(2)
「…………なんか、悪かった」
一頻り泣き終えた後、盛大に息を吸い込み吐き出して、ハイネスは小さくなりながら謝った。
『いやいや、こちらこそ。大の男を泣かせてしまうとは思わずに……はい』
「ありがとう」
差し出されたハンカチで涙を拭いて、鼻をかむ。
「……って、これ、ハンカチじゃないじゃないか」
『うん。その辺に落ちてた布切れ。だって別に後は使いようがないんだからいいだろ?
洗って返される必要もないし、捨てればいいんだし……って、目も鼻も真っ赤だな』
「笑い事じゃない。ザラザラして痛かったんだよ!」
『あはは。ごめんごめん。そう言うことにしておくよ』
まるで悪びれずに笑って返され、ハイネスは口を尖らせてすっかり冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
『――で? 俺に隠れて何があったんだ?』
幾分真剣みの籠った声で促され、ハイネスは一度大きく溜め息を吐くと、背もたれにもたれ掛って答えた。
「別に、大したことじゃないんだよ」
『そんなわけないだろ?!』
落胆し切った声を聴き、ラチェットが目くじらを立てて反論する。
だが、実際にそうだった。
「本当に、一つ一つは大したことはなかったんだよ。
ただ、それでもやっぱりな、積み重なると我慢ならなかったんだ」
『だとしても、俺は知りたいんだ! 一体何があったんだ?』
問われてハイネスは答えた。
自分自身。思い返してもくだらなく思えて来る数々の出来事を。
「初めは何だっただろうな。多分、新しいギルドマスターが来てからかな。
それまでは……少なくとも、まとまっていたとは思うんだ」
『お前が頑張ってくれたからな』
「いや、それを言うなら、お前だって一緒になって嫌な思い、沢山して来ただろ?」
『だって俺は、服作れないし。お前の手伝いぐらいしかすることなかったから。
その点ハイネスは、本当は服作れるのに、外回りしたり雑務こなして全然作れなくなってたじゃないか』
「……まぁ、それはそうだけどな。
でもそのときは、そうするのが当然だと思ってたんだ。自分の事よりもギルドで働く皆のために頑張らなくちゃって、思ったんだ。
一応在籍期間が一番長かったわけだし」
『俺と三か月しか違わないのにな』
「だからお前も俺と一緒になって頑張ってくれたんだろ?」
『違うよ。期間なんて関係ない。お前が頑張ってたから、頑張ったんだ。これが他の奴らだったり、お前が居なかったら、俺はとっくに見切りを付けて、さっさと別なギルドへ移ってたよ』
「そいつはまた、貧乏くじ引いたな」
『本当にな。前任者を追い出せば楽になるとばかり思ってたら、その後が大変だったもんな』
「あの状況は、独りだったら絶対に乗り超えられなかった」
『俺も心底そう思う。あれは独りだと心が折れる』
「本当に、あの時はありがとう」
唐突に、ラチェットに向かって頭を下げれば、
『いや。こちらこそ。お疲れさまでした』
ラチェットもハイネスに向かって頭を下げた。
再び顔を上げたとき、二人は小さく吹き出して。
「だから、新しいギルドマスターが来てくれたときは、心から肩の荷が下りたと思ったんだよな」
『俺もだよ』
続く言葉に溜め息が混じった。
「一見すればまともそう。前任者と違って俺たちの話をよく聞いてくれるし、考えを尊重してくれる」
『いい人が来た! って心の底から思ったもんだよな』
「でも、違った。
いや、違うわけじゃないんだろうが、何かが違った」
『俺も思った。何かズレてた。上手く言えないんだけどな』
「うん。何がどうとは言えないが、何か、違ったんだ。
でも、あいつらは全く気にしてなかったな」
『むしろ、それに気が付いていなかった』
「マルディは気が付いているような気がしないでもなかったが……」
『なんたってマルディだからなぁ。作れればどこでもいいってとこあるし』
「あー、あるある」
二人の顔に苦笑が浮かぶ。
「まぁ、ようは、その気付くか気付かないかが初めだっただろうな。
その頃はまだ、お前にも聞いてただろ? 何かおかしくないか? 今のマスター? ってな風に」
『ああ。確かに聞いてたな。俺も同じこと思ってたから、お前と話したこと覚えてる――って言うか、え? その頃からか? 始まってたの?』
「いや。だから、大したことじゃなさ過ぎて、いつからかってことがハッキリとは分からないんだよ。ただ、きっかけはそのぐらいの頃じゃなかったかって、思っただけさ。
あいつらにとっては今のマスターのやり方があってるんだろ?
だから、俺の古いやり方とか、マスターに対して意見したり否定的なことを口にされるのが気に入らなかったんだろうな」
『は? なんだそれ。俺だって同じようなこと言ってたぞ?』
「だからだよ」
ハイネスは虚しげな笑みを浮かべた。
「あいつらにとって俺は、掌を返してもいい人間で、お前は嫌われたくない人間だった……ってことなんだろ?」
『なんだよ、それ……』
「俺だって聞きたいさ。でも、事実だ。
同じようなことを言って、お前は冷たい目で見られない。陰口を言われない。目配せもされない。そもそも、そんな分かり易い態度は取られない」
『…………』
軽い口調で並べた身に覚えのある行動は、顔をみるみる強張らせて行くラチェットを見る限り、体験したことはないのだろうとハイネスは確信した。
「初めは俺だって、気のせいだと思ったさ。
たまたま機嫌が悪いのかと思ったし、何か秘密で計画でも立ててるのかと思ったけどな。所詮誤魔化しておくことなんか出来なかった。判るんだよ。疎まれてるってことは。よそよそしい雰囲気は。上辺だけ合わせてるって空気は。
そんなもの見続ければ、誰だって嫌気がさして来るだろ?
別に俺は、特別視されたかったわけじゃないけどな、ふと思っちまったんだ。
ああ。危機が去ればお払い箱か……ってな」
『お払い箱……って、そんなこと!』
「なくはないだろ?」
否定の言葉を聞く前に、ハイネスは静かに否定した。
お陰でラチェットが悔しそうに眉を寄せて口を閉じる。
「前任者を追い出したかったが、率先しては動きたくなかった。だから、俺が動いている間はその背中に隠れていられた。前任者が居なくなった後は、自分たちが仕事しやすいように雑務をしてくれる人間が欲しかった。だから俺を頼って俺に任せた。
俺も馬鹿で、良いように利用されていることに気付かずに、皆が困っているならどうにかしようと躍起になって……。
でも、脅威もなくなれば頼る必要もない。むしろ、いちいち口出しされる方が迷惑だと思われるようになってた。
だから、好きなようにさせてくれるマスターを悪く言う俺が邪魔になったんだろ?」
『……だったとすれば……正直俺は、見損なう……』
青ざめた顔で、硬い声でラチェットは言った。
『だって、あいつら、あんなにお前に世話になっておきながら……そんなのってない
だろ?
お前がどれだけ嫌な思いを耐えて来てくれたのか! あいつら何も知らないんだ!』
「まぁ、知らないんだろうな」
『それでも普通は分かるだろ? だからあんなに当時は感謝してたんだろ?』
「当時はな。喉元過ぎれば忘れるものも多いんだよ」
怒りを露わにするラチェットを見ながら、ハイネスはますます気の抜けた声を上げた。
『俺、あいつらに言って来る!』
言うが早いか、今すぐにでも飛んで行きそうな勢いで立ち上がるラチェットへ、『いいんだよ』とハイネスは声を掛けた。
『でも!』
「いいんだ。どうせ言ったところで、いつまで昔のこと持ち出すんだって、疎まれて終わりさ。
そりゃそうだろう。もう、俺のして来たことは昔の事なんだ。今は今で何の不自由もなく仕事が出来てるんだ。それにいちいち文句を付けている俺がおかしいんだ。
だから、いいんだ」
『良くないだろ? なんでお前がいつもそうやって貧乏くじ引くんだ!』
「――って、なんでお前が泣きそうな顔になってるんだよ」
まるで自分の事のように感情を露わにするラチェットを見て、ハイネスの荒んだ気持ちが穏やかになった。
「だから俺は、お前に何も言わずに出たんだよ。
こんなこと知ったら、お前も今までのようにあいつらと仕事出来なくなるだろ?
本当は俺が、何も知らない振りをして、あいつらに合わせていられたら問題なかったんだろうけどさ。あいつらの本心知ってまで、あいつらに合わせるつもりは欠片もなくなっちまった。
虚しくなったんだ。信用も出来ないしな。自分に掛けられる言葉が全部嘘に聞こえるようになったら、そんな奴らと一緒にはいられない。そう思ったら、自分の居場所がないような気がして、誰もいない所に行きたくなって……」
『それで勝手に一人で出て行ったのかよ!』
眉を吊り上げて睨み付けられた。
『なんで相談してくれなかったんだよ! 俺まで信用出来なかったのか?
お前が、たった独りでアトリエを出たって知ったとき、俺がどう思ったか、お前に解るか?!
お前も大概自分勝手過ぎる!』
「すまん」
胸倉を掴まれて怒鳴られて、ハイネスは素直に謝った。
『何、笑ってるんだよ』
怒鳴られているにも拘らず、ハイネスは笑いを堪えることが出来なかった。
「いや、すまん。なんか、嬉しくてな」
『は? 俺は怒ってるんだけど?』
「まぁ、そうなんだけどな。でも、お前の反応がな。俺の望んだ通りのもので良かったと思ってな」
『……?』
「だからな。お前ならきっと相談したらそうやって怒ってくれるとは思っていたんだ。
でもな、万が一、お前にまで見限られたり冷たい態度を取られたら、それこそ俺は誰を信じていいか分からなくなる。だからお前にも説明出来なかったんだ」
言葉の最後が震えていた。
細めた目尻から、涙が零れた。
釣られたように、ラチェットの顔も泣きそうなものになる。
『お前はやっぱり卑怯だ。
そんなの見せられたら、怒れないじゃないか……』
「悪いな。でも、ありがとう」
『……どう、いたしまして』
悪びれずに紡がれた感謝の言葉に、完敗したとばかりに溜め息を吐いたラチェットが、ハイネスの隣に座り直す。
『仕方がないから、俺もここに残るよ。なんか帰る気なくした』
「ありがとう」
『だから、とりあえずスペシャルコーヒーもう一杯』
「はいはい。俺が今淹れますよ」
不貞腐れたように頬を膨らませて要求するラチェットに、苦笑を浮かべてハイネスが立ち上がる。
流し場でコーヒーを淹れる準備をしながら、ラチェットの後ろ頭を眺め、それまでの会話を思い出し、ハイネスは思った。
ここに来て良かった――と。
ずっと、ここにいられればそれでいい――と。
ここにいれば、孤独を感じずに済むのだと。
少なくとも、信用も出来ない奴らと一緒にいなくて済むのだと、心から安堵した。
しかし、荒み切っていた心が満たされ癒されたと思った時だった。
突然、火が付いたように泣き叫ぶ少女の声が聞こえて来たから堪らない。
ビクリと体を震わせて声のする方を見た。
声はアトリエの外、玄関からして来るようだった。
ここには自分たちだけのはずなのに、どうして女の子の泣き声がするんだと、若干恐怖を覚えつつハイネスはラチェットと顔を見合わせた。
少女の泣き声は、慟哭と言っても差し支えのないほど心に迫ったものだった。聞いているだけで胸が締め付けられるものだった。
内心では何かの罠なのではないかと疑う気持ちもあったが、ハイネスは意を決してアトリエのドアを開けて様子を見た。
するとそこに、玄関ドアに背を預け、涙をボロボロとこぼしながら泣いている、猟銃を肩から下げた赤いポンチョを来た少女が存在していた。
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