第2話 全っ然、なーんもわかんないんだけど
パニックになったら駄目だ。お……落ち着こう。とりあえず、情報を集めなくてはどうにもならない。必死に自分に言い聞かせて深呼吸をして、ゆっくりと瞬きする。
周囲は真っ暗だ。見上げれば蒼い月が夜闇にぽっかりと浮かんでいた。目を擦ってみるが、何も変わらない。ありえない色をしたまま月は輝いている。
目の前にあるのは豪華な噴水。さらさらと音を立てて水がこぼれ落ちている。そこに頭から腰の辺りまで浸かっていたらしい。
なんというかこの状況、考えたくないけど、まるで、じ、じさ――
「ハルク!」
ばたばたと激しい足音と共にそんな声が背中にかかった。かと思うとどしんと何かがぶつかってきて、また水に突っ込みそうになる。文句を言うより先に、頭からタオルのようなものを被せられた。何も見えないし、ごしごしと容赦なく拭かれて息もまともにできない。
「ちょ、ちょっと、待っ……」
振り返りながらもごもごと言えば、ぴたりと動きが止まった。タオルが地面に落ち、相手の姿が視界に入る。
豪奢なドレスに身を包んでいるが、その裾が暗闇でもわかるほどに汚れていた。漫画に描いたような見事な縦ロールが特徴的だ。桃色がかった金髪、いわゆるストロベリーブロンドというやつだろうか。つんと上品に整った顔だが、綺麗なヘーゼルの瞳は目じりが吊り上がっているせいできつく見える。
彼女は、花に見せられたあいがくのキャラクターにそっくりだった。
「……エリザベート?」
思わず呟くと、彼女の瞳が見開かれた。その表面に薄い膜が張ったかと思うと、みるみるうちに縁に水が溜まる。
「そうっ、そうよ、この、ばか!」
彼女――エリザベートは忙しく何度も頷くと、ぎゅっと抱きついてきた。わたしの胸にぐりぐりと額を擦り付ける。まるで悪い夢を見たあとの子供のような仕草で。
……あれ、この子悪役令嬢じゃなかったっけ? こんな感じなの?
「ハルク、あなたね……!」
「あ、あの」
エリザベートの言葉を遮って、やんわりと体を離した。未だ目を潤ませている彼女に視線を合わせ、自分を指さす。
「ハルク?」
「え? ええ……」
「
「……?」
不思議そうな顔をして首を傾げるエリザベート。
「それで、あなたは……侯爵令嬢のエリザベート・ハレイルーヌ?」
「そうだけれど。……どうしたのよ、ハルク?」
「い、いやあ、なんでも」
訝しむように目を眇められ、慌ててへらりと愛想笑いを浮かべる。しかしなぜかより不審そうな視線を向けられてしまった。
嫌な汗を背中にかいているのがわかった。
偶然にしてはあまりにもできすぎている。名前も、見た目も、プレイすらできなかったあの乙女ゲーム、あいがくと全く同じ。
「……まあいいわ。とにかく、このままでは風邪を引いてしまうわ。はやく中へ」
「あ、う、うん……じゃない? はい?」
「変なハルク。もう怒ってないから、普通でいいわよ」
その普通がわかんないんだって、と内心頭を抱える。ただ、言い方的にたぶん馴れ馴れしい方を望んでいるのだろうとは思う。
「……わかった、エリザベート」
おそるおそる言うと、エリザベートはこちらに向かって気の抜けた顔で笑った。
* * *
家というか、屋敷だった。小さな城だと言っても差し支えないかもしれない。テレビ越しにしか見たことのないような立派な建物に気圧されて立ち尽した。そんな自分に気がつかず歩いていくエリザベートを慌てて追いかける。
勝手に扉が開いた。エントランスと思われる場所だが、普通にここだけでも過ごせそうな広さだ。
「どうしたの、そんなふうにぼんやりと立って。あなたの部屋は2階の突き当りでしょう?」
何でもなさそうに言うエリザベートに混乱する。
「……え? わ、わたし……じゃない、ぼく? の部屋? ここはあなたの家なんじゃ」
「何を言ってるのよ。わたくしの家ということはあなたの家でしょう」
……えーと、それ本気で言ってる?
一体どういう関係なんだ。エリザベートとハルクって悪役令嬢とその腰巾着なんじゃないの?
でも話を合わせておくしかない。怪しまれたらいいことにはならないのはなんとなくわかる。ハルクに自分の部屋があるなら好都合、まずは状況を整理するために戦略的撤退だ。
「そ、そうだったそうだった! とりあえず部屋行くね!」
「そう? それなら、少ししたらまた呼びに行くわね。お風呂の用意をしておくように言ってくるわ」
エリザベートの話をろくに聞かずに頷いて階段を駆け上がった。これ以上一緒にいるとボロを出しそう……というか、もう出してるのかもしれないけど。
言われた通りの部屋の扉をノックする。耳を寄せるが何も聞こえない。そっと扉を開けて覗き込む。不審者のように様子をうかがった後、暗いままの部屋に滑り込んだ。何となく電気をつけるのが躊躇われた。本当は
まず広さに驚いた。自分の家のリビングルームくらいある。そこに2人は余裕で寝れそうなベッドにタンス、大きい鏡のついたドレッサーらしきもの、本棚、机や椅子やらが置かれていた。やたら装飾が綺麗で高価そうなことを除けばあまり特徴のない部屋だった。
「……ん?」
机の上に置かれた紙に気がつく。見ていいものかと悩んだが、今は一つでも情報が欲しい。見られたくないものならちゃんと片付けておくべきだ。うん。
『もうやってられっか』
首を伸ばして覗き込んで、そんな一文に目を瞬く。
『もう無理。もう限界。もうやだ。もう頑張ったと思う。というわけで、ぼくは生まれ変わります。ごめん、リーザ。
ハルク・レングル』
「…………え?」
まてまてまてまて。……まてまてまてまて。
……え?
コンコンと扉をノックする音に文字通り飛び上がって驚いた。
「ハルク、入るわよ」
「うううううん!?」
部屋に入ってきたエリザベートが顔を顰める。
「暗いわね。なんで灯りを付けないのよ」
「わ、忘れてた」
ぱちんと明るくなる直前、咄嗟にその紙を握り締めてポケットに突っ込んだ。
「お風呂の支度ができたわよ。ほら、行きましょう」
こくこくと頷いてドレスの裾を追う。その後ろからでも見事な縦ロールの頭をじいっと見つめながら必死に思考を巡らせる。
……リーザってのは、たぶんエリザベートのことだと思う。愛称とか、あだ名みたいな。ということはやっぱりそれなりに、というかかなり2人は親しい仲なのだろう。何やら、一緒に住んでいるようだし。
エリザベートが伯爵令嬢で、ハルクはその腰巾着。つまり上下関係があるはずなのに、エリザベートはハルクに馴れ馴れしく話すことを望んでいるようだ。思っていたのとかなり違う。
――というか、生まれ変わるって。やってられっか、もう無理、ってのは。つまり、ああやって水に突っ込んでいた理由は、自分の勘違いじゃなくて。
元のハルク・グレングルは遺言のような紙を残して、全て放り投げてどこかへいってしまったのだろう。
そして自分はやっぱり、彼の中身になってしまった……らしい。彼自身も想定していたのかわからないけれど。転生と言っていいのかはわからないけれど、たぶん似たような状態になっているのだと思う。
……あの、考えても全然よくわかんないんだけど、そんなにやばい状況なの? 逃げ出したくなるほど?
「ハルク? 聞いてる?」
「う、うん?」
「久しぶりに一緒に入りましょう。使用人たちも追い出しておいたから」
そう言ってエリザベートは平然と一緒に脱衣場らしき部屋に入ろうとしてきた。
「いや、だ、ダメでしょそれは!」
「前は一緒に入ってくれたのに……ダメなの?」
悲しそうに目を伏せるエリザベートにうっと唸る。いや、
「前って、すごく前のことでしょ!?」
たぶんだけど!
暫く恨めしそうにこちらを見つめていたエリザベートは諦めた様子でため息をついた。
「……わかったわ」
まるで子供のように唇を尖らせ、何度も振り返りながら出ていく。戻ってないことを確認してからやっと胸をなでおろした。
「はー、まったくどうなってるんだか……」
少し不安だったが、服の構造が特に変わっているものではなくて助かった。びしょ濡れになっているベストを脱ぐ。次にブラウスのボタンに手をかけたところでふと我に返る。
……ハルク、男の子なんだよね。
ブラウスの袖から覗く手首は女の子と見紛うくらい細いし、お腹も薄い。なんなら
知らずごくりと唾を飲む。いやいや、なんか変態みたいじゃん。違う、だってこのままだったら風邪引いちゃうし。ハルクが。
「……よし……」
覚悟を決めてボタンを外す。見ないようにしよう。いろいろと。
顕になる白い肌。ますます薄いお腹。全て外しきってから、首を傾げる。
「なんだこれ」
胸の辺りに何か布がぐるぐると巻かれている。怪我か何かだろうか? 慌ただしくて気がつかなかったが、確かになんだか息苦しい気がする。よし、外して……みるか。
指先で端を探り当て、引っ張り出す。くるぐると布を解いていく。現れたのはやっぱり白い肌で、傷なんてどこにもなかった。
そのかわり――ひかえめに膨らんだ胸。ひかえめではあるものの、これは明らかに。
服を脱ぎ散らかして全裸になって、愕然とする。
「ええええええ!? なんだこれ! どういうことだこれ! 女じゃん!? ねえハルクあんた女の子じゃん!!」
ひとしきり叫んでからはっとして口を抑える。エリザベートが戻ってくると困る。
エリザベートはハルクが女だということを知っているのだろうか。知っていたからあんなふうに?
「全っ然、なーんもわかんないんだけど……」
しかしお風呂には入らなくては風邪を引いてしまう。破れかぶれに浴室の扉を開けて、再び口をぽかんと開けた。
「……風呂、ひろっ」
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