自失の旅

きりん後

自失の旅

 営業が終わって会社に戻っていた。特に焦ることもないだろうと、先方の最寄り駅に真っ直ぐ向かわずに、バスに乗って、会社まで一本で行ける電車の停車駅まで行くことにした。


 その内見つかるだろうと適当に歩くと目的の停留所がもの寂しい様子で立っていた。時刻表を見ると、後10分ほどかかる・・・。


 わざわざ気候のことを考えなくても済むような、穏やかな気候だった。車は通らず、時折鳥が囀るのが電線から聞こえて来るくらいだった。そしてその声はわざわざ仰ぎ見るほどの切迫感を含んでいなかった。


 道路を挟んだ向こう側にはアパートがあり、歩道からアパートの土地に続く石畳みの短い階段は、フェンスの間を抜けてアパートの各棟の間の広い道になっていた。そこにおもちゃの車に乗った幼い子供と母親が散歩をしている。丁度妻子と同じくらいの年齢だ。小学生は今頃学校だろう。


 他に見るような物はなかった。凪だった。


 

 気が付くと俺は乗り込んでいた。しかし乗り込んでいたのはバスではなく、将来への漠然とした不安だった。俺は心を「俺の人生はこのままでいいのか?」という疑問に支配されていた。俺は成す術なく漠然とした不安に運ばれていた。


 乗客は俺一人だった。そりゃそうだ、これは俺の個人的な問題なのだから。


運転手はいたので俺はそこまで歩いて顔を覗き込もうとも思ったが、振動が心地よく、その気は消えた。そしてその惰性もまた心地よくさせる要因となり、俺はひたすら流されるまま、ぼんやりとして過ごした。



 最初の停留所は「ギャンブル」だった。俺の体はパチンコ店に運ばれていた。目の前で小粒の鉄球が沸き続け、光は踊り続けた。それに耳を劈く轟音が加わって、俺の脳みそはその処理に追われて思考を放棄した。俺は何度も最寄りのATMに足を運ぶ自分を他人事のように見ていた。


 ATMにも金がなくなって来た頃、再び漠然とした不安が動き出した。金銭的な危機感はなかった。妻子への申し訳なさもなかった。それよりも居ても経ってもいられないという焦燥がずっと強かった。足早にパチンコ店は離れてゆく。これから俺はどこに向かうのだろう。



 次は「風俗」だった。ピンクの照明に照らされ、薄い布で仕切られた普通のアパートの一室に運ばれた。俺は台湾人に相手をされた。妻のことは考えなかった。手で始末された後、早々に俺の体は移動した。



 しばらくフラフラと運ばれた後、俺の体は男女兼用のトイレの中にあった。停留所は「金髪とピアス」だった。そこで俺は染料を髪に付け、髪に馴染むまでの間、ピンで耳たぶに穴を開けた。針の先で小さく丸い血が膨らんでゆき、音もなく破裂して指を滴り、タイルの上に短い糸を引きながら落ちた。大便器に座ってしばらく氷で少し冷やした後、まだ癒え切らない耳に、俺は銀のピアスを通した。ずっとじんじんとした痛みが走っていたが、まるで自分の痛みではないみたいだった。髪はすっかり染まっていた。俺は変わった自分をしばらく眺めていた。それに飽きると漠然とした不安でまた移動した。ゴミとネクタイはそこに置いたままだった。



 「浮気」が次の停留所だった。俺は駅前でチューハイの缶を開けていた女に声をかけた後、その女の部屋に移動していた。


 しばらくその部屋で暮らした。女と同じで汚い部屋だった。カーテンを透かした光が僅かに床の空き缶を照らす、暗い部屋だった。余り女と会話があるわけではなく、時々惰性のように体を交わすくらいだった。明け方に寝て昼時に起きた。女は時々部屋から出ていったが、その用事を聞くことはしなかった。ある、一人になった時、漠然とした不安が向かえに来て俺は別れの言葉もなく預けられていた鍵を浅いポストに入れて女の元を去った。



 またフラフラと運ばれていた。流れゆく景色は忘れ去られ続けていた。その景色の中に女もいた。ふと家族のことがよぎったが、漠然とした不安に抵抗することはしなかった。  


 「改造」という停留所に到着した。俺は体にタトゥーを彫り、スプリットタンにする手術をした。「改造」はいいところだと思った。自分が変わってゆくのが目に見えて分かった。


 しかしそれも長くは続かなかった。もう改造するところもないという程体にメスを入れた後、再び漠然とした不安が迎えに来た。



 俺の横を流れる景色は、今までにない程早く変わっていった。どうやら飛行機に乗って海を越えたらしかった。


 俺はすることもなかったので、ふと漠然とした不安の運転手の顔を見た。


 そこには髑髏があった。運転手は死神だったのだ。


 思わず漠然とした不安を飛び降りると、そこは「塩湖」だった。


 そこは水平線どこまでも、鏡だった。塩湖は青空と雲をそのまま地面に移していた。俺は天地に見分けが付かなくなる気持ちがした。重力がその判断材料だったが、平衡感覚すら景色のせいで失われてゆく気持がした。


 下を見ると、白眼も墨によって黒く染まり、皮膚の内側のシリコンによって体からいくつもの突起が出ている自分がいた。


 見知らぬ世界で、見知らぬ俺が佇んでいた。俺は、心ごと迷子になってしまったようだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

自失の旅 きりん後 @zoumaekiringo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ