第六七八講習
その日の二回目の講義が始まったものの、休憩時との違いは部屋以外にはなかった。職員は黒子に回り、「トイレなどもご遠慮なさらず行ってください。ただ他の講習の邪魔にならないようにお静かにお願いします」や、「アドバイスをお求めの方はおっしゃってください」等と言った。とはいえしばらくは職員に出番はないようだった。講習は参加者たちによって自主的に行われていた。
俺と違って本番の為の合わせを話し合いながら行い熱を帯び喧嘩に発展していた組のいくつかは、「可愛いおじさん」の方向性の違いによって解散していた。そして一人になった参加者たちは自ら声を上げ、別の組を結成した。その後続く組もあれば、また喧嘩別れをする組もあった。
解散する組は徐々に減っていった。その結成は納得の、というよりは、残り時間を考慮した上での妥協の結成ようだった。
俺のペンは動いたり止まったりしながら遅々たるスピードで、しかし確実に完成に向かっていった。時折生き詰まって周囲を見渡すと、解散したばかりの参加者たちが新しい相方と組んで合わせ始めた時の、まだ煮え切らない表情からにこやかなマスコットへと変わってゆく様が伺え、笑いが込み上げた。そしてその光景は俺に、笑顔は作りものであったとしても良いものだなと再認識させた。「ヒ、人当たりが良い」。
隣で薄井さんがちらちらとこちらを見ていた。台本を覚える時間がなくなるのではと焦っていることは分っていたが、それを考慮することはしなかった。寧ろその様子に嗜虐心が働き、書き終わった台本を読み直す時間を引き伸ばすことでそれを楽しんだ。「Aが私でBが薄井さんです」と言いながら紙を渡す時、薄井さんはほとんどひったくるようにそれを受け取った。
読み進めるにつれて、薄井さんの表情が変わってゆくのが分かった。俺はその様子を密かに嗤った。
台本は以下のようなものだった。
■オフィス
A「部長、今度のプロジェクトに薄井さんも参加していただこうと思うのですがいかがでしょうか?」
B「そんな、私になど気を使わないでください。私は今の環境で満足ですから」
A「そうはいきません。もう私は、同じ会社で働く仲間が職場の隅に追いやられている現状に我慢が出来ません。部長、どうか薄井さんの参加を許してください」
B「本当にいいんです。私は要領が悪く口も重い。参加したらきっと皆さんの脚を引っ張ってしまいます」
A「容量が悪いということは根気があるということ。口が重いということは実直である証拠です。要は職人気質なのです。今回のプロジェクトは長期のものですから、きっと薄井さんのようなコツコツとやれる人材が役に立つ筈です」
B「しかし今頃呼び出されても私は社の内情も知りませんし」
A「客観的に会社のことを観察できているということじゃないですか」
B「そうかも知れませんが」
A「何ですか?」
B「・・・」
A「部長、ご英断を」
B「・・・私も、会社の役に立ちたい。部長、精一杯やりますので私をプロジェクトに加えていただけませんでしょうか?是非お願いします」
■スイーツショップ
A「それじゃ今から企画会議をしようと思う。おいおい、そんな顔をするな。確かにここはスイーツショップ。仕事の話をするには場違いかも知れない。しかし環境を変えれば新しいアイデアも出るというものだ。そしてそれを教えてくれたのが薄井さんなんだ。ねえ薄井さん」
B「私なんて」
A「いやいや何をおっしゃいます。偶然私が立ち寄ったこのお店で薄井さんを見かけて話しかけてみたらお互いスイーツ好きだってことで打ち解けて、お喋りする内に薄井さんの会社に対する斬新な意見と独創的な発想を聞かせてくれたじゃないですか。それで私は思ったんです。皆、思ったんだよ私は、『固定観念』に囚われていてはダメだってね。だから今回のプロジェクトに薄井さんを参加させようと思ったし、会議の場所もスイーツショップにしようとしたんだ。それじゃあ、スイーツで頭に糖を送り込みながら会議をしようじゃないか・・・」
※ここから先は状況に合わせて以下のパターンをする。
・スイーツの可愛さに乙女のようにはしゃぐ。
・スイーツをSNSに投稿しようとする。(この時、使い始めたばかりで慣れていないことをそれとなくアピールする)
・お互いのスイーツをシェアし合う。(渡したくないと駄々をこねるのもアリ)
・片方が(無自覚を装って)口元に生クリームを付け、もう片方がそれを取る。
「最後のところ、他に何かアイデアあいますか?」
薄井さんは、こちらの提案に応えなかった。それよりも内容に怒り心頭しているのだろう。しかしそれに対しての反対意見も言えないようだった。そりゃあそうだろう。多少の皮肉は含んでいるものの、大筋は実用的に作った。薄井さんが仕事に参加できる段取りを的確に作った。文句は言えないだろう。それに皮肉に対するクレームに対しても俺は用意をしていた。
「大丈夫です。読み合わせさせてください」
水面下では緊張感が漂っていたが、俺たちの準備は順調に進んだ。
「それでは講習は終了です。なるべく休憩を取ってください。根を詰め過ぎて体調を崩しては元の子もありませんから」
職員がそう言ったものの、多くの参加者は俺たちと違い本番のシミュレーションを続けていた。
その日三回目の講習が始まった。どこの組も試行錯誤をした割に似たり寄ったりだった。俺は自分たちが最も実用的であることを確信して内心鼻高々だった。
実際、自分たちの出番を終えると、「実用的で良かったと思います」と職員から褒めの言葉をもらった。他の参加者は、具体的過ぎる内容に訝しんだ様子だったが、深く追及されることはなかった。
薄井さんは練習の段階では納得していない様子だったが、途中から開き折ったのか本番では台本に素直な演技をした。
その日四回目の講習は、職員からの改善点を元に台本を練り直す時間となっており、五回目の講習はまた本番となっていた。
俺たちはそれらを悠々とした調子でこなした。より演技は自然で台詞は流暢になっていった。
「本日の講習は以上で終了です。今回やっていただいた『おじさん同士の子供のようなやり取り』を職場の方と協力して試してみてください。それではありがとうございました」
講習が終わると、参加者たちは互いに礼を言いながら席を立った。また喧嘩をした人同氏は詫びを言い合っていた。
それらの光景は容易に予想できたので特に意に介すことはなかったが、参加者たちの多くが言った、「こうゆう内容なら、最初から『知り合い誘って来て下さい』って言って欲しかったですよね」という発言が気にかかった。
確かに不思議に思った。何故自分だけに職員は知り合いを誘うように促したのか。しかし疑問は長くは続かなかった。参加者たちが、「まあ変な人誘われても困るからじゃないですかねえ」等の発言に内心同意したことで納得し、そもそも明日に控えた本番のシミュレーションに焦点を当てるべきだと考えたことで疑問は完全に消し流された。
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