第8話

みんなのいる空き教室から少し離れた、図書準備室。

狭く薄暗いその部屋に足を踏み入れ、月形が俺を振り返った。


「泉くん、そこ閉めてくれる?」


俺は今くぐったドアを後ろ手に閉める。

外の喧噪が遠ざかり、2人だけの静かな空間が生まれた。

ベージュのカーテンを背にした月形は、気だるげに口を開く。


「部員欲しさに処女を売りに出す……キミの言う通り馬鹿げていると思うよ。たかが部活に、どうしてそこまでって」


微かな笑い声をたてる月形の表情は、逆光になっていてよく見えない。


「けど僕は、文芸部に青春をかけている。優秀な部員が集まれば、部は間違いなく活性化する。そういう環境で僕は毎日わくわくしたいんだ。高校時代の創作活動がどうあったかで、その後の人生だって大きく変わると思う」


語る月形の声がさっきより熱を帯びていた。

彼はゆっくりと俺の前まで来ると、右手に触れてくる。


「ペンだこ、それからこっちはノートPCでできるたこだよね」


俺の中指をなぞった月形の指が、手のひらの付け根辺りまで下りていった。

その辺りは常にノートPCに触れるので、皮膚が硬くなっている。


「キミはノートPCで創作する人だよね。この手の感じだと、ほぼ毎日書いてるんじゃないかな。キミの創作に向ける熱量を僕にも分けてほしい。そのためなら、僕はなんだってする」


月形が上目遣いに俺を見つめる。

強い瞳に射すくめられ、俺は動くことも、言葉を発することもできなかった。

視線が絡み合い、吐息が乱れる。

月形が握ったままだった俺の右手を、自分の腰の後ろへゆっくりと導いた。


「……!」


やや硬い制服の下に、彼のしなやかな臀部を感じる。

その膨らみに手のひらを沿わせると、目の前にある彼の表情がほんの少し硬くなった。


「いいよ」

「本当にいいのかよ?」

「だから、いいって言ってる」

「そんなこといって、お前怖いんだろ?」

「それは、怖いし恥ずかしいよ」


眼鏡の奥の瞳がわずかにうるむ。


「けどそんな感情も、芸術の前では味わいのある素材だ」


俺の胸にしなだれかかってくる、月形の体は震えていた。

こいつの思いと情熱を、俺はどうやって受け止めればいいのか。

戸惑う俺の耳に遠くから、ジョギングをする運動部のかけ声が聞こえてきた。

爽やかな春の午後に、俺はここで何をやっているんだろう?

いた、このわけの分からない男の感情の渦に呑み込まれてやるのも、ひとつの部活動なのかもしれない。

俺は息をつき、彼のベルトに手をかけた――。



「きっさまー!! 転校早々、みんなの月形くんに何してくれてるんだ!!」


クラス委員の金子くんが、俺のネクタイを引っ張り首を締め上げてくる。


「放せ、落ち着け!」


俺はネクタイの先を取り返し、彼から距離を取った。

場所は2年2組の教室、入部試験の翌朝である。


「今の話は全部、単なるきみの妄想だろ。俺は何もしてない」

「いや! お前は文芸部の入部試験に合格して、月形と図書準備室に入った。そこまで調べがついている」

「まあ、それは事実だけど……」


どうして金子くんが知っているのか。

おおかたチョークか、もう1人あそこにいたやつがしゃべったんだろう。

転校生の俺からしたら、この学校の人間関係が分からないから面倒くさい。

ってかなんで周りのやつらがあの変人に執着してるのか、そっちの方もよく分からない。


「だったら何があった!? 正直に言え!」


声を震わす金子くんに、俺は1冊の冊子を突きつけた。


「これ」

「なんだ?」

「ここの付属中学の、文芸部の会報誌だと」


表紙に記された年度は今から4年前。月形が中1の時のものだ。


「これに月形の処女作が載ってる。芥川と太宰の晩年を足して2で割ってソーダ水で薄めたみたいなつまんねー作品だ」

「じゃあ、”部長の処女”っていうのは……」

「処女作のことらしい。こんなネタで何話も引っ張りやがって。腹立ったから、やつを殴っておいた」


俺は会報誌を丸めて、殴るフリをしてみせた。

昨日は実際、こいつで月形の頭をぽかんと殴ってやったわけだが。


「殴ったって……お前な!」


金子くんが、普段は細い目を見開く。


「いいだろ別に、冊子で殴るくらい」

「いいのかよ!? この学校の生徒ン百人から同じことされるぞ!」


そこへ別の声が聞こえてくる。


「誰が芥川と太宰の晩年を足して2で割って、ソーダ水で薄めたって?」


教室の戸口に立って腕組みしているのは、噂されている月形本人だった。

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