日記のようなものよのう

千町

カピバラは云った

 カピバラは云った。この世界は欺瞞である。私は本当は肉が食べたいのだ。そう言って水草を口に頬張りながら、カピバラは勢いよくハンマーを振り下ろした。


 ぐしゃり、ぐしゃり。ぐしゃりや、ぐしゃり。


 そばにいたモミの木が高らかに歌い上げる。薔薇の花たちは遠巻きにその光景を見つめながら、控えめにコーラスを重ねていた。

 そのどれもが、カピバラの耳には届いていない。否、音は届いていたが、右耳の鼓膜の震えをカピバラの脳は無視していた。カピバラに左耳は存在しない。


 カピバラの振り降ろすハンマーの先には、ぐったりと横たわった野鼠がいた。(ぐしゃ)。野鼠は痛みを感じないので、自身が死んでゆく感覚を冷静に受け止めることができていた。「(ぐしゃ)」。野鼠にとってそれは幸せなことだった。【ぐしゃ】。それにしても腹が減った、牛丼が食いたいと野鼠は思ったが、今は無視した。ぐしゃ。痛みなどという下らないものに支配されない、本当の死の感覚。それは野鼠にとって、なに(ぐしゃ)


「死んだか」


 カピバラは野鼠の死骸を見つめながらそう呟いた。それはヤツメウナギに向けたものだったが、ヤツメウナギは今日は貴族の食卓に並んでいた。


 カピバラは考える。この野鼠だったものは死の間際に何を思ったのだろうか。理不尽に死?を齎した自分のことをどう思っていたのだろうか、と。恨んでいたかもしれないし、或いは逆に感謝していたかもしれないとカピバラは思った。そこでカピバラに天啓が降りてきた。性欲だ。野鼠は性欲に囚われていたのだ。可哀想に。何て哀れな人生だろうか。彼は性欲のまま妻と娘を思い、無念の内に死んでいったに違いない。うむ、よくよく考えてみれば、なんと優しく、立派な父親なのだろうか。(野鼠、彼女は自身の夫と娘のことを世界で一番憎んでいた。)


 薔薇たちは死体を見るのは初めてだったが、この野鼠だったものがもう二度と動くことはないのだろうと理解していた。自然淘汰である。


 さて、ここに野生のカブトムシが一匹通りがかる。その場にいた者たちは、初めて見る野生のいきものにすっかり興奮してしまっていた。

 モミの木が一番に話しかける。やあカブトムシさん、貴方はもしかして野生のいきものではありませんか。どうぞ、お茶でも一杯飲んでいってください。きっと旅の疲れも癒えるし、Ⅱ型糖尿病にもなりますよ。


「おお、それはありがたい。ちょうど人間を一匹狩って来たところでね、ぜひお邪魔させてもらおうかな」


 モミの木は狼狽えた。まさか本当にカブトムシが自分の言葉に耳を傾けてくれるとは思っていなかったのだ。モミの木は世界の全てを信じていない。という訳で、本当はお茶なんてなかったのだ。今からお茶を取りに行こうとしたら、インドの奥地まで行くしかない。しかしモミの木はモミの木であるが故に移動することができなかった。

 と、ここでモミの木は思い出す。そうだ、モミはお茶を出すとしか言っていないモミ。この場におけるお茶とは、新鮮な野鼠の体内から絞り出す100%野鼠ジュースのことなのだ、モミ。モミの木は早速森の妖精たちに命令した。


「よきにはからえ。」


「はっ、ありがたきお言葉、感謝して排泄致します」


 妖精たちは野鼠たちを一生懸命喰らい始めた。それが彼ら彼女らの人生初の食事であった。


 その時カピバラは蟻さんと話していた。蟻さんのファミリーネームは蟻だった。ミドルネームはアントニオだった。蟻さんは敬虔なキリスト教信者だったのだ。蟻さんはふいに死にたくなったが、その度に蟻さんは消え、新しい蟻さんが前の蟻さんの場所に居座った。この間なんと0.000000005秒にも満たない。カピバラは何も気づかずに入れ替わった蟻さんと話し続けていた。主に死と生について。自分は何者かということについて。


 一方、カブトムシは薔薇たちの質問に答えていた。この質問はあまりにも根源的すぎた。カブトムシは答えた。無限に存在する7日間の間、一度でも笑ったら教えてあげよう。

 今考えてみると、なるほど、鉄の都は富良野であった。全ては北海道につながっていたのだ。つまるところ、北海道は隠された宇宙人の秘密の活動拠点か、国の軍事機密をどうにかするところだという真実に辿り着いたものは少なくない。

 月はひとしきり嗤っていたが、それに気づく者はいなかった。月は太陽のいない夜の間だけ、その太陽の威光を借りてのみ姿を現すことができる。月は嗤っていた。ただただ嗤い続けていた。


 マレーグマが水を飲みにやってきた。かれは自らに刻まれたミミズの呪いをコンプレックスに思っていたが、それにしても喉が乾いて焼け爛れそうであったのである。かれの咽頭の細胞はほぼほぼ死滅していた。しかし、普段は地下で暮らすかれは久々の太陽の光に人格がくらんでしまったのである。

 かれはモミの木と妖精たちが丹精込めてつくっていた100%野鼠ジュースを横からひったくると、それをごくごく飲み始めた。あまりにも残虐、極悪非道の行為にモミの木と妖精たちは必死に抵抗しようとしたが、モミの木はその場から動けず、妖精たちは抵抗しようとしただけであった。彼ら彼女らはか弱い存在なのだ。許してあげて欲しい。(モミの木はそれを許さなかった)


 野鼠ジュースを飲み干したマレーグマは次なる水分を求めた。(かれには野鼠ジュースの味がわかるほどの余裕はなかったが、ここで追記しておくと、その味わいはパッケージにリアルな野鼠の断面が描かれているのを想像して貰えれば分かりやすい。)


 マレーグマは辺りを見回し、近くにしゃがみこんでいたカピバラの首をその鋭い爪で切り落とした。ああ、カピバラ。かれは無残にも死んでしまった。肉を食べたいという夢が叶うことはついぞなかった。あまりにもあっけなく、かれの夢は潰えてしまった。蟻さんの0.000000005秒間の交換は続いていたが、マレーグマは消えていった蟻さんの存在に気づくことすらなかった。


 さて、その暴行を見て、野生のカブトムシは呟いた。


「哀れな、なんと哀れな存在か。分かるかね、薔薇よ。これがこの世界の真実だ」


 薔薇は分からなかったが、なんとなくそういうものかもしれない、と思った。つまり分からなかった。自分はここに存在している。世界なんて、それでいいのではないか。


「薔薇よ、それは思考停止と言うものだ。大切なのは、ただ一つ。考え続けることだ」


 カピバラの血液を啜っていたマレーグマは不意に後ろを振り返り、近づいてきたカブトムシに向き直る。かれは戦闘の気配を敏感に感じ取っていた。しかし、かれはカブトムシを食べようとは思わなかった。不味そうだからだ。特に汁などは苦くて飲めたものではないだろう。つまり、今から始まる戦いは純粋なる命のやり取り。


 二匹の間を一陣の風が通り抜けてゆく。


 カブトムシは焦ることなく一歩一歩マレーグマとの距離を縮めていく。

 一方、マレーグマは焦っていた。なぜなら、カブトムシが野生のいきものである事は自明だったからだ。


 次の瞬間、マレーグマの頭は宙を舞った。マレーグマの心が揺らいだ、その刹那の出来事だった。


 カブトムシはりっぱな角に付着したマレーグマの血液を拭いながら、ぽつりと呟いた。


「焦り。それは万病のもとである」


 言葉は空中で分解され、方向性を見失ったまま霧散する。薔薇は、カブトムシの言葉を今はまだ見ぬ月に向かって呟かれたものだと解釈した。カブトムシはその言葉を最後に飛び立っていった。


 モミの木はそれから暫くカブトムシが如何に焦らなかったか、それがどのようにして勝利に影響したのかを熱弁していたが、薔薇はカブトムシが勝利したのは彼が焦らなかったからではなく、彼が野生のいきものであることに起因すると考えていた。


 モミの木の熱弁が終わったちょうどその頃、向こう岸から川を渡って一匹のカピバラがやってきた。そのカピバラには左耳があった。


 カピバラは云った。ああ、この世界は真実である! なんと幸運なことだろうか。こんなところに死んだマレーグマがいるとは。そこの君、このマレーグマは生前大いなる罪を犯し、そして殺された。そうだね?

 カピバラは薔薇に向かって問いかけたが、その声にモミの木がすぐさま反応した。その反応速度といったら、まったく地を這うムカデのようであった。


「その通り! この者は神を嘲笑うかの如き鬼畜の所業を繰り返し、その悪辣さといったらウォンバットもびっくりの悪魔の御技!この世のものとは思えぬ、まさにミミズの化身!」


「なるほど、そしてこれを殺害したのは?」


「偉大なる野生のカブトムシ殿!!」


「なるほど。まさに、まさに……!」


 カピバラは興奮していた。この肉ならば自分でも食べることができる。遂に、遂に……長年の夢が叶うのだ。


 カピバラは頭のないマレーグマの死体に歩みより、その露出した首の肉に喰らいついた。





 穏やかな昼下がり。梢のさざめきと渓流の石を打つ軽やかな音に紛れて、肉を喰む咀嚼音が木々の隙間を通り抜けてゆく。

 そこには、いつもと変わらない森の日常が広がっていた。


 妖精たちが消え、野鼠が消えても、この森の景色は変わらない。


 何処からかやってきた一匹のビーバーが、モミの木の灰色の幹をその硬い前歯で削っている。


 薔薇の花が一輪枯れ落ちた。蟻さんがまた一匹交換された。



 カピバラは肉を喰んでいる。

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