第三章『ハイネスの部屋』
(1)
「本当に、何だったんだろうな、俺が今までして来たことは……」
ハイネスの落胆した声が虚しく響く。
そこはアトリエだった。服飾ギルド『フリル』の無人のアトリエ――を模した部屋。
ハイネスがいるのは、流し場とアトリエを仕切るカウンターの前に置かれたソファ。
背もたれにぐったりともたれ掛り、長い手足を放り出し、本来は強い意志を湛えていた青い瞳に影を落として、虚ろな視線を木の床へと向けていた。
見るともなしに、床に散らばっている布やフリルの切れ端に視線を注いでいると、ハイネスの頭の中に同僚たちの声が蘇って来た。
窓辺が好きでいつも調子のいいことを口にするランディは、若い親にウケの良い子供服を多く手掛ける陽気な男。
そんなランディの傍を陣取って、来月ランディとの結婚を控えているメルクルは、自身は奇抜な格好をしているものの、手掛ける服は奇をてらわない子供服。
ジュディは感情の起伏が激しいお喋り屋。一度話し出したらなかなか止まらないが、手掛ける服は年配の貴婦人が好みそうな落ち着いた服の数々。
その横で、ひっそりと誰とも会話をせずに黙々とゴシックな服を作り続けるのが、協調性の欠片もないマルディ。
その向かい。入口に近い場所で若い女性に人気のフリルの多い可愛らしい服を手掛けるのが、どう見ても力仕事が得意そうな見た目のヴァンド。
そして、個性も作る服もバラバラなその面子の、マネジメントやスケジュール管理を任されているのが、
『どうしたんだ? ハイネス。そんな疲れ切った声出して』
ポンと一つハイネスの肩を叩き、淹れたてのコーヒーの入ったコップを差し出しながら隣に座るラチェット。
「いや、なんかさ。疲れたんだよ」
ハイネスは当然のように受け取って、コップの縁を親指で触りながら答えていた。
「仲間のためと思って、がむしゃらやって来た自分に、疲れたんだ」
『そっか』
と、軽い相槌が返って来た。
「うん」
と、ハイネスは気の抜けた返事を返して、熱いコーヒーを一口飲んだ。飲んで、軽く眼を瞠った。
「なんだ、このコーヒー。豆変えたのか?」
美味かったのだ。今まで飲んで来た物よりも格段に。
『あ、分かった? 分かってくれた? 絶対これ、ハイネスが好きだと思ったんだよ、俺』
見れば、凄まじく得意げな嬉しそうな笑顔で、ラチェットが身を乗り出していた。
『この前、集金してたときにさ、試飲させてくれる店があってさ。絶対これ気に入ると思って、どこの店で買ったのか聞いておいたんだ。やっぱり俺の見立ては間違ってなかったな』
「ああ。美味い。断然こっちの方が美味い」
『だろ? でも、ちょっと値段が張るから、特別な時だけ飲むようにしような。日に何度も飲んでたら、半月持たない。半月も持たないのに、いつものコーヒーの二月分の値段するんだぜ? びっくりだよな――って、おい! 貴重だって言ってる傍から盛大に吹き出すなよ勿体ない!』
「げっほ、げっほ。いや、だって、二月分って、お前それ……」
『だから、皆には内緒だぞ。あいつらに知られたら一週間ともたないんだから』
避難がましい目を向けられて、手渡された布巾を使い、ズボンに吹き出したコーヒーを拭き取るハイネス。
『それに、これは俺自身のポケットマネーから出てるから、皆に飲ませてやる必要はないの。なんたってこれは、普段頑張っているハイネスに対しての、俺からのご褒美なんだから。解ったら、精々バレないように飲みなさい』
「はい」
『でも、俺も飲みたいから、飲むときは俺も誘ってな?』
とニカッと笑って念を押されれば、ハイネスは笑わずにはいられなかった。
「当り前だろ? お前のポケットマネーから出てるんだ。ちゃんと誘って飲み交わすさ」
『よろしい』
と大きく頷き、コップを傾けるラチェット。
それにつられてハイネスもコップを傾けると、
『でも、良かったぁ』
心から安堵したような声が耳を打った。
何かと思い視線を向ければ、
『やっと、お前の笑った顔が見られたよ』
ラチェットが、自分のコップを見詰めながら苦笑を浮かべて呟いた。
途端にハイネスは、コーヒーの苦みを思い出した。だが、
『ごめんな。ちゃんと気が付いてやれてなくて。俺がもっと早くに気が付いて間に入れていたら、お前が追い詰められることもなかったのにな。俺の見る目がなかったばっかりに、お前一人に辛い思いさせたな。ごめんな』
無人のアトリエに視線を向けての謝罪の言葉を聞いたなら、ハイネスは咄嗟に左手で顔を覆っていた。
覆って、声を殺して、泣いていた。
不意打ちだった。
もしかしたら、ラチェットも他のメンバーと同じように、自分のことを疎ましく思っていたのではないかと考えていたハイネスにとっては、不意打ち以外の何ものでもなかった。
何重にも疑心暗鬼の壁に取り囲まれていたハイネスの心にあっさりと入り込み、それまで築き上げていた『意地』と『頑なな心』をあっさりと打ち崩して行かれてしまえば、それまで堰き止められていた待ったなしの感情が涙となって溢れ出た。
身を折って、声を殺して泣き続ける。
膝に肘を付き、カップを抱え込んで泣き続けるハイネスの背中を、ラチェットは小さな声で何度も謝りながら、擦り続けた。
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