(2)
「……何を、しているの?」
何故かアインは問い掛けていた。
薄暗い部屋の中。一見すれば濃い影が動いているようにしか見えなかったかもしれない。
だがアインには、薄い光が影の縁を縫い取り、異質のものだと紹介するかのようにシュヴァルを浮かび上がらせているのを見た。
さもなければ、いや、ウサギの耳が揺れていなければ、アインは猟銃を解き放っていたかもしれない。
しかしシュヴァルは、アインの存在に気が付いていないのか、一向にマネキンを砕く作業を止めようとはしなかった。
大きく木槌を振り被り、振り下ろす。
一体と言わず数体のマネキンが破壊され、衝撃と喪失で山が崩れる。
それでもシュヴァルは逃げようとはしなかった。ただただ機械的に木槌を振り下ろし、マネキンを粉砕して行った。
砕かれたマネキンの破片が青白く光りを発して霧散する。
パリンパリンとささやかな音を立て、光となって宙へと飛び散る。
シュヴァルの周囲は青白い光に包まれていた。
粉砕されたマネキンが発光している所為だった。
青く光る絨毯の上、薄闇を退けて輝く蒼い光がシュヴァルを包む。
アインはそれを、ただただ眺めていた。
蒼い世界で澄んだ音だけが響き渡る。
高く高く昇る音に導かれ、光の砂が舞い上がる。
シュヴァルが木槌を振り被る。振り下ろす。
その風圧に押されて光が広がる。世界が広がる。
シュヴァルの生み出す風が世界を広げ、やがてアインの頬を撫でたなら、アインは聞いた。
いや、聞いたような気がした。
ありがとうと囁く声を。声のようなものを。その気配を。
正直アインは戸惑っていた。驚いていた。
自分が何を聞いたのか感じたのか分からなかった。
それでも光は容赦なくアインまでも腕に包み、光の粒が、マネキンの成れの果てが、アインの中を通過して行く。
その中でアインは聞いた。言葉にならない言葉の数々を。冷たく無機質な空間に投げ出され、山積みにされていた物言わぬ人形たちの安堵と歓喜の声を聴いた。
冷たいはずなのに。寒いはずなのに。凍てついているはずなのに。そう思っていた部屋だったはずなのに、決して温かくない蒼い光のはずなのに。
何故かアインは、胸の内が温かくなるのを感じた。頬を流れる物を感じた。
無意識に手を伸ばし、自分が泣いていることに気が付いて愕然とする。
どうして自分は泣いているのかと混乱する。
この光は何なのかと、慌てて蒼い世界から抜け出そうとするも、気が付くと、かなり広範囲に渡って蒼い世界は広がっていた。
それだけではない。光に触れたマネキンたちが、サラサラと砂の流れる音を立てて分解して行く様を見たなら、アインの体は物の見事に硬直した。
見る分には美しい光景だとは思うが、この光は一体何なのかと恐ろしくなる。
その一方で涙が止まらない。胸が締め付けられる。苦しいほどに締め付けられて、アインは無意識に胸元を掴んでいた。
歯を食いしばらなければ、唇を噛みしめなければ、嗚咽が漏れそうだった。
もう止めて欲しかった。自分の心と感情が別物だった。
まるで赤の他人に体を乗っ取られたかのようだった。
泣きたくないのに涙が溢れる。何も満たされていないのに満たされた気持ちになり、何かに恋い焦がれるかのように胸の奥が痛い。逃げたいのに足は動かず、動かないせいで声なき感情がアインの中を行き過ぎる。
嫌だった。冗談ではなかった。これ以上勝手に体を使われたくはなかった。
もしもこれ以上蒼い世界に包まれていれば、アインは声を上げて泣く羽目になる。
自分のためではない、何かのために泣くなど冗談ではなかった。だから、
ガゥーン!
「!!」
泣き声を上げる替わりに猟銃を床に向かって撃っていた。
音に弾かれたシュヴァルが鋭い眼差しで振り返る。
蒼い世界が一瞬で掻き消され、後には肩で息を吐くアインと、みるみる驚きに眼を瞠るシュヴァルが取り残された。
「お……嬢ちゃんが、何だってここに?」
「それは、こっちの台詞よ」
完全に不意を突かれたと物語るシュヴァルの問い掛けに、アインは怒りを込めて言い返した。
「ハイネスが飛び込んだ部屋に飛び込んだらここにいた。一体ここは何なの? ここであなたは何をしていたの? 今のは何? あの光は何? あの声は? こいつらは何なの?!」
矢継ぎ早に問わずにはいられなかった。
ここでただシュヴァルがマネキンを粉砕しているだけだったら、アインもこれほど問い掛けはしなかっただろう。むしろこれで手拭いでも首に巻いていたなら滑稽だと、想像して笑っていたかもしれない。
だが、実際は違う。マネキンはただ壊されただけではない。現に、アインは見ていたのだ。マネキンの山が蒼い光となって消え失せる光景を。そして自分の感情を掻き乱されると言う不快な体験をさせられた。
問うなと言う方が無理だろう。
はぐらかそうものならどうしてやろうかと、猟銃を構えて答えを待つアインだったが、銃越しに見たシュヴァルの顔に、アインは眉を顰めざるを得なかった。
「その顔はなんなの?」
問い掛ける口調も訝しげなものとなった。
シュヴァルは嫌に悲しげな顔をしていた。
何故そんな同情めいた顔を向けられなければならないのかと不快感が込み上げる。
しかし、シュヴァルの言葉を聞いたとき、アインの顔は強張った。
シュヴァルは言った。
「お嬢ちゃん。お前さん……どれだけ孤独に囚われてんだ」
息が止まった。
見られていないとは思うのに、ここへ来るまでに思い出していたことをシュヴァルが知っているのかと思うと、カッとアインは熱を持つのを自覚した。自覚して、眼を瞠った。迂闊なことを口にすれば、シュヴァルの知っていることを肯定してしまうと思ったのだが、実際は違った。
「この部屋に通されたハンターは今まで一人もいなかった」
「……どう言うこと?」
「どうもこうもねぇよ。いや、お前さんが一人でここに来たときに察するべきだった。
ここはな、孤独に囚われた者が辿り着く墓場さ」
「墓場?」
「そうさ。人の世で孤独に囚われ、この屋敷にやって来た人間の成れの果てが落とされる墓場だよ」
「は?」
理解するより先に背筋を悪寒が走り抜けた。
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