(3)
この部屋を抜ける条件は、道に沿って進むだけ。寄り道をせずに真っ直ぐ進むだけ。
簡単だとアインは思っていた。むしろ、簡単過ぎると思っていた。
だが、実際はまるで違っていた。
視界に入るから気になるのだと、無理矢理ヴォルカースと幼い頃の自分を追い越して歩いていてみても、いつの間にか目の前を二人が歩いていた。
アインは追い越すことを諦めて、道だけを見て先を急いだ。
何も見なければ惑わされはしない。
そう思っていた。しかし、森はそれすらも許しはしなかった。
『あ、おかあさーん。おとーさーん』
幼い頃の自分の呼び声に、アインは弾かれように顔を上げていた。
道は大きく右に湾曲していた。その湾曲部分に、取って付けたような光景が広がっていた。
今は亡き父親と母親が、調合用の薬草取りの手を止めて、自分を振り返った様が飛び込んで来たのだ。
ただし、その顔だけはぼやけてハッキリと見えなかったが、それでも声はアインの両親であることを裏付けていた。
『あら、アイン。一人で良くここまで来られたわね』
『おや、その人は?』
何も知らない両親が、驚きと少しばかり警戒を滲ませてヴォルカースへ視線を向けた。
アインは戦慄した。その後の無残な光景が鮮明に蘇ったのだ。
この後ヴォルカースは、人畜無害な笑顔を見せて、母親を惨殺した。
鮮血が飛び散り、草木を染めた。
顔がぼやけていても、アインの脳裏にはしっかりとその時の光景が蘇っていた。
『貴様! 何をする!』
父親がすぐ傍にあった猟銃を拾い上げ、撃つより速く、ヴォルカースが間合いを詰めて、鋭い爪の生えた抜き手を差し込む。
父親の口から鮮血が吐き出され、ガクリとその場に膝を着く。
そして、突然の惨劇を目の当たりにして声すら上げられずにいるアインに向かい、震える手を伸ばし、振り絞るように言葉を紡ぎ、
『に……げ……ろ』
朽ち果てた。
その顔を、思い出した。
その光景が繰り広げられる様を再び見せつけられるのかと思うと、戦慄せざるをえなかった。
「逃げて!」
アインは叫び、駆け出して、思わず道を踏み外しそうになっていた。
踏み止まれたのは、あの時の光景が、悪夢が、再び目の前で展開されていたから。
ヴォルカースが目の前で母親をざっくりと切り裂いたのを見てしまったから。
踏み止まろうとして踏み止まれたわけではなく、単に足が竦んで立ち止まっただけだった。
直後、アインは目を逸らし、道なりに走り出していた。
このままその場に留まっていれば、絶対に道を踏み外してしまう確信があった。
当時の自分には何も出来なかった。
だが、今は違う。今は妖魔とも戦えるだけの力を得ていた。
幼いながらも実績は大人たちにも引けを取っていない自信がある。
いや、今なら確実にヴォルカースと戦える自信があった。
だからこそ、あの場所に留まれば、確実にアインはヴォルカースに襲い掛かっていた。
ここでヴォルカースを襲ったところで無駄でしかないことは解っていると言うにも拘らず、それでもあの時救えなかった父親を救うために、アインは道を踏み外していただろう。
二度も目の前で殺されて行く姿を見るのは耐えられなかった。
出来ることなら救いたい。救える物なら救いたい。
だが、救うことは出来なかった。道を踏み外せば目的を叶えられないと言うシュヴァルの声が蘇る。
いちいち蘇らなくてもアインには解っていた。ここにいる父親を助けたところで現実に生き返る訳がないと言うことは。ヴォルカースを倒すことが出来ないと言うことは。
それでも眼の前で、再び父親が殺されそうになっているところを見ていることは出来なかった。頭では無駄だと理解していても、心はそうも行かない。
だからアインは逃げ出していた。
そう。逃げ出していたのだ。逃げ出すしかなかった。戦う術を身に着けたと言うのに、あのころと変わらずに逃げることしか出来なかった。
それなのに、アインの耳には当時のヴォルカースの穏やかな声がハッキリと聞こえていた。
――恐ろしい場面を見せてごめんね。でも、君のご両親が先にしたことなんだよ。
だからね、君のご両親がしたように、君だけは見逃してあげる。どこまでもどこまでも逃げればいいよ。私は追ったりしないから。
そう。宣言通り、ヴォルカースはアインを追って来ることはなかった。
当時のアインはただ泣きじゃくりながら走って逃げた。
走って逃げて、その後、親代わりとなってくれるミリシュに助けられた。
助けられたアインは沢山のハンターと共に過ごし、妖魔に対抗するための技術と知識を身に着けて行った。
それなのに、今の自分も、かつての自分と同じように逃げている。
耳を塞ぎ、余計なことを聞かなくてもいいように。
道だけを見詰め、余計なものを見なくてもいいように。
そうして周囲の情報を遮断して、頭の中を空っぽにしようと努力した。しかし、その尽くが徒労に終わっていた。
アインの脳裏には、両親を殺されてミリシュに拾われてから今までのことが走馬灯のように次々と蘇っていた。
楽しいことも辛いことも笑ったことも泣いたことも。
畳み掛けるように様々なことを思い出した。走りながら思い出した。
それに呼応するように、視界の端々に思い出したくもない場面が実際に繰り広げられていた。
助けられなかった人々。眼の前で失った命。今なら助けられた過去の失敗で失った人々の叫びが、アインを責めるように折り重なって聞こえて来た。
足元だけを見て走るアインは、時折折れる道から踏み外しそうになりながら。
その度に、思わず駆け付けたくなるような過去の出来事を見せつけられ、アインは胸を締め付けられるような罪悪感を抱きつつ、無理矢理方向を変えて逃げ続けていた。
逃げる度に責める声が増えて行く。
どうして助けてくれなかったのかと呪詛が嵩む。
ここが自分にとって最も厭う場所を現していると言うシュヴァルの言葉を思い出す。
確かにここは忌まわしい記憶ばかりが映し出される空間だった。
堪らなかった。耐えられなかった。
助けたくとも助けられない現状が、状況が、気に入らなかった。
助けられるものなら助けたい!
だが、助けたくとも襲われている人々は皆、道の外にいた。
道を外れたらこの部屋の向こうへ行けなくなる。行けなくなれば連れ去られた人間を連れ戻すことが出来なくなる。出来なければ依頼は失敗に終わる。
ハンターにとって失敗は汚点。
そして、その汚点をアインはまざまざと見せつけられていた。
一刻も早く抜け出したい! 抜け出して次の部屋へと進みたい。
さもないと――耐えられない!
吐き気が込み上げるほどの罪悪感と怒りがアインを蝕んでいた。
道はカクカクと折れ曲がる。先を見据えないといつ踏み外すとも知れなくなる。
お陰でアインは眼を逸らすことが難しくなっていた。
眼の前に助けを求めて飛び出して来る女が現れる。手を伸ばせば掴めそうな手を掴み損ねる。
闇の奥へ引きずられて行く中、アインは女に睨み付けられていた。
その口が、お前のせいだと訴えていた。
息が詰まった。森中に呪詛が響いていた。怒鳴り声が響いていた。泣き声が響いていた。
頭の中が狂いそうになっていた。
そこで、最大級の忌まわしい記憶が目の前に展開していた。
ヴォルカースだった。
ヴォルカースが、心の底からアインが慕っていたミリシュの命を奪った瞬間が飛び込んで来たとき、アインの足はピタリと止まっていた。
眼を大きく見開いて、アインはその光景に釘付けになっていた。
誰か助けてと、身動きが取れなくなっている自分の姿も見えていた。
周りには同僚のハンターたちがいるはずだった。
打ち合わせでは、皆でヴォルカースを封印するはずだった。
そのために最も危険な役を引き受けたのが、アインの育ての親、姉と慕っていたミリシュだった。
そのミリシュが、アインの目の前で、両親と同じようにヴォルカースによって殺されて。
そして――逃げて、と口にした。
鮮血が口を染めていた。痛みに歪んだ顔を涙が零れた。
ヴォルカース越しに伸ばされた手を掴まんと、地面に這い蹲ったままのアインも懸命に手を伸ばした。
しかしアインは、伸ばされた手を掴むことが出来なかった。
伸ばされた手がパタリと落ちたとき、アインの目の前は暗くなった。半身をごっそりと持って行かれたような喪失感が襲った。
怒りは芽生えなかった。失ったものの大きさが余りにも大き過ぎて、怒りを覚える暇がなかったのだ。
アインはただ泣いていた。
そんなアインに、振り返ったヴォルカースが、あの時と変わらぬ柔らかい声で言ったのだ。
――もしかしたら、妖魔よりも人間の方が恐ろしいかもしれないね。
当時、その言葉の意味が理解出来なかった。自分から大切な人ばかり奪っておきながら、何を言っているのかとアインは思った。
後に、その言葉の意味を理解したとき、アインは同僚全てを憎んだ。恨んだ。ヴォルカースの言葉が正しかったと認めざるを得なかった。
それでも、直接育ての親代わりのハンターの命を奪ったのはヴォルカース。
過去と今が融合し、アインの殺意が刹那の時を刻んで爆発した。
「ヴォルカーァアアアアス!!」
アインは猟銃に弾を込めて撃ち放った。
一発、二発。弾を込め直し、三発、四発。
轟音が森の木々を震えさせた。
何発撃とうとも、弾はヴォルカースの躰をすり抜けて行くだけだと言うのに、撃たずにはいられなかった。叫ばずにはいられなかった。呪わずにはいられなかった。今すぐ消し去ってやりたかった。
それでもヴォルカースは微笑みを浮かべたまま何事もない様子で立っていた。
憎かった。気に入らなかった。引き裂いてやりたかった。
「……あいつを、殺してやる!」
アインの中に、現実と虚構の区別をつけると言う冷静さなど最早残ってはいなかった。
怒りに駆られたアインは、シュヴァルの言い付けすら忘れて、道を踏み外しヴォルカースに掴み掛ろうとした。
もしもそのとき、『お嬢ちゃん!』と叫ぶ切羽詰まったシュヴァルの声が聞こえて来なければ、間違いなくアインは道を踏み外していただろう。
その声がアインの理性が生み出したものだったのか、現実にシュヴァルが叫んだものなのかアインには分からない。分からないが、ぎりぎりのところでアインは踏み止まっていた。
心臓が早鐘を打っていた。足元から震えが込み上げて来た。ジリジリと後ずさり、今しかチャンスはないとばかりにアインは踵を返して、走り出していた。
その目の前に、道の先に、ポツリと木製のドアが立っていた。
アインはもう振り返らなかった。目移りもしなかった。絶え間ない呪詛にも耳を貸さなかった。
ただただ一目散に地面を蹴って、体ごとぶつかるようにアインはドアを開け放ち駆け込んだ。
そしてすぐさまドアを閉める。
纏わり付いていた様々な声がピタリと途絶えた。
切り抜けた――そう思った途端に、アインはずるずるとへたり込んだ。
へたり込み、
「うわぁあああああああああっ!」
大声で叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
決して忘れていたわけではない。だが、思い出したくもない出来事をまざまざと見せつけられ、力を得た今でも結局何も出来なかったことが悔しくて悔しくて。救えないことが悔しくて、怒りが込み上げ、叫ばずにはいられなかった。
だからアインは気が付いていなかった。
自分以外の人間に見られていると言うことを。
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