キャラメルと眠れない夜

澄田ゆきこ

1、

 屋根の上の夜空は、冴え冴えと晴れ渡っていた。

 真っ黒な電線と、控えめに砂糖をこぼしたような星の粒。人は死んだらお星さまになるんだよ、というのは昔のママの言葉。それなのに星の光はどうしてあんなに冷たいのだろう。

 晩秋の寒風が、静まり返った街を通り、脚や首の間を抜けていく。

 マフラーを持ってきた方がよかったかも。寝間着に上着を一枚羽織ったままだと、いい加減寒い季節になった。よく見てみると、吐く息がうっすらと白んでいる。

 魔法瓶からマグカップに、とぷとぷと紅茶を注ぐ。指先をマグカップで温めながら、そっと口をつけた。まだ熱い。

 マグカップの丸い水面、輪郭をとろりと歪ませながら、半端な月が映る。

 今日も眠れない夜だった。

 寝付こうとすればするほど目が冴えていくとき、あたしはこうして、家の屋根の上にのぼる。手にはかばんを一つ。ピクニックに使うようなナップザックの中に、紅茶の入った魔法瓶や、マグカップ、文庫本、非常用のランタンと携帯ラジオ、とにかく雑多なものを詰め込んで、夜空相手にただぼんやりと時間を過ごす。

 寝静まった街には人も車もない。二階建ての一軒家ばかりがずらりと並ぶ、何の面白みもない住宅街だ。時折遠くでバイクの音がする。地方の新興住宅地として建てられたここ一帯、周りとさして変わらぬタイミングで、パパとママはここに家を買った。紺色の屋根瓦は、きっちり固定しているわけではないのか、踏むと微かにぐらぐらと動いた。

 マグカップに口をつける。紅茶は少しだけぬるくなっていて、一口飲むと、じわりとお腹に染みわたっていく。古いラジオに電源を入れ、適当に周波数を合わせた。がさついた音ばかりが響き、なんだか宇宙と交信しているみたいだな、と思った。

 ポケットには、黄色い箱のキャラメル。四角い銀紙を剥いて、一つだけ口に放り込んだ。あの時は魔法みたいに美味しかったのに、久しぶりに食べたキャラメルは、思っていたよりもずっと安っぽく、味気なく、それでいて胸が焼けるほどしつこかった。

 指先が少しずつ温度を失っていく。自分の膝を抱えるようにしながら、雑音混じりの音楽に耳を傾けた。歯の奥に挟まったキャラメルを、少しずつ唾液で溶かしていく。

 その気になればいつでも誰かと繋がれるこの時代、この屋根の上でだけは、あたしは本当にひとりになれる気がした。


 いまいち「女の子」になりきれないあたしと違って、ママはいつまでも「女の子」みたいな人だった。可愛い食器や雑貨を集めるのが好きで、あたしに可愛いお洋服を買い与えるのが好きで、お菓子やお料理を作るのが好きだった。ママの作るお菓子は、ケーキもクッキーも、甘さ控えめのぼそぼそしたものばかりだった。

 あの時ママがくれたキャラメルがあんなに美味しかったのは、だからかもしれない。

 小学校にあがってすぐのころだ。あたしはまだ本当に小さな子どもだった。与えられたばかりだった自分の部屋は、ママの買った甘い色のカーテンやぬいぐるみで彩られていた。

 ふかふかした掛布団に身をうずめたり、トイレに行ったり、麦茶を飲んで戻ってきてみたり。それでも全然寝られない。いちごの柄のパジャマも、うさぎのぬいぐるみも、ママが選んだ可愛いもの全部が、全然あたしの味方にはなってくれなかった。

 あの日も今日と同じように、無性に目が冴えてしまった夜だった。

 「早く寝ないとおばけが来る」なんて脅し文句も、「眠れない」というその状態そのものも、無性に不安で怖かった。きちんと寝なくちゃ、と布団の中で目を閉じてじっとしているのだけれど、衣擦れの音すら耳について、眠気が襲ってくる気配がまるでなかった。

 寝付けないと言ってママのベッドにもぐりに行くと、ママは「特別ね」と言いながら、黄色い箱からひとつ、キャラメルを出してくれた。

 普段は「虫歯になるから」と言ってあまり食べさせてもらえないキャラメルは、甘くてとろけるようで、ほっぺたが落ちるってこのことか、と思った。それからしばらくは、ことあるごとにキャラメルをねだっては、ママから苦い顔をされた。「あれは眠れない時だけの特別なの」と。

 その言葉通り、本当に眠れない夜だけは、ママはいつも一粒だけキャラメルをくれた。その一瞬だけだ。ママと本当に分かり合える気がしたのは。

 いつまでも「女の子」で子どもみたいだったママは、あたしが中学生になる前に、「好きな人ができた」と言って出て行った。ママの好きな家具やお皿で満たされたこの家には、メルヘンな趣味なんてまるでわからないあたしとパパだけが残った。

 実のところ、ママには味方がひとりもいなかったんだと思う。おばあちゃんともあまり上手くいっていなかった。パパは敵ではなかっただろうが、ママを守るにはあまりにも頼りなく、あたしはあまりにも幼かった。ママの少女趣味はきっと、あたしにとっての屋根の上のように、心の逃げ道だったんだと思う。

 ママが出て行ったばかりの頃、そんなことばかりを考えていた。屋根の上にのぼるようになったのもその頃からだ。ママにとっては「好きな人」のほうがあたしよりずっとずっと大切な存在で、だからあたしのことなんてどうでもよかったんだろうな。そう思うほどに、あたしの心はからからに乾いていった。馬鹿みたいだな。そうやって簡単に捨てるくらいなら、産まなきゃよかったのに。

 ぐるぐる。ぐるぐる。ベッドの中にいても思考は巡るばかりで、ちっとも寝られなかった。身体が冷え切るまで外にいて、暖を取るためにベッドに戻ってやっと、明け方近くに眠りにつくことができた。

 眠れない時のおまじない。その言葉を思い出し、お小遣いを貯めてキャラメルを買ったことがある。箱からひとつひとつ取り出してピラミッド型に積み上げ、てっぺんの一つを手に取った。銀紙を剥いて口に入れると、しばらくもせず、ほんのりとした苦みばかりが口の中を覆いつくした。小さなときほど美味しいとは思えなかった。あの時のキャラメルはきっとママのかけた魔法がかかってたんだなって、子どもじみたことを考えているうちに、鼻がつんと熱くなった。口の中が少しだけしょっぱくなった気がした。


 ママもさすがに申し訳なさは感じていたらしい。ママが出て行ってから、年に何度か、彼女の要望で「会いたい」と言われることがあった。パパは「自分勝手だ」と怒りつつも、あたしの心情を鑑みたらしく、会うことを特に止めたりはしなかった。

 ママと会うのはショッピングモールが多かった。ママは何かの罪滅ぼしみたいに、あたしに大量の服や靴を買いたがった。ママにとってのあたしはいつまでたっても、体の良い着せ替え人形なのだった。

「すーちゃん、これ好きだったよね」と、ご機嫌をとるみたいにキャラメルも買ってくれた。買い物をした後はいつも、たくさんの紙袋とキャラメルを抱えて、ママの車で送ってもらった。

 キャラメルは昔ほど好きじゃなくなっていた。何度食べても、あの夢のような美味しさではなくて、味気なさと苦みしか感じなかった。ママに買ってもらったキャラメルは、あたしの学習机の中で、一箱二箱と溜まっていった。小さい頃は欲しくて仕方なかったのに、手を付けないまま賞味期限が来て、捨てることもあった。

 中学校も半ばになると、あたしは何かと理由をつけてママの誘いを断った。親と一緒に買い物なんて、ひどく幼稚で恥ずかしい気がした。ママは少し悲しそうだったけれど、再婚相手との間に子どもができたとかで、そのうちママからの連絡も減った。

 最後にママと会ったのは、おばあちゃんのお葬式だった。あたしは高校生になっていた。普段は嫌で仕方なかった制服の地味さが、なんだか妙にありがたいと思えた日。

 ママは小さい子どもを連れていた。喪服の丈もデザインも、お化粧の仕方も、場違いに華やかすぎるのが、本当にママらしい。チークをはっきりと濃くつけるのがママの手癖だ。子どものほうも子どもの方で、ふりふりしたワンピースと、ふわふわと巻いたツインテール姿。親戚から遠巻きに陰口を言われるママを見ながら、私は顔がかっと熱くなった。こんな時にまで子どもじみた少女趣味を発揮するママが、本当に嫌いだ、と思った。あたしはママのこういうところが合わなかったんだ。

 やめてよ。こんなところで恥かかないでよ。しっかりしてよ、大人なんだから。

「すーちゃん」

 ママがあたしを目に留めてそう呼んだけれど、あたしは知らないふりをして斎場のトイレに駆け込んだ。

 後から聞いた話。この時のママもやっぱり、あたしのためのお洋服とお菓子を、たくさん持ってきてたんだって。

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