第二章『屋敷の中は別世界』

(1)


 初めアインが見たとき、そこは紛れもなく玄関ホールだった。

 ただ、異常なほど明るいとは思っていた。

 ランプや蝋燭の明るさではない。晴れた日の外の明るさが満ちていた。

 お陰で入って正面の壁に飾られている花畑の絵画もしっかりと見えた。

 泥を落とすための幾何学模様が描かれた大きなマットレスも見えた。

 左右に伸びる磨き抜かれた廊下も見えていた。


 しかし、一歩足を踏み込んで、硬い床に足を付けたとき、世界は一変していた。

 踏み締めた床は硬くはなかった。

 いや、硬いには硬いが、石の硬さではなく、踏み締められた地面の硬さ。硬い中にも柔らかさが含まれている土の硬さだった。


 そう。足元は土だった。土の道が――踏み均された土の道が伸びていた。

 それだけではない。視界は緑に埋め尽くされていた。鼻から吸い込む空気は草木の匂いに満ちていた。

 遠くの方で鳥の囀りが聞こえ、被ったフードを揺する程度の風が吹き抜けていた。


 そこは、森の中だった。紛れもなく、森だった。

 咄嗟にアインは背後を振り返っていた。

 自分が吹き飛ばした扉があるはずだった。

 屋敷へ招き入れた、黒い兎の耳を生やした黒ずくめの管理者の姿があるはずだった。

 しかし――


「……扉が……ない?」


 道はどこまでも伸びていた。

 明るい森の中。真っ直ぐに伸びた道。

 アインは本来あるべき扉を探して元来た道を戻ってみた。

 周囲を見渡しても、奥までずっと緑は続き、気が付くとアインは小走りになっていた。


 だが、直ぐにぴたりと足を止める。

 真っ直ぐに道の先を見詰め、瞼を半分下ろすと、クルリと踵を返す。

 そのまま再び歩き出す。

 しっかりとした土の感触を踏み締めながら、地面を踏み締める音を聞きながら、アインは早足で道を進んだ。

 なるべく周囲を見回さないように、進むべき道の先を見据えながら黙々と進む。

 ここは既に妖魔の世界だと頭の中を切り替える。

 屋敷の見てくれは人の世界と同じだとしても、元来この世のものではない。似て非なるものである以上、中が真っ当であるわけがないのだ。

 ない物を探したところで、ない物はない。そのぐらいのことは想定内のこととして、先に進んだ方が健全だと判断した結果だった。

 ただし、


「……気に入らない」


 アインは口の中で小さく呟いていた。

 木漏れ日が織り成す影を踏み締めながら、深い森の匂いを肺腑に送り込みながら、アインは燻る苛立ちを無視し切れなくなっていた。


 妖魔の作る世界だ。どんな世界が待ち受けているか、あれこれと想像はしていた。

 するだけ無駄だろうと言う同僚もいたが、無駄で終わるならそれはそれで構わない。想像すらしない出来事と直面し、冷静さを欠いて命を失っては元も子もない。


『ハンターたるもの、常に最悪を想定するべし。

 取り越し苦労は笑って流すべし』


 アインは、心から信頼していたハンターの言葉を思い出しながら歩いていた。

 座右の銘だった。

 見た目も歳も若いが、お陰でアインはそうそう現場でパニックに襲われることはなかった。

 だからこそアインは出口を探すことを諦めて、先に進むことを選んだのだ。


 ただ、恐ろしい世界ではなく、極身近な森の景色が広がっていることが気に入らなかった。

 森はアインにとって恐ろしい場所ではない。怯える要素はどこにもない。

 抱くとすれば、強い怒りと不快感。

 思い出すだけで体が熱を持った。


「……気に入らない」


 冷静になれと頭の中では忠告する声がする。

 しかし、ざわざわと背筋を這い上がり、脳天を突き抜けて行く怒りはとても押さえ付けられるものではなかった。

 奥歯を噛みしめ、拳を握り、肩を怒らせてアインは周囲を見ずに歩き続ける。


「――って、どれだけ綺麗な無視を決め込むんだよ、お嬢ちゃん!」


 焦った声が聞こえて来たのはそんな時だった。

 アインは――振り返ることも、足を止めることもなく無視を決め込み歩き続けた。

 真っ直ぐ見ていたとしても、視界の端に緑以外のものが入ってはいた。

 明らかな黒。不自然な黒。本来であれば警戒して然るべき違和感。

 それでもアインが無視をしたのは、相手があの『管理者』だと見て取っていたから。


「おいおいおいおい。全くお嬢ちゃんは肝の据わり方が半端ないな」

「……」


 すぐ後ろで溜め息交じりの声が降って来る。

 足音は全くしなかったが、アインには真後ろに立っていることが分かっていた。


「普通なら焦って出口探すところだろうに、あっさり諦めるんだもんなぁ~。その歳でどれだけ修羅場潜って来たんだ?」

「……」


 煩かった。


「今までのハンターはもっと焦ったり、幻覚なんじゃないかって躍起になってたもんだがなぁ。

 むさい男たちはともかく、お嬢ちゃんのような可愛い子が泣いて、『出して下さい』ってお願いして来たら、いつでもお兄さんは現実世界へ連れ帰ってあげられるんだけどねぇ」


 と、横から覗き込まれて来る様子が右の視界に入る。

 それでも無視をし続けて突き進んでいると、観念したかのように溜め息が聞こえて来た。


「つまんねぇな~」


 別に、あんたを楽しませるためにいるわけじゃない――と内心で突っ込みを入れる。

 だが、次の台詞だけは無視し切れるものではなかった。


「お嬢ちゃんにとってこの森は『特別』なはずなのになぁ。普通なんだもんなぁあああああって、何? なんでいきなり銃口こっちに向けてんだ、お嬢ちゃん?!」


 反射的に猟銃を突き付けて下から睨み付ければ、黒ずくめのうさ耳妖魔は顔を引き攣らせて飛び退いていた。


「今のは、どう言う意味?」

「は?」

「今の言葉……この森が私にとって『特別』と言うのはどう言うこと?」


 途端に、顔を引き攣らせていた『管理者』の顔に、勝ち誇ったような、見下したような、含みのある笑みが浮かんだ。


「そのまんまの意味だよ。お嬢ちゃん」


 口調はふざけていたが、眼は笑ってなどいなかった。

 相手は妖魔なのだと再確認させられた。

 うなじの毛がピリピリと逆立つ感覚を味わいながら、アインはいつでも撃てるように撃鉄に指を掛け、


「ここはお嬢ちゃんが『孤独』になった場所だろ?」


 黒ずくめの妖魔の言葉に、ぎくりと体を強張らせた。

 何故――と掠れた声がアインの口を滑り出る。

 黒ずくめの妖魔の笑みがますます深くなり、妖魔の赤い眼が爛々と輝いた。


「簡単さ。ここは『シルバーラビット』の霧の屋敷なんだからな。一歩足を踏み入れたなら二度と戻りたくないと思わせる仕掛けは充分揃えてある。

 あいつと一緒にここへ来れば、この部屋を通ることはないが、あいつの案内がないにも拘らず押し入った奴は、逆にここから出たくなるように仕向けられる。それがこの部屋さ。

 ここは足を踏み入れた者がもっとも厭う場所を映し出す」

「――と言うことは、幻なのね」

「幻と言えば幻だろうが、お嬢ちゃんにとっては現実と変わらない。ここはお嬢ちゃんにとって最も厭う場所。つまり、『特別』な場所だ」

「だからあなたには、ここで何があったのか御見通しってことなの?」

「いいや?」


 黒ずくめの妖魔は肩を竦めてあっさりと否定した。


「俺は何も知らない。ただ感じ取ることは出来る。この世界は『孤独』に満ちている。その上で『孤高の赤ずきん』なんて通り名が付いているのなら容易に想像は出来るさ。この場所でお嬢ちゃんが孤独になったってことは。それに、ここに居れば嫌でも何が起きたのか分かるさ。

 ほら、そう言っている間にも『あいつ』が現れたぜ?」


 アインの背後を指さしてニヤリと笑われ、釣られるように振り返ったその先で、アインは見た。自分に背を向けて佇んでいる妖魔の姿を。

 カウボーイハットの下から伸びる焦げ茶の髪。黄土色のベストに白いシャツから出ているのは獣毛に覆われた手。黒光りする黒いズボンの尻から生えるふさふさの焦げ茶の尾に深緑色のブーツ。


 見た瞬間、全身の毛が逆立った。戦慄が背中を駆け上り、怒りが頭を熱くした。

 眼の前が赤く染まる。鼓動が体を震えさせる。

 そいつが、奴が、捜し続けていた妖魔が、そこにいた。


「ヴォルカース!!」


 アインは叫び、引き金を引いていた。

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