僕がかっぱを飼う理由

みずたまり

前編

 仕事が忙しいことにかまけて、会う頻度が減っているということを自分で気づけなかった時点で、僕は彼女と交際を続けていく資格はなかった。これが一つ目の反省点。


『もう浩二に付き合ってくの、疲れた。別れよ』


 十二月が始まって間もない頃に下された彼女のその決断に何も抵抗することができなかったのは、いつも彼女に言われていた、主体性がない、という指摘から僕が成長してこなかったことを端的に表している。これが反省点の二つ目。


 大学を卒業して就いた中学教師という生活が、考えていた以上に自分の時間を費やすことについて、秋美も先生だったら分かってくれたかもしれない。

 部活、生活指導、授業準備、成績評価、地域への対応。言葉の上で説明をしても、会いたい時に会えなかったら相手の心を満たせない。秋美と僕が付き合うきっかけだって、そういうことだった。


 一昨年に開かれた高校の同窓会で、彼氏に放ったらかしにされていたことを愚痴っていたのが秋美だった。同じ陸上部だったというよしみもあり、話を聞いていたことで僕への好感度が高まったのだろう。それから、付き合うことになった。


 別れたことは悲しいけれど、どこか冷めた自分がいる。それはグルグルと頭の中で渦を巻いている思考が、日常の忙しさという大きな流れの中に紛れていくからだ。心を亡くすとはよく言ったものだ。


 そんな中でも、自分の時間を取れる休日には、僕は趣味である釣りに出かけていた。

 秋美は、サカナは食べる専門で僕の趣味に同行することはなかった。僕の中で秋美と釣りの接点はなく、釣りをしている間は秋美の面影を見ることはない。


『また釣りに行くの!?』


 しかし、別れてからしばらくして、釣りに出かけようとする時に頭の中で秋美の声がよぎるようになった。


 秋美と付き合っていた時期にも、合間を縫っては釣りに出かけていたことについても、僕は反省するべきだろう。僕が会いに行くべきはサカナではなく、待ってくれていた彼女のはずだったのに。


 秋美に振られた翌年の八月に、車で渓流の釣り場に行くことにした。

照りつける日差しが、川べりの丸々とした岩に反射して眩しい。緑葉を生い茂らせた木の枝が川に向って伸び、早瀬が音を立てている。

 タックルを片手に、川の流れに足を踏み入れ、底の石の感触を確かめる。時折聞こえる鳥の声に、立てる音が重なった。水流の勢いを足で感じつつ、川の中腹に陣取る。探りを入れるために第一投。


 ヒュン、ヒュンと、音がするたびに手元からラインが伸びていく。目星をつけている辺りから少し離れた上流に落ちていく。着水の瞬間から、フライは川に落ちてしまった可哀想なムシとして流れていく。どうやって自然に見せ、サカナを刺激してやるかが、腕の見せ所だ。

 サカナは頭が良く、警戒心も強い。不自然さを隠すため、ラインを川につけないように手繰りよせつつ、フライの動きを見守る。


「……ック!」


 何投かして、遂にフライは獲物に捉えられる。


 僕が釣りで一番楽しいと感じる時間は、獲物が食らいつく一瞬だ。イメージの中の獲物と現実が一致する感覚。閃光のように過ぎ去るその一瞬を逃さないように僕も反応する。


 ピンと張り詰めたラインで、サカナと僕が繋がる。グッと水中へ引き込む力に、僕は争わない。最初から無理に引き込むとラインがテンションに負けて切れてしまう。そうなってしまわないように、逃げようとするサカナの動きに合わせてロッドを動かす。しかし、弛んでハリが抜けてしまっては意味がない。ラインのテンションを保って、サカナが疲れるのをじっくり待つ。そして相手の体力を感じつつ、ラインを右手で徐々に手繰り自分に寄せていく。


 腰に留めているライディングネットを取り、屈んでヤマメを迎える。三十センチを超えるだろうか。ポケットのスマホで手早く撮影をし、リリーサーで口からフライを外す。

 川の流れに戻っていくヤマメを見送りながら、僕は息を深く吐き出した。


「――残念だったね、あんちゃん!」


 僕が三匹目のサカナと格闘の末にラインを切られて逃げられた時、甲高い声が対岸の岩上から降ってきた。急に大きな声を出すなんて、と声がした方を見ると、おかっぱ頭の少年がこちらに向かって手を振っていた。服は着ていないように見える。遊んでいる人がいたのか? と考えている間に少年が川に飛び込んだ。



「何やってんの!?」


 少年が飛び込んだ先は早瀬の急流の先に広がる淵で、深さを感じる水の色が濃い場所だ。フライが着水したのとはわけが違い、少年の姿は白い泡に紛れてわからなくなる。次に僕が彼を見たのは、その両手に鷲掴みにした、四十センチはあろうかという大きなヤマメを見せびらかすようにしながら岸に向かって泳いでくる器用な姿だった。


「君ね――」


「ホイこれ」


  注意をしようと声をかけたが、悪気のかけらもない少年の言葉に阻まれる。


「あんちゃん、これないと困るっしょ?」


 ヤマメの口に何か引っかかっている。僕のフライだ。


「まさか、このために?」


 フライと少年の顔を見比べてしまう。


「それでも人が釣ってる時に大声を出したり、飛び込んだりしたらダメだよ」


 というと、少年は首を傾げた。


「そうなんや」


「君、地元の子だよね?」


 と、改めて少年の姿を確認すると、下半身も何も身につけていなかった。


 絶句している僕を尻目に、ヤマメの口からフライを外してやっていた。


「地元っちゃ地元やけど……これいらんの?」


「なんなんだ、君は」


 差し出された右手を見て思わずたじろいでしまう。指と指の間に水かきが大きく発達している。


「か、かっぱ……」


 へっへっへと、再び少年が笑った。


後ずさりしたが、その場にバシャリと尻餅をついてしまう。思い切りお尻に岩の角が当たり、酷く痛んだ。


 「ねーあんちゃん、これいらんのかい?」


 さっきから同じことしか言わないぞこのかっぱ。もしかして。


「それが、欲しいのか? あ、あげるよ。僕は、いらないから」


「ほんとにや!?」


意を決して伝えると、想像以上にかっぱは喜んでいた。


「へっへっへ。あんちゃん、いい人だねぇ」


 小躍りしそうなかっぱを見ながら、僕はゆっくりと立ち上がった。打ったお尻はまだ痛むが、身動きが取れないほどではない。左手にはロッド、右手はさりげなくお尻にやる。


「……殺さないよな?」


 僕の問いにかっぱは再び首を傾げた。


「何でオレがあんちゃんを殺すってことになってるんや」

心底不思議そうに言う少年の言葉に嘘は感じられなかった。


「あんちゃんはうまく釣るねぇ」


「まぁ、そこそこやっているからね」


 感心しているかっぱを隣に、僕は再び釣りをしている。

あれからかっぱは、僕が持っていた釣り具に興味を示し、僕に解説を求めてきた。

道具の使い方を教えたら、飲み込みがよく、ライディングからリリースまで一通り彼が行なっている。


「釣り道具、ずっと気になっててさぁ」


 見た目が少年――中学生くらいのかっぱは、へへへと笑った。そうしているとまるで人間の男子のように思えてくる。しかし、僕にはない水かきが彼にはあり、僕にはある男性器が彼にはついていない。他にも水から上がってしばらく経つのに体表がヌメっと光っているところとか、目につくだけでもいくつかの違いがあった。

クン、とラインが引っ張られそれに合わせてロッドを上げてフッキングをする。それに気がついてかっぱは立ち上がって僕と魚の格闘を見ながら言う。


「オレそろそろ行くよ。あんちゃん、また来てくれゃ、楽しかったで」


「んー……」


「他のヤツらにもあんちゃんを会わせたりたいで、頼むで」


 そう言ってかっぱは水に飛び込んだ。僕はすぐにその姿を見失ってしまう。

水面は何事もなかったかのような静かさを取り戻し、残ったものは水中からの強い引きだけだった。

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