後編
「やってるねぇ、あんちゃん」
二十センチを超えるヤマメを寄せ切った時に、彼はいつの間にか現れていた。どうやら二週間前の一件は夏が見せた白昼夢ではなかったようだ。
水面から頭を出してゆっくり僕に近づいて来る。今日は登場の仕方に配慮をしてくれたのかもしれない。
「久しぶり」
僕が言うと、へっへっへ、とニヤニヤ笑いを浮かべた。続いて、リリース手伝うよ、とかっぱは言う。
自信ありげなその口調に違わず、リリーサーを手早く操って、水中でヤマメを解放する。
「今のヤマメは食べないのか?」
前回のヤマメは、フライを外してからあっという間に彼に丸呑みされていた。
腹減ってないからな、とかっぱは答えた。
「そのヒトが前に言ってたヒト?」
川から声がする。見ると、かっぱの奥に別なおかっぱ頭が二つ顔を出していた。
「そうそう」
ゆらゆらと二つの頭が岸に近づいてきた。
かっぱたちの背格好は似通っているようだ。体格は細身で、背丈は僕の胸程度しかない。
最初に出会ったかっぱは少年のような見た目をしていたが、二人目のかっぱは少女のような印象を受けた。そう思ったのは髪が肩までかかっているからだろう。
もう一人は腰まで伸びた長い髪が目を引いた。顔は最初のかっぱに似て少年のような顔つきだったが、先程からぼんやりとしたままだった。
「フライフィッシングって言って、泳いでサカナを獲るよりも楽しそうだぞ」
かっぱがウキウキして話しかけているが、あまりその甲斐はなさそうだった。
「ふーん」
少女顔のかっぱは、僕の持っている釣り具をあまり興味なさそうに見ていた。長髪のかっぱも、口を半開きにしてぼーっと見ている。
「やってみせてよ、あんちゃん!」
「お、おう」
最初に出会ったかっぱが、彼らの中で浮いているということがなんとなくわかった。
いつも通り川の流れを見据えてフライのキャスティングに入る。
「そんなことをするよりさ――」
少女顔が言うが早いか、川の淵に飛び込んでいった。数秒後、片手に収まりきらないサイズのイワナを掴んで勢いよく浮上した。そして、
「――こうした方が早いじゃん!」
そう言って、イワナをそのまま頭から飲み込んだ。そしてそのまま潜ったと思えば、上がってくることはなかった。気が付けば、長髪のかっぱもいつの間にか消えていた。結局彼は一言も発さなかった。
残されたのは、ロッドを振って瀬に立つ僕と、ばつが悪そうにしているかっぱだけだった。
「帰った、のかな?」
フライを回収しながら、いたたまれない気分になってかっぱを見やった。自分の好きなことを理解されない彼の立場に同情する。
「まぁ、しょうがないわな」
意外にもその声はあっけらかんとしたものだった。こうなることを予想していたのだろうか。
「ヒトに興味を持つヤツも、オレ以外におらんでな」
「そうなんだ」
「それぞれで好きに過ごしていればええからなぁ」
オレはそれでは退屈なんやけどな、とかっぱ。
「何して過ごしてるんだろう」
「さっきみたいに泳いだり、食べたり、寝たり、アー……っとしたり、泳いだり、寝たり、歩いたり、寝たり、アー……っとしたり、寝たり」
アーと言う時に、口をあけてボーッとしてみせるかっぱ。その姿に先ほどの長髪のかっぱが重なった。
のんびりとそんなことを話す彼を見ると、僕たちとは違った時間の流れを生きているのかもしれない。
「君たちはどう生まれたんだ?」
「オレは……そうなぁ、気がついたらここにいたっけなぁ」
「親とかはいないのか?」
「オヤっていうのはどういうヤツだい?」
親という存在がないのか、かっぱは。そのことに僕は面喰いつつ、身振り手振りを交えて説明する。
「例えばまだ幼い時にご飯を与えてくれたりとか、何か危険なことから守ってくれたりとか、この世界のこととかを教えてくれたりとか……」
「ふーん」
かっぱは、それを聞くとピンときたようだった。
「それならオレはこの場所がオヤかなぁ。ここにいればなんでもあるんよ。それでも、長くいるとどうやっておればいいのかわからんくなって。アイツらみたいにやりたいことをやり続けたり、アーっと、口を開けてのんびりしたりしてれば時間は過ぎていくけど、それだけじゃ飽きてきてな」
言いながら、かっぱは僕から川に視線を移して、遠い目をしていた。
「サカナなんて泳げばサッと獲れちまうけど、釣りの方が面白そうだ」
へっへっへ、とかっぱはこちらに向き直って笑った。
「うん……面白いよ。やってみる?」
僕のその言葉を待っていたように、かっぱの目が輝く。
「ええのか!?」
その後、予備のタックルを貸してやって一緒に釣りをした。かっぱは、ここに来る釣り人を長く見ていただけあって、要領を掴むのが早かった。正直僕よりも筋がいいのではないかと思ってしまう。
「あんちゃん、今日はありがとな」
屈みこんで釣り具を簡単に片付けていると、かっぱも一緒に屈みこんできた。
「釣れて良かったね」
僕がそう言うと、へっへっへ、と彼は笑う。
「あんちゃんが上手に教えてくれたからね」
どういたしましてとかっぱに返した。
「また、遊んでほしいなぁ」
「……いいよ」
その時にはかっぱの粘液について何か対策をする必要があるだろう。ロッドのコルクの滑りを取るのに一苦労だ。
「大変そうやな」
「帰ったら落ち着いてするよ」
「ほーん」
かっぱが片づけをずっと見ているのに気がついた。一度興味を示すと、止められないみたいだ。
「……今度はこっちに遊びに来るか?」
「ええのか!?」
さっき、タックルを貸した時以上にその目は輝いているように思う。
「いつだ!? 今からか!?」
「い、今からでもいいけど」
明日から盆休みをとっていた気安さもあり、勢いに気圧されるままに返事をしてしまった。
「それじゃ早う行こうで!」
「いや、でも君と歩いていたら騒ぎになるでしょ」
「大丈夫だい」
そう言って彼は自信満々に胸を張ってみせた。
帰り道、驚くべきことに、僕までかっぱの存在を途中まで忘れていた。道を歩く時も車中も、なんとなく何かがそこにいる感覚のままフワフワとアパートまで戻ってきた。かっぱは自分の存在感を自由に消せるらしい。
そこにいると思えば見失わないが、僕とすれ違った人は僕しか目に入らなかったはずだ。
気楽に荷物を背負って駐車場から出た時に、思いもよらない人物と再会した。不意を突かれたのは相手も同じようだった。コンビニの袋を提げた秋美は買い物帰りのようだ。涼しげなワンピースが、夕暮れの風にはためいた。
別れてから会うことも、話すことすらもなかったため、僕は何を言えばいいかわからなかった。風の噂では、僕と別れて間もなく、元カレとよりを戻して結婚をしたらしい。
「また釣りに行ってたんだね。どうだった?」
釣り具を持つ姿で察した秋美が話しかけてくる。
「まぁ、良いサイズのヤマメが釣れたよ」
「好きだね、浩二は」
変わらないね、と言った秋美の言葉に冷たいものを感じた。髪をかき上げる左の薬指に、指輪が光っているのが見えた。噂は本当だったようだ。
「……秋美も元気そうで良かった」
気の利いた言葉の一つも浮かんでこなかった。声を震わせないようにするのが精一杯だった。
「結婚おめでとう」
「ありがとう。私、吉川になったんだ」
嬉しそうに秋美は僕に報告した。かつて好きだった笑顔がそこにあった。
「そっか……。身体に気をつけてね、吉川さん」
僕の言葉に、秋美は頷いた。
「うん。西宮君もね」
それじゃあね、と歩いていく彼女の身体は、少し丸みを帯びているように見えた。陽が沈む方へと進む姿が眩しくて、目を細めた。
僕は授業で生徒に見せたミドリムシのことを思い出した。プレパラートの中、走光性を持つミドリムシが光に反応し、その方向へ向かっていく姿。
秋美も同じだ。僕と一緒にいる暗く閉ざされた状況から、新しい幸せの方向へ動いただけだ。それを責める気にはなれなかった。
僕だって同じだ。秋美との時間よりも、サカナとの時間を追い求めていた。そして、去っていった彼女の隙間を埋める忙しさの中でも、光が差し込めばそちらに向かっている。
恋人について、諦めていたわけではなかった。気を遣ってくれる友人から紹介してもらったり、同僚に誘われるがまま街コンに繰り出してみたりもしたが、結果は芳しくなかった。日々の多忙さを言い訳に、僕は恋人を探すのをやめた。
秋美との交際の果てに見出した僕の反省点は、未だに克服できていない。現在の僕は、釣りという刺激に向かう孤独なミドリムシだった。
「あれは?」
かっぱの存在をすっかり忘れていた。
「……元カノ」
「モトカノ?」
僕が好きだったヒトだよ、と言うと、スキ、とかっぱが口の中で呟くのが聞こえた。嫌な予感がする。
「スキってのはなんだ?」
「えーと、ずっと一緒にいたいとか、その人がいてくれて嬉しいって思う気持ち……かな」
はい、もうこの話は終わりねと会話を切り上げ、僕はかっぱをマンションへと促した。
部屋に着くまでにエレベーターのボタンを僕の真似をして押そうとするかっぱを留めたり、他の部屋のドアを触ろうとするのを防いだり、何度かの攻防をしたが、真に大変なのは部屋に入ってからだった。
足を洗わないままにペタペタとかっぱが歩き回ったため、廊下がドロっと汚れてしまった。慌ててかっぱを風呂場にやり、雑巾で手早く拭った。それから、アウトドアで使うキャンプシートやブルーシートを彼が歩く区間として出来る限り敷き詰めた。
風呂から戻す前に、せっかくなのでかっぱの汚れを流してやることにする。
「わっ! なんだこれ」
かっぱは、しげしげとシャワーヘッドから吹き出る湯を見ていたが、恐る恐る手を差し出してすぐ手を引っ込めた。
「え、ごめん。そんなに熱かったか?」
僕にとっての適温では、かっぱにはよくなかったらしい。湯温を徐々に下げてみたが、結局は水で洗ってやることになった。
「あんな熱いのによく平気だな」
頭から水をかけられながらも目を閉じることなく僕を見るかっぱ。
「この温度じゃ僕は風邪をひいてしまうよ」
僕は笑いながら汚れを落としていく。かっぱはくすぐったいようで体をよじらせたり笑ったりして中々洗わせてくれない。
「そうかぁ。確かに、長ぁく川に浸かっていたヒトは調子悪そうにしていたなぁ」
何やらかっぱはかっぱで納得したようだった。
シャワーで汚れは落ちたが、かっぱの体から出る粘液はなくならなかった。シートの上を歩くように言って聞かせて風呂場から解放する。かっぱは一直線にリビングへ向かっていった。
かっぱは、落ち着きなく部屋を動き回り、壁際に立てているロッドに近づいていた。
「他にも竿があるんだなぁ」
「あー、海釣り用とかもあるね」
「海! いっぺん行ってみてぇなぁ」
「海行ったことないんだ?」
驚いて聞き返すと、かっぱは頰を掻きながら、あそこでずっと棲んでいたからと答えた。
「意外だな。身軽に動き回っているんだと思った」
僕の言葉に、かっぱは口を尖らせて反論した。
「アー……って大体過ごしているって言ったじゃないかよぅ。オレはあの山を出たのも今日が初めてだい」
かっぱにとって外に出る――というのも変な表現だが――のが大きな出来事だと知ると、彼の持つ好奇心を逐一咎めるのも可哀想な気がしてきた。とはいえ、
「まずは釣り具のメンテナンスからやろうか」
「あ、そうだった」
ハッとしたようにかっぱはその場に腰をおろした。僕もその隣に腰を落ち着け、釣り具とメンテナンス用品とちゃぶ台に乗せた。
「えーと、じゃあ君にやってもらいたいのは――」
「……どした?」
かっぱは固まってしまった僕をその丸い目で不思議そうに見ている。
「今更だけど、君、名前ないの?」
キミ呼ばわりではなんとも味気なさを感じてしまう。
「ねぇなぁ」
実にそっけない返事だった。
「ないんだ」
「ねぇ」
仲間もいたようだし、不便じゃないのかと思うが、かっぱ曰く、普段から深く関わりを持つことがないから問題ないらしい。
「それだったら、川太郎って呼んでもいい?」
「川太郎?」
不思議そうにしているかっぱを見て、流石に気安すぎたかと思った。
「へっへっへ。川太郎、ええねぇ」
ご機嫌になったかっぱ改め川太郎に、まずはフライラインを水拭きしよう、と声をかけて、ようやくメンテナンスを始められた。
時刻は十時を回った頃には、川太郎は僕の隣に丸く転がっていた。意外なほどの集中力でメンテナンスに取り組んだ川太郎は、終わった途端その場に寝転んだのだった。
僕はリビングの電気を落とし、川太郎の肩を優しく叩く。ペタペタという音がする。
このまま硬い床で寝かせるのはかわいそうだと思い、寝室やベッドにシートを敷き直し、ベッドの上に川太郎を移動させた。彼を持ち上げると、思っていたよりも軽くて拍子抜けする。
ペットがいたらこういう感じなのだろうかと、ベッドの上で眠り続ける川太郎の姿をボーッと眺めた。カーテンから漏れる月光が、かっぱの粘液をつややかに見せる。薄く、体全体を覆っている粘液にもう一度触れてみる。その粘液は川の匂いがした。
風呂場でも驚いたが、粘液越しに触れるかっぱの皮膚は意外にも柔らかかった。そして手触りはまるで磁器のような滑らかさだった。
もう一度、今度は肩に手をやって撫でてみる。ヌルヌルと粘液をかき分けて僕の手が進む。肩から腕へ。上腕二頭筋の辺りの起伏をなぞって、肘のくぼみに指が落ち込む。
そこから、僕は指を開いて彼の腕を軽く掴む 。そこから絞るように下へ動かす。スーッと彼の手にたどり着く。彼の手を握る。川のように冷たい手だった。深く寝ているのか、起きる様子はなかった。僕は楽しくなってくる。再び胸板に手をやる。胸から腹へ、凹凸を感じながら撫でる。
「あんちゃんの手、ぬくいね」
川太郎の声に、心臓が跳ね上がった。動かし続けていた手を、彼の薄い腹の上から離した。右手についた粘液が糸を引き、きらりと光る。
「何か、心地がいいや」
それはよかった。
「……今度は、川太郎が作った仕掛けで釣ってみるか」
「また釣りに行くの!?」
ちょっとした呟きだったが、川太郎は勢いよく体を起こした。驚いて僕は固まってしまう。
「オレも連れてってくれよなぁ」
「……うん、一緒に行こう」
僕がそう言うと、再び彼は体を横たえた。そしてへっへっへと笑う。
「あんちゃんといると、楽しいなぁ」
「僕も楽しいよ」
「このままここに棲みてぇなぁ」
「それもいいかもな」
思いつくままに、僕は答えた。月明かりの中で、目をつぶったまま川太郎はまたへっへっへと笑った。髪の毛をわしゃわしゃと撫でてやる。
「なぁなぁ、いつまでいていいんだ?」
「……別に、いたいだけずっといればいいよ」
僕の言葉に、川太郎はベッドの上で嬉しそうにゴロゴロと転がった。
この先、僕は転勤を重ねながら仕事をして着実に歳をとっていく。僕は相変わらず、忙しい合間にも出かけて、釣りをしているに違いない。川にも海にも、何度だって行くだろう。もしその時、誰かが僕の隣にいるとしたら、川太郎だろう。
正直なところ、僕にいつか再び恋人ができるなんてことは、想像できない。更にこんな奇妙な同居人がいる生活なんて、とても誰かに言えることではない。
しかし、それは楽しいことのように思えた。
「そういや、川太郎はどれくらい生きるの?」
「そうなぁ。多分、あんちゃんより長生きだと思うよ」
何の感慨もなく川太郎は言う。
「そう、なんだ」
僕は、あの場所でずっと過ごしてきた彼を想像してしまう。昼間の様子を見ると、独りでボーっとしていたのだろう。寂しい光景だった。
「川太郎は、寂しくなかったの?」
「サビシイって、どういうことだい?」
また、聞き返されてしまった。どう伝えたらわかってくれるだろう。
「……何か楽しいことをしてる時とか、別にそうでもない時とか、誰かと一緒にいたいって、思ったりはしなかった?」
川太郎は瞑目して、これまでを思い返しているようだった。
「ねぇなぁ。オレはただ、サカナ食べて、寝て、アー……ってして過ごしてきたんよ」
「そうか」
「でも、あんちゃんと出会ってから今日また来てくれるまで、長く感じたなぁ」
ずっとあんちゃんを待ってたからかなぁ、と川太郎。その言葉を聞いて、かつて同じ様に待ち続けていたであろう人の姿が浮かんだ。
「……そうかもね」
僕が、ようやく返すと、彼はへっへっへと笑った。
「あんちゃんと一緒にいれば、アー……っとすることは減っちまうかもなぁ」
そう言う川太郎の表情は、穏やかだった。
「オレ、あんちゃんのこと、スキなのかねぇ」
「そうなのかも、しれないね」
川太郎の言葉を胸の中で反芻する。目頭が熱くなったのは、どうしてだろう。
「……あのさ、多分僕は川太郎より早く死ぬと思うんだけど」
「うん?」
「僕が死んだらどうする?」
僕の言葉に、川太郎は目を細めた。
「そんときゃ、あんちゃんを頭から喰ってやるよ」
その言葉に、いつかのヤマメを丸呑みにした姿が目に浮かんだ。
それもいいなと、思った。死ぬまでそばにいてくれることの幸せを思う。
川太郎の答えに、どこか救われた僕がいた。
僕がかっぱを飼う理由 みずたまり @puddle-poodle
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