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