(2)

 轟音を轟かせ、猟銃が火を噴いて――そして、何も起こらなかった。

 ヴォルカースは立っていた。いや、何事もなく足を進めていた。


「ふ~ん。あいつがお嬢ちゃんを『孤独』にした狼の妖魔か」


 愕然と眼を瞠るアインの横で、黒ずくめのうさ耳妖魔が、興味のないようなあるような、何とも気の抜けた声で呟いたとき、アインは弾かれたように黒ずくめのうさ耳妖魔を振り返り、声音だけは押さえて言葉を叩き付けた。


「あれは、何?」


 黒ずくめのうさ耳妖魔はニヤリと笑って答えた。


「お嬢ちゃんの『特別』さ。言っただろ? ここはお嬢ちゃんの『特別』で出来ている。

 だからこそ、この世界にあいつは出て来た。

 しかし、ちゃんとお嬢ちゃんも感情表現が出来るんだな。今すっげぇ良い顔してるぜ? 憎くて憎くて仕方がないって顔。今すぐにでもぶち殺してやりたいのに、どうして殺せないんだって苛立ちが、澄ましたその顔にちゃんと出てる。堪んねぇな」

「この変態が」


 アインは黒ずくめの妖魔を睨み上げて吐き捨てた。


「いや。それはさすがに傷つくんだけどな。別に俺は変態じゃない。ただの妖魔だ。妖魔は人間の感情の昂りを見るのが好きなだけだから、別にこれは正常な反応だと思うぜ? って、またお得意の無視かい」


 アインは既に聞いてなどいなかった。

 自分から悠々と立ち去るヴォルカースの後ろ姿を睨み付けながら、アインは考えていた。

 ここは自分にとっての『特別』を映す場所。

 何も『特別』と言う言葉は喜ばしいことだけを指すものではない。

 自分にとって最悪の出来事だって充分『特別』となりうる。

 結果、アインは今、ヴォルカースの後ろ姿を見ていた。


「……一体あいつはどこへ行こうとしているの?」


 アインは振り返らずに訊ねた。

「知るか」と、不貞腐れた答えが返って来た。

 答えを聞いて、アインはヴォルカースの後を付けることにした。

 ここは幻の世界。いくら憎くても目の前のヴォルカースを狩ることは出来ない。

 どんなに気に入らなくとも、アインが捜しているヴォルカースではないのだ。

 だとすれば、眼の前のヴォルカースがどこへ行くのか、何のために出て来たのか、アインは知りたくなった。


 ヴォルカースは鼻歌を歌っていた。陽気なリズムを奏で、殺意の塊と化しているアインのことなどまるで眼中にない様子で。

 アインは膨れ上がる殺意に我を失いそうになりながらも、ヴォルカースの後ろをずっと付いて行った。


 木漏れ日が地面を照らす。楽し気な鳥の囀りが聞こえる。爽やかな風が吹き抜ける。ピクニック日和と言われれば、これ以上にピクニック日和もないほどに明るい森の中。

 ただ、アインだけが相容れない状態だった。異質な存在だった。


「どっちが危険対象か分かったもんじゃねぇな」


 何故か後を付いて来る黒ずくめの妖魔がからかい口調で呟けば、アインはきっぱりと無視をした。

 自分が冷静さを欠いている自覚は充分にある。

 危険人物だと遠回しに言われたことは不愉快極まりないが、あながち間違いでもない以上反論のしようがなかった。


 ただ、付いて来られる状態が疎ましかった。どこかへ行ってしまえばいいのにと心の底から思っていた。足音はなくとも気配は付いて回る。気が散って仕方がない。

 それでもアインはヴォルカースの後ろ姿から視線を放さず後を追っていると、不意にヴォルカースが足を止めた。

 銃弾に躰を貫かれたところで何の反応も示さなかったと言っても、相手の間合いに入って足を止めることだけはしなかった。


 ヴォルカースの端正な横顔が見えた。黄味がかった肌に金色の眼。口元には笑み。

 ヴォルカースは立ち止まって何かを見付けたようだった。

 一体何を見付けたのかと、木立の間を縫って確認すると、アインの心臓が大きく脈打った。


 ヴォルカースの視線の先に広がる光景を見て、自分が何をこれから見せられるのかを悟ってしまったから。

 それはアインもよく知った場所だった。いや、忘れようにも忘れられない場所だった。

 森の中に現れる、色とりどりの花々が咲き乱れる花畑。

 そして、その中でヴォルカースに背を向けて、せっせと花を摘んでいる赤い頭巾の幼女の姿。

 幼女はヴォルカースの存在に気が付いていない。

 ヴォルカースの毛皮に覆われた手が、人間の手に変わる。ふさふさと揺れていた尾が腰に巻き付く。

 アインの鼓動がますます速くなる。脳に響く。血の気が引く。声が蘇る。


 ――やぁ、お嬢さん。こんなところで何をしているんですか?


 柔らかい声音が蘇る。

 声を掛けられた幼女が驚いたように振り返る。

 ふっくらとした頬に、肩まで伸びたふわふわの金髪。何も知らない青い瞳に驚きを浮かべてヴォルカースを見る。


 ――こんなところに独りでいては、怖い狼に襲われてしまうかもしれませんよ?


 言われて幼女はハッとした表情を浮かべ、途端に慌て出した。

 それを見たヴォルカースが柔らかい笑みを浮かべて補足する。


 ――さぁ、ご両親はどこですか? あなたのような幼い女の子が独りでこんな遠くに来られるはずはありません。ええ。この辺りに人の住む家がないことは良く知っていますから。

 そうですか。近くにいるのですね。では、そこまであなたを危険な物から護衛してあげましょう。


 そう言って屈み込み、右手をそっと差し出されたとき、アインはひどくドギマギしたことを思い出していた。

 何も知らなかったアインは、突然現れた物腰の柔らかいヴォルカースのことを欠片も疑っていなかった。その手を取ると言うことがどう言うことを意味するのか。取ったことで何が起こるのか、何一つ想像することも出来ずに、アインはその手を取っていた。

 そのときの光景が、今まさに目の前で繰り返されようとしている。


 止めなければ!


 その後に起こる数々の悲劇を、孤独への道のりを思い出しながら、アインは過去の自分の過ちを繰り返して堪るかとばかりに駆け出して、


「ちょい待ち」


 再び背後から腰に手を回されて抱え上げられた。


「放して!」

「痛っ!」


 地面から足が離れた瞬間、肩に掛けていた銃口を思い切り突き上げた。

 お陰で銃口が、容赦なく黒ずくめの妖魔の顎を打ち上げる。

 堪らず妖魔の手が緩み、生まれた隙を見逃さずアインは走り出すも、直ぐに後ろに引っ張られた。その勢いがあり過ぎて、堪らず後ろへ蹈鞴を踏む。

 睨み付ければ、『あー痛い』と右手にしっかりとアインの猟銃を握り締め、左手で顎を擦る黒ずくめの妖魔が、さすがにムッとした顔でアインを睨み返していた。


「それを返して!」


 強引に銃を奪われ、右肩に痺れを覚えながらアインが取り返しに戻れば、


「返すかバーカ。こんな凶器を振り回させたりなんかしねぇよ」


 空高く手を伸ばして凄まれる。

 飛び跳ねたところで到底取り戻せるものではない。

 返せ返さないを繰り返している間にも時間は容赦なく続いて行く。だとすれば――

 アインは猟銃を諦めて踵を返し、ヴォルカースへと駆け出した。


「あっ」


 黒ずくめの妖魔の驚いた声を背後に聞きながら、アインは駆ける。しかし、


「だから、ちょいと待ちなって」

「っぶ」


 瞬間移動並みの速さで目の前に現れた黒ずくめの妖魔の腕の中に、アインは自ら飛び込んだ。


「少しはヒトの話を聞くもんだぜ、お嬢ちゃん」


 後ろ手に両手を束ねて抱きすくめられ、若干苛立った声で黒ずくめの妖魔は窘める。


「そんな眼で睨んでも無駄。

 あのな。ここは現実じゃァない。お嬢ちゃんはここに何しに来たんだ。目的見失ってんじゃねぇのか?」


 言われてアインはハッとした。


「はいはい。見失ってたんだな。そりゃまぁ仕方がないけどな」


 と、溜め息交じりに同情されて、アインはムッとしながら放すことを要求した。


「別に放すことはいいが、いいか? またさっきみたいにいきなり走り出すんじゃねぇぞ。もしもまた真っ直ぐにあいつの元へ駆け寄って道を逸れてみろ。お嬢ちゃんは自分の目的をどっちも果たすことが出来なくなるぞ。いいか?」


 散々念を押されて手を放される。

 咄嗟に走り出したい衝動に駆られたが、真っ直ぐに見詰めて来る赤い瞳が無言の圧力を向けて来た。


「いいか。お嬢ちゃんはここに、攫われた人間助けに来たんだよな?」

「――そうよ」

「だったら、いつまでもこの部屋にいるわけにはいかないわけだな」

「……そうよ」

「だったら少し話を聞け」

「…………」

「どんだけ嫌か良く分かったから。簡潔に教えてやるから、そんな仏頂面するな。

 いいか? 各部屋には必ず出口はある」

「それはどこ」

「それは教えられない……だああああから、ちゃんと話を聞け」


 さっさと踵を返そうとするのを慌てて引き留めて言葉を紡ぐ。


「でも、ヒントは教えられる。

 いいか? 各部屋には攻略するためのヒントが必ずどこかにある。

 差し当たってこの部屋のヒントは俺だ」

「それは何?」

「簡単さ。《何があっても寄り道せずに真っ直ぐ道を辿りなさい》――さ」


 ニヤリと笑って満足げな黒ずくめの妖魔。

 対するアインは、眉間に皺を寄せて訝しむ。


「たったそれだけ? って顔してんな。でも、ヒントはそれだけ。それに素直に従いさえすれば、それほどこの部屋を抜けるのは難しくはない。

 ただし、この部屋は容赦なく寄り道させようとして来る。

 もしも寄り道しちまえばどうなるか……それはそのときのお楽しみだ。

 当然だろ。俺がそこまで懇切丁寧に説明してやる必要はないんだから。ヒントをやるだけありがたく思ってもらいてぇな。

 ただ、どうしても駄目だと思ったときは、俺のことを呼んでくれれば助けてあげなくもない」

「何故?」

「何故だろうなぁ~。お嬢ちゃんが可愛いからかな? むさい野郎どもは見ていたくもねぇし……いや、そんな蔑むような眼で見るの止めてくれねぇかな。なんかちょっと傷つくんだけど?」

「喜べと言うのは酷と言うもの。

 どこの馬鹿が妖魔の言葉を無条件で信じるの?」

「まぁ、そう思うのも当然だけどな。ヒントに嘘はない。

 それに、助けてやるって話も嘘じゃない。こう見えても俺たちは、子供は襲わないんだ」


 確かに、『シルバーラビット』の被害者の中に子供はこれまでいなかった。


「だから、ハンターである以上はこの屋敷に入れたりはしたが、本気でお嬢ちゃんが危なくなったり身の危険を感じたときはいつでも外へと出してやる。

 ただし、一度外へ連れ出したら、二度とは屋敷に入れたりはしないがな」


 ニカッと笑い、アインの頭を気軽に撫でる。


「ちなみに、どうやって呼べばいいの?」


 アインはその手を不快気に払い除けながら質問した。


「変態?」

「酷過ぎだろ?!」

「管理者」

「面白くない」

「妖魔」

「まんまじゃん」

「じゃあ、なんなの」

「名前で呼んでくれよ、連れねぇな」

「名前?」

「そうそう名前♪」

「知らないけど」

「え?」


 黒ずくめのうさ耳妖魔が、キョトンとした顔でアインを見返した。


「あなたの名前なんて、知らないわ」


 もう一度アインは冷たく言い放った。


「あれ。言ってなかったっけ?」

「言ってないわ」

「そっか。じゃあ、改めて自己紹介だな。

 俺はこの屋敷の『管理者』のシュヴァル=ラビッタ。何か困ったことがあったら心を込めて」


 と『心を込めて』の部分に力を込めて、


「シュヴァルと呼んでくれ。そうすればいつでもお嬢ちゃんの前に馳せ参じてやるよ」


 そう言って差し出された手。その手が人のものではなく、ピンク色の肉球を備えた黒い兎の手だったとき、誰が妖魔の言葉を信じるものかと思っていた自分の意思を無視し、アインは力一杯両手で握り締めていた。


 そのあまりの勢いの良さに、手を差し出したシュヴァル自身が驚きに眼を瞠ったりもしたが、微笑ましい物を見たとばかりに口元を綻ばせていると、ハッと我に返ったアインがサッと手を放し、薄っすらと桃色に染めた顔を逸らしてぶっきら棒に、『猟銃を返して』と要求した。

 シュヴァルは良いものを見たと笑みを深め、自分の肩に掛けていた猟銃を素直に返すと、


「いいか? 俺の名前は覚えたな」

「覚えたわ。シュヴァル」

「よしよし。じゃあ、この部屋を出る条件も覚えているな?」

「何があっても道を外れないこと」

「そうそう。何があっても、何を見ても、何を聞いても、絶対に道を逸れるな。逸れなければお前さんは目的の場所に辿り着ける。出来るか?」

「出来るわ。子供扱いしないで」

「いや。どう見てもこど……はいはい。分かったから、直ぐに銃口向けるの止めなさい」


 若干疲れた声音で銃口を逸らし、


「まぁ、本当なら今すぐ家に返してやりたいところだが、精々頑張って見付けてみな。じゃあな」


 そう言って姿を消した黒ずくめのうさ耳妖魔が居た場所を暫し見て、一度息を吐いたアインは気持ちも新たに振り返った。

 その先で、何も知らずにヴォルカースと手を繋いで歩く幼い頃の自分を睨み付け、アインは再び道を歩き出した。

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