第七章『逢えない守護者』

(1)

「え?」


 呆けた声が耳元で上がる。

 抱きしめられていた腕から力が抜けて、アインとシルバーラビットは自然と離れていた。

 何も映さない目を瞬かせ、シルバーラビットが腹部を見る。自分の中に侵入して来た物が何かを確かめるかのように手を這わせるが、既にそこにはナイフはなかった。

 血の付いた大振りのナイフはアインの右手の中。


「今、何かした?」


 純白のコートには、ナイフを突き刺した場所からじわじわと青みがかった紫色の染みが、まるで花が咲くかのように徐々に広がりを見せていた。

 しきりに刺された場所を手で触るシルバーラビットを、アインは立ち上がって見下ろしていた。

 効かないのかしら――と思いながら、アインは答えた。


「あなたの会いたがっているシュヴァルを呼ぶためよ」

「何を……言っているの? シュヴァルは、君だよ。どこに、行くの?」


 左手で脇腹を押さえながら右手を伸ばす。

 アインはそっと後ろに引いた。

 兎の前足に戻ったシルバーラビットの手が空を切る。


「待って。どこに行くの? また、僕を、置いて行くの? どうして?

 あれ?」


 唐突にシルバーラビットが前のめりに倒れた。


「あれ? 何か、おかしい……苦しい……」


 さすがに眉間に皺を寄せ、胸元を押さえて躰を丸める。


「どうして? 僕、どうしたの? 君が、何かしたの?」

「言ったでしょ。あなたが会いたがっているシュヴァルを呼ぶためだって。

 だって、シュヴァルと会いたいんでしょ?」

「会いたい……よ。でも……」

「だから、会わせてあげるの」


 躰を丸めて震えているシルバーラビットが、あの白い兎の姿と重なった。

 お陰でアインは、『ああ。そう言うことだったのか』と、何故か今更のように理解した。

 あの白い兎がシルバーラビットだったのだと言うことを。黒い兎がシュヴァルだったのだと言うことを。


 事実、二人が本当に白い兎と黒い兎だったのか、単に二人の間の出来事を、二匹の兎を使って表現してみただけなのかは分からない。

 だが、あの二匹の間で起きたような出来事がきっかけで、『シルバーラビット』と言う妖魔が誕生し、『霧の館』に、孤独に囚われた人間を連れ去る事件が起き始めたのだと言うことを理解した。


 つまり、シュヴァルのせいで『シルバーラビット』と言う妖魔が生まれたと言っても過言ではないと言うことを。

 しかも、そのことをシュヴァルは自覚していることをアインは知っていた。

 人形の墓場でのシュヴァルの言葉を思い出せば嫌でも察しは付いた。

 だから、


「今、連れて来てあげるわ」


 アインは両手でナイフを持って掲げる。

 狙うのは勿論、足元で子供のように躰を丸めて苦しんでいるシルバーラビット。


(私の考えが間違っていなければ……)


 アインは、冷めた目で見下ろしながら、一気に腕を振り下ろした。



 ガツン――とナイフが硬質的な床にぶつかった。


「な、何が、起きたんだ? あいつは、どこに消えたんだ?」


 ナイフを床に突き立てて片膝立ちになっているアインの後ろから、ハイネスの戸惑った声が聞こえて来る。

 無理もない。躰を丸めていたシルバーラビットの姿が消えて、世界はまた変わっていた。


 そこは、玄関だった。

 ハイネスがやって来たとき、玄関を通ったかどうかは分からない。

 だが、


「とりあえず、あの扉から外に出て」

「え?」


 立ち上がりながら告げると、間の抜けた声が返って来た。


「多分、今なら外に出られるわ」

「君は、どうするんだ?」

「帰るわよ」


 あっさりと返すと、


「そ、そうだよな」

「ええ。だから、先に行って。これを逃すと帰れなくなるわよ」


 右手にしっかりとナイフを握り、左手で扉を示すと、ハイネスが、何度もアインを振り返りながら扉の前に立った。

 アインが吹き飛ばした痕跡など何もない扉に手を添えて、ハイネスが押し開ける。

 もしかしたら違う部屋が待ち受けているかもしれないと、一抹の不安が過ぎるものの、


「霧が……薄れ始めてる?」


 ハイネスの言う通り、霧が薄れ始め、目を凝らせば霧の向こう側を視認することも出来るようになっていた。


「外に出られる!」


 振り返って告げて来るハイネスの目に、希望の光が浮かんでいた。

 連れ去られて丸一日。自ら孤独を選んだ男は、もう『霧の館』を必要としていなかった。


「行きなさい」


 アインが溜め息を吐きながら促せば、


「ありがとう!」


 ハイネスは嬉しそうに扉を潜った。

 そして、パタリと閉まった扉の前に、


「何をしてくれてるんだ? お嬢ちゃん」


 口元に冷たい笑みを張り付けたシュヴァルが腕を組んで立っていた。


「ようやく出て来たわね、シュヴァル。この大嘘吐きが」


 冷たく睨み付けて来るシュヴァルに対し、アインも殊更冷めた口調で言い返す。


「何がいつでも呼べば現れるよ。あれだけ大盤振る舞いして名前を呼んであげたと言うのに、今更出て来て何様なの?」

「ああ。悪いな。使われなくなった部屋の片づけしてたら聞こえなかったみたいだ」

「よく言うわ。シルバーラビットがいたせいで出て来られなかっただけのくせに」

「だったらなんだ?」


 挑発するような響きだった。


「彼をどこに隠したの?」

「お嬢ちゃんが気にすることじゃないだろ」

「そうね。それはあなたのすることでしょうから任せるわ」

「で? ヒトに任せてお嬢ちゃんはどこに行こうとしてるんだい?」

「帰るのよ」


 アインはきっぱりと答えた。

 アインの立っている場所から玄関の扉まではおよそ十歩。


「だから、そこをどいて頂戴」

「冗談」


 扉に寄り掛かったシュヴァルが小馬鹿にした笑みを浮かべて拒絶する。


「せっかくわざわざ遊びに来たのに、もう帰るのかい?」

「ええ。帰るわ。目的のものは手に入ったから。

 それとも……ハイネスはまだこの屋敷の中にいるのかしら?」

「いいや。ちゃんとあの人間は人の世に返してやったぜ?」

「だったら、私が残っている理由もないわ」

「いやいや。あるだろ?」

「ないわ」


 扉から背中を放したシュヴァルにきっぱりとアインが言い切ると、


「ハイネスを取り戻した以上、私がここに留まる理由は何もないもの」

「あるさ」


 シュヴァルが音もなく歩き出す。


「お嬢ちゃんが――」

 一歩。

「やらかしたことの――」

 一歩。

「落とし前――」

 一歩。

「付けてもらって――」

 一歩。

「ないからな」


 たった五歩で目の前に立つシュヴァルの目は、口調とは裏腹に笑ってなどいなかった。

 しかし、表情を消したアインは殊更冷めた目で見上げて白を切る。


「何の事かしら」

「あいつに一体何をした」


 胸倉を掴まれて凄まれる。


「見ていたんじゃないの?」

「だから聞いてるんだ。あいつに一体何をした?」

「毒を盛っただけよ」

「毒だと?」


 シュヴァルの眉間に深い皺が刻まれた。


「妖魔に毒なんか効くわけねぇだろ」

「普通の毒ならそうかもね。

 でもあれは特別製だから普通じゃないの。ちゃんと妖魔にも効くわ」

「はったり……じゃあ、ねぇみてぇだな」

「そうよ。解ったらこの手を放して」

「まさかだろ?」


 鼻先で笑い飛ばし、苛立ちも露わにしたシュヴァルの顔に、暗い笑みが刻まれる。


「俺はお嬢ちゃんのことが気に入ったんだ。そしてあいつもお嬢ちゃんのことを気に入った。

 その上でお嬢ちゃんは、あいつを傷付けたんだ。落とし前の一つも付けずに出て行こうとするのは土台無理な話ってもんだぜ?」

「――だから私にも、あなたと同じように『管理者』になれとでも言うつもり?」

「何?」


 冷ややかな問い掛けに、シュヴァルの形のよい眉がピクリと動く。


「だってそうでしょ? あなたは彼を傷付けた。だから、この屋敷に居ついて見守っている。

 でも、私には関係ないわ。はい、これ」

「何だ、それは……」


 突然目の前に突き付けられた白い半透明の液体が入った小瓶を目にし、幾分動揺を見せるシュヴァル。

 対してアインは、こともなげに告げた。


「解毒剤よ。これが欲しいんでしょ? あげるからこの手を放して」

「は?」

「嘘じゃないわ。本物よ」

「そう言って、俺の手でアイツに止めを刺させる気か? だったら――」

「馬鹿にしないで」


 きっぱりとシュヴァルの言葉を断ち切って切り返す。


「止めを刺したところで、どうせあなたたちは蘇るだけでしょ?

 それなら解毒剤を与えずにいた方がどれだけましか分からないわ。苦しんでいる間は誰の事も攫いに行けないだろうし。たぶんあなたはこの屋敷から出られないだろうし」


 憶測を口にすれば、シュヴァルの頬が微かに引き攣り肯定を物語り。


「だったら、シルバーラビットさえ動けなくしておけば充分、今後にとって良いことよ」

「だから、止めを刺すような毒薬じゃないって、言いたいのかい?」

「そうよ」

「でも逆に、助けてやる理由もないんじゃないか? お嬢ちゃんの言い分に従うとよ。

 なんたって、解毒剤を呑んじまえば復活しちまうんだろ? あいつはさ」

「そうね」

「だったら、今後にとって良いこと――って事態にはならないんじゃないのかい?」

「そうでもないと思うわよ」

「なに?」

「だって。あなたが彼に解毒剤を飲ませるんだもの。そうすれば多分、孤独な人間を攫う行為は消えるわ」

「!!」


 ニヤリと冷たい笑みを浮かべて告げた言葉は、物の見事にシュヴァルの顔を強張らせた。

 動揺のあまり、胸元を締め上げていた手からも力が抜けている。


「やっぱり。あなたはちゃんと分かっていたんじゃない。そうよね。あの人形の墓場で、自分で言っていたものね。だったらほら。さっさと持って行って楽にしてあげたらどう?」

「……くっ」

「別に私はどっちでもいいの。解毒しようがしまいが。

 しなければずっとずっと彼は苦しみ続ける。死なない程度に調節してあるから。

 だから、あなたが選ぶといいわ。

 意地を貫いて彼を苦しませておくのか、さっさとこの解毒剤を持って行って楽にしてあげるか。

 さもなければ……」


 アインは目を細め、


「あなたの手で彼に止めを刺してもいいのよ? どうせ蘇るんだから」

「っ?!」


 シュヴァルの目が、瞠られた。

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