2、

「すずこ」

 パパがあたしの腕を小突いて、ささやいた。

 ふ、と意識が引きもどされる。「焼香、すずこの番だよ。行っておいで」と、パパに言われるがまま、慌てて席を立つ。

 意味もわからないお経を聴きながら、斎場の花道を歩いていく。「ママ、ママ」と咽び泣く声がお経をかき消す。あの子はいつまでも、お棺の中にいるママに縋りついている。今日もやっぱり、レースやお花やリボンのたくさんついた、黒いワンピース。

 あんなに小さい子がいるのにどうすんの、ママ。おばあちゃんの葬式のときはよちよち歩きだったあの子は、今はもう小学校に上がった頃か。名前は一度聞いたけど、忘れた。よくあるイマドキな可愛い名前だった。どこか遠い存在の「妹」を横目で見ながら、あたしは歩く。少し大きいヒールは、一歩踏み出すたびにかぽかぽと踵が抜ける。あの頃みたいに自分を守ってくれる制服は、もうなくなってしまった。「子ども」という大義名分をなくして、なのに「大人」になれたような気もしなかった。

 ママが病気だと聞いたのは半年前くらいだった。治らない病気だってことも、若いから進行が早いってことも聞いた。

「ママが会いたがってるから、お見舞いにいってあげなさい」

 最後になるかもしれないんだから、とパパは言った。

 わかった、と頷いてはいたけれど、気乗りはしなかった。もう何年も会っていない気まずさは、ママへの恋しさにとっくに勝っていた。

 恨みがあったわけじゃないけど、あたしとママが致命的な部分で合わない親子だってことも、なんとなくわかっていた。お見舞いに何をもっていけばいいのかも、病室で何の話をしたらいいのかもわからない。

 実家暮らしの大学生、というお気楽な身分でありながら、あたしは忙しさを言い訳にママから逃げ続けた。実際、忙しくないわけでもなかった。パパから強く促されるがまま、入学式の写真と短い手紙だけは送ったけれど、それ以上のことにはどうにも踏み出せなかった。

 今は時間がないから、病院には今度いこう――そうやって先延ばしにしているうちに、ママの命はあっけなく消えた。

 あまり実感はない。昨日もなかなか寝れなくて、屋根の上でママの死を噛み砕こうとしたけれど、何年も会ってすらいないママの姿は、あたしの頭にぼんやりとしか浮かんでこなかった。

 ぼそぼそとしていたキャロットケーキ。手作りのコースターや手提げ。ピーターラビットのカレンダーに書かれていた、丸っこい文字。ママが選んだピンク色のランドセル。

 眠れない夜に食べたキャラメル。

 あたしが思い出せるママは、あたしがまだうんと小さいときのママばかりだ。

 あたしはピンクよりも青が好きだった。ママが買ってくれる絵本より、パパの本棚にある本のほうが好きだった。リボンのついた厚底の靴よりも、ぴかぴかの運動靴のほうが欲しかった。

 あたしたちは一体どこから噛み合わなくなったんだろう。

 ママが買ってくれた服はどれも趣味に合わなくて、一度も袖を通さないまま、まとめて古着屋さんに売ってしまった。

 お棺の中のママの顔を眺めた。ママの死に化粧は、生前の化粧の仕方とまるで違っていた。しわ、こんなに多かったっけ。頬も首もきっと、こんなに痩せていなかった。違う人みたいだったけれど、ほっそりとして白い手が間違いなくママだった。

 風邪をひいた時、薬が嫌だと子どもみたいに拒んでいたママは、最後まで闘病をがんばったのだろうか。

 見よう見まねで焼香を終え、宗派もわからないお坊さんのお説教を聞いた。戒名は長すぎで覚えられなかった。長いこと寝不足だったせいで、うつらうつらしているうちに、いつの間にか出棺の時間になった。

 手紙も何も書いてきていなくて、棺に入れられるものは、ポケットの中のキャラメルの箱しかなかった。

 ママからもらったものじゃなく、なんとなく買いたくなって、スーパーで自分で買ったものだ。眠れなかった昨日の夜に、一粒だけ食べた。こういうことをしちゃうあたり、自分はまだママに縛られているんだろうな、と思う。

 ママの身体の傍に、キャラメルの箱を放り投げた。ママの思い出ともこれでおさらばしたかった。

 死んだからって思い出が美化されるわけじゃない。ママに対するもやもやとした気持ちは、あたしのなかに巣食ってまだ消えてくれない。それが消えてほしいと思った。

 肩の傍に転がった黄色い箱は、ママの白い着物と身体の中で、妙に浮いて見えた。

 そのまま棺の前から立ち去ろうとしたとき。

「すずこちゃん」

 小さな子どもをつれた男の人が、不意にあたしを呼び止めた。傍の子どもは見たことのあるワンピースを着ている。ママの新しいだんなさんだろうか。喪主として挨拶をしていたことを、なんとなく思い出す。

「そっか。あなたがすずこちゃんなんですね。とても利発で可愛らしいお嬢さんだと、妻から聞いていた通りだ」

 ママのだんなさんはそう言って微笑する。親子ほどの歳の差があるあたしにも、決して丁寧な態度を崩さない。この人がママの好きになった人か。確かにパパよりハンサムだし、ママの趣味もわかってあげられそうだ。

 お世辞にいやらしさは感じないが、褒められなれていないせいで、妙に居心地が悪かった。

「妻はいつもあなたの話ばかりしていました。会うのをすごく楽しみにしていて。一度、お手紙と写真をくれたでしょう。妻は本当に喜んでいたんです。あの写真は今でも妻の部屋に飾ってあるんですよ。ありがとう」

「いえ……」

 だんなさんは屈託のない言い方だったが、どうして見舞いに来なかったのかと責められている気がした。

 ママの話は少し意外だった。驚きよりも、何を今さら、という気持ちが強かった。


 なんとなくひとりになりたくて、会食には出ず電車で帰ることにした。パパは少し咎めるような目をして、だけど何も言わずにあたしを送り出してくれた。

 日が傾きかけていた。冬の近づいた淡い空なのに、プラットフォームを黒く縁どる夕焼けは、やけに鮮やかに見えた。まん丸の太陽が赤く溶けている。きれいだったけれど、ずっと見ていると目が痛い。

 電車が来るまでには少しだけ時間があった。強い西日は少し暖かかったけれど、夕方の風は容赦なく体温を奪っていく。剥き出しの手の寒さに耐えかねて、コートのポケットに手を入れた。

 反対方向の電車がホームを通り過ぎ、風が髪の毛を巻き上げていった。ぼさぼさになった髪の毛を直して、もう一度ポケットに手を入れた時、ふと指先に何かが触れた。四角くて小さい粒のようだ。もしかして、と思って拾い上げてみると、箱からこぼれて燃やされ損ねた、一つのキャラメルだった。

 はぐれもの、ひとりぼっちのキャラメル。

 片手だけで銀紙を剥いて、口に放り投げた。どこかの路線で人身事故が起こった、と電気看板。電車が参ります。アナウンスが告げる。キャラメルは口の中でやわらかく溶けていく。人は死んだらお星さまになるんだよ、というママの言葉。溶けたキャラメルが唾液の中に混ざっていく。目がじんと熱かった。唾液を呑み下す。息が詰まった。焼けるような甘さが喉にまとわりつく。淡い紺色の空の中、星が弱々しく瞬いた。

 キャラメルは甘くて、苦くて、少しだけしょっぱい。

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キャラメルと眠れない夜 澄田ゆきこ @lakesnow

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