実践■オフィス
月曜日の朝は、先週と同じように寝不足でありながら冴えた眼で会社に向かった。
用意は周到に行われた。出社前に会社近くの喫茶店で薄井さんと最後の調整を行い、それが終わると会社の入り口の前で固い握手を交わした。
しかしその日行った調整は最終とはならなかった。薄井さんのプロジェクト参加を提案する部長の体が中々空かず、実行に移せなかった為だ。俺は窓の外を見るフリをして薄井さんに中止の旨を伝えた。
そのような日がその後数日続いた。部長は、ある日は機嫌が悪く、またある日は他社との打ち合わせの為に社外に出ていた。一週間は折り返しを越えて木曜になり、俺はやきもきしていた。プロジェクトチームの人員決めの締め切りは迫っていた。電話で社外に出ている部長を説得するにも、皆の前で薄井さんの参加を認めてもらわなければ効果は薄いように思われた。部下たちをいきなり薄井さんの待つスイーツショップに連れて行っても納得しないだろう。俺が部長を説得し、薄井さんが頭を下げる過程がどうしても必要だった。
日々深刻になってゆく焦りの中での唯一の救いは、薄井さんが毎朝の「最終」調整に淡々と付き合ってくれたことだった。俺は「職人気質」という仮想の薄井さんへの評価を本当にするべきだと思った。もしかしたら、薄井さんも本番に向けて台本に合ったキャラクターを作ろうとしているかも知れないと思った。どちらにせよ薄井さんのお陰で俺は慎重さを保つことができた。
そして木曜日の午後、俺たちは遂に実行の時を迎えた。昼飯を終えた部長は自分のデスクでゆったりと書類に目を通している。俺は薄井さんに合図をしようと席を立った。しかしその起立は薄井さんと同時だった。俺たちはアイコンタクをし、部長の元へと向かった。
「部長、今お時間宜しいでしょうか?」
部長は書類から目を上げた。いつになく真剣な俺の表情と、普段顔を合わせることがない薄井さんの登場に部長は驚いた様子だった。俺が、「次のプロジェクトの人員の件でお話が」というと、部長の視点は俺を起点にチラチラと薄井さんに向かった。「お前、まさかこいつを使うつもりか?」という意味だろう。
「部長、薄井さんは次のプロジェクトに使いますので許可を宜しくお願いいたします」
視線をまた同じように左右に揺らしたが、俺は動じなかった。部長は少し思案し、
「薄井、ちょっと空けてくれるか?」
と言った。俺を説得するつもりだろう。しかしここで引いてはいけない。
「彼は戦力にならないだろうとおっしゃるつもりでしょうか?」
「・・・そうだ」
溜息と共に部長は諦めて腹を打ち明けた。俺は釣り糸に手ごたえを感じていた。
「薄井には仕事を任せられない。これまで数多くのミスを重ね期待を裏切り続けて来た。本当なら首を切っているところだが、温情で会社に居させている。お前も分かっていることだと思うが、薄井を動かすことは会社にとってリスク以外の何物でもないんだよ」
「例えまたミスをしたとしても、その時は私が責任を取ります」
「その責任は俺にあるんだよ。調子に乗るな。なあ、メリットとデメリットを冷静に天秤にかけてみろ。薄井を使うことでメリットがデメリットを上回るのか?」
俺は間を置かずに「はい」と答えた。
「ならそのメリットを言ってみろ。薄井はどんな形で社に利益をもたらしてくれる?具体的に答えてみろ」
「まず、今回のプロジェクトは、多くの会社が日々目まぐるしく変わる需要に対する幅広いサービスの提供によって成すリスクヘッジにより社を存続させる流れを汲んだ、これまで我が社が手掛けなかった新しい分野への挑戦です」
「俺は具体的にと言った筈だ」
新しく考えていた台詞を発すると釣竿もオフィスに充満する空気も一層重くなったが、その重量は想像の範疇だった。
「前提にあるべき認識を共有すべきだと思ったのです。お許しください。それを踏まえた上で薄井さんの登用は我が社に利益をもたらします。何故なら組織が生き残る為に必要なのは薄井さんのような組織内のマイノリティだからです」
思惑通り、部長は「はあ?」とすっとんきょうな声を出した。不意を突くことに成功したようだ。あとはこちらのペースだ。
「マイノリティです。不思議にお思いでしょう。何故皆と足並みを揃えられない足手まといが組織に必要なのか。それは万が一の際に『リスクヘッジ』できるからです。先ほど私は幅広いサービスを提供しなければ会社はこれからの社会では生き残れないと言いました。それは一つの分野に固執していてはそれがダメになった時に会社が潰れてしまうからです。そしてこれは生物にも言えます。同じ種だけが繁栄しても一つの病原菌で絶滅してしまうのです。組織にも生物にも多様性は必要なのです。そして今回のプロジェクトはその多様性を我が社にもたらす為のものでもあります。そしてそれを成す人材も、薄井さんのような我が社における普通ではない人物が相応しいのです」
そこまで言い切ると、部長は狐に摘ままれたような顔になった。
「部長、私も少しでも社の役に立ちたいと考えております。是非もう一度チャンスをいただけないでしょうか?」
薄井さんの声はダメ押しにはならなかった。部長は既に甲板に打ち上げられていた。
「分かった。好きにしろ」
俺の理論に納得しているわけではないようだった。はっきり言って自分でも訳の分からないことを言っているという自覚はあった。そしてこの訳の分からなさこそが俺の作戦だった。「信頼していた部下が訳の分からない理屈で自分を納得させようとしている」ことによるショックでうろたえた隙に承認させてしまおうというのが計画だった。
礼を言ってデスクに戻った。途中薄井さんと固い握手を交わした。その時薄井さんは台本を無視した俺の言動のせいで喜びながらも困ったような表情になっていた。
薄井さんは俺だけの力で事を成してしまったことで俺からの信頼のなさにがっかりしているかも知れない。
しかしそれに申し訳なさを感じることはしなかった。俺の目的はあくまでも吉沢さんに気に入られることにあり、薄井さんから好意を向けられるかどうかは全く問題ではない。それに俺も部長と同じで薄井さんを動かすことはリスク以外の何物でもないと思っている。と考えを切り替えることよって俺は薄井さんの毎朝の頑張りが無駄になってしまったことの罪悪感を消そうとした。そして少し残ってしまった罪悪感を、詫びは入れることで俺は完全に消した。
俺は一息つきながら吉沢さんの方を横目で見た。すると吉沢さんも俺の方を見ていたようで目が合った。直ぐに視線が逸らされたのが気にかかって、用事があるフリをして近付いた。
「お騒がさせて申し訳ないね」
「いや・・・」
隠してはいるが動揺していることがよく分かった。恐らく先程の言動で俺の社会的能力の部分が出過ぎて引いているのだろう。しかしそれも予定の範囲だった。俺は再びデスクに戻ると、内心で繰り返し唱えた。
「ヒ、人当たりが良い。ガ、ガツガツしない。ム、無邪気。カ、可愛らしい見た目。セ、清潔感がある。ヒ、人当たりが良い、ガ、ガツガツしない・・・」
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