37「悪意」
深夜。
アムルスの町の中心部。
建設途中の診療所の前に人影があった。
レダの元恋人のリンザと元パーティーメンバーだったニュクトだ。
「それではいきますねー、――焼き尽くせ、業火よ!」
ニュクトの間延びした短い詠唱とともに、彼女の掌から、轟っ、と音を立てて炎が吹き荒れた。
炎は、診療所の壁にリンザが事前にまいておいた油に引火する。
あっという間に炎が広がり、診療所全体を包んでしまった。
「あはははははははっ! ざまあみなさいっ、レダっ! 私を馬鹿にするから、こんな悲劇が起きるのよっ!」
高笑いするリンザは、この状況が楽しくてならないようだ。
仮にも、復縁を願う相手の大事なものに放火して、喜ぶという彼女の神経はきっと余人には理解できないだろう。
リンザと行動をともにしているニュクトでさえ、「こんなことして、レダとよりを戻そうって……不可能じゃないですかねー」とつぶやくほどだ。
もっとも、ニュクトにとってリンザとレダがどうなろうと興味はない。
せいぜい馬鹿な女に引っかかって不幸になればそれでいいくらいだ。
「これでー、レダの大事なものをひとつ奪えましたねー」
「あいつがあとでどんな顔をするのかと思うと、楽しくてたまらないわ! 絶望した顔を見せてほしいわね!」
深夜ということもあり、まだ誰も火事に気づいていない。
目撃者がいないことに気を大きくしたリンザは、平然と大きな声を出している。
「ていうか、レダの大事なものを奪おうっていうのなら、娘を攫うなり殺すなりしたらどうなの?」
「子供を殺すのは趣味じゃありませんー」
「はいはい、綺麗事ね。ったく、レダとよりを戻したって、邪魔なガキがいたらあいつから金を搾り取りづらくなるわ。できれば、さくっと殺してくれたほうが後腐れがなくていいじゃないの」
「酷いですねー」
「むしろ優しいわよ。あの馬鹿の目を覚まさせてやるのよ、血の繋がりがないガキを拾って家族ごっこしてなにになるっていうの? 子供がほしいなら、私が産めばいいじゃない。ほら、どちらにせよ、ガキどもは邪魔でしょ?」
「というかー、リンザさんはレダの子供を産む気があるんですねー?」
「そりゃあるわよ! 男を繋ぎ止めるのは子供じゃない。私もそろそろいい歳だし、ひとりぐらい産んでおかないとね。そうすれば、レダだって必死になって養おうとするでしょ?」
ニュクトは気づかれないように嘆息する。
リンザの未来予測図があまりにバカバカしいのだ。
レダには不幸になって欲しいが、リンザのお花畑な脳内通りに事が進むのも腹が立つ。
(まー、ぜったいにありえないでしょうけどー)
「だからどこの馬の骨ともわからないガキが邪魔なのよ。少しもかわいげがないから、生かしてやろうって気にならないわ。ひとりは小生意気だし、もうひとりはおどおどして暗そうだし。あんなのとよくレダは家族ごっこできるわね」
「もしかしたらー、そういう性癖かもしれませんねー」
「……ありえるわね。私と付き合っていたときも、いくら私がなにもさせる気がなかったとはいえ、あいつからなにかしてくるってこともなかったしね。じゃあ、なおのことガキどもは始末しないと」
ニュクトは自分が余計なことを言ったと思った。
だが、別にレダの娘がどうなろうと知ったことではない。
ただ、気分的な問題で、自分が直接子供を手にかけるのは嫌だという程度でしかないのだ。
「あと、あのクソ貴族はなにがなんでも殺さないと!」
「クソ貴族ですかー?」
「この町の領主の妹よ! 兄が偉いからって自分まで偉いって勘違いしているつまらない女なんだけど、その女はレダの前で私をコケにしやがったのよ!」
リンザは、自分の隠し事をヴァレリーに暴かれたことを根に持っていた。
少しでも理性があれば、貴族に危害を加えたらどのような結末が待っているのかわかるようなものだが、残念ながら今のリンザにその理性はない。
「ちょっと手間かもしれないけど、魔法で殺してくれない?」
「どうせー、モンスターに町を襲わせれば死ぬかもしれませんからー、わざわざ手を下す必要はないかもしれませんよー」
「それならいいわ。せいぜい、そのときに邪魔なガキとあの女が死んでくれることを願うわ」
リンザはそう吐き捨てると、火の手が周り焼き崩れかけている診療所を見てにたりと微笑む。
ここから自分の思い描いた未来が始まるのだと信じて疑っていなかった。
ニュクトは、そんなリンザを冷めた目で見つめていたが、火事に住民が気づいた声が聞こえると、
「そろそろ逃げましょー。こんなところで捕まったら、復讐もなにもできませんからー」
リンザにそう告げ、踵を返していく。
「はいはい。もっと燃えているのを見ていたかったけど、煤まみれになるのも嫌だからね。いいわ」
リンザはニュクトのあとを追い、ヒールを鳴らす。
ふたりがいなくなると、診療所の火事に気づいた人たちが集まり、大騒ぎとなるのだった。
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