二
「そういえば逢坂先生は……」
「ブタ箱にでもいるんじゃない?」
「一服中ですか」
そうそう、と返ってきた声に、背後から飛んできた声が被さる。
根津先生の視線を追うように僕は振り返った。
僕のデスクの脇に一人の生徒が立った。ちらちらと逢坂先生のデスクにも視線をやっている。
その生徒の顔には見覚えがあった。
たしか、逢坂先生が受け持っているクラスにいたような気がする。
「きみ、二年三組?」
「そう。翼ちゃん、俺の本どこにある?」
「本? ……って、教科書かなんか?」
「違う違う。逢坂のとこにあるやつ」
話が見えない。
僕は顔をしかめ、なんのことか始めから説明しろと告げた。すると、先週末に逢坂先生に取り上げられた本のことを、彼は話し始めた。
そういえばと思って、となりのデスクの一番下の引き出しを開ける。
まるで戦利品でも自慢するかのように、逢坂先生が話していたのを、僕は思い出した。
いま話題のグラビアアイドルの写真集。それを取って、彼に「これ?」と差し示す。
「それそれ」
「でも、逢坂先生の許可はあるの?」
「あるある。さっき駐輪場でタバコ吸ってんの見かけてさ、返してくれって言ったら、しまった場所、翼ちゃんに訊けって」
返却の許可を、当の本人がおろしたならと、僕は写真集を差し出した。
それにしても、逢坂先生ってば、また変わったところで一服している。本来の喫煙所は、悪臭漂うブタ箱みたいなところだから嫌だとは言っていたけど。先生方のだれかに見つかって、ネチネチ言われてないといい。
ふと、中畠先生の顔が浮かんだ。
逢坂先生の声を聞いても払拭されなかった「冒涜」の文字がまだ引っかかっている。
「サンキュ。翼ちゃん」
そんなさくっとした声が聞こえ、僕は我に返った。
慌てて見上げれば、悪びれた様子のない幼顔が目に入った。
ため息がこぼれる。
「きみね、こんなもの持ってきたって、逢坂先生のいいカモにされるだけだよ」
「へーい」と、およそ反省してるとは思えない弾んだ声を上げ、彼はいそいそと職員室をあとにしていった。
僕は正面に向き直り、なにげにいまのやりとりを振り返る。
ていうか、僕は逢坂先生のデスク番じゃないし!
逢坂先生も逢坂先生だ。となりのデスク事情まで、僕は把握している前提で、あの生徒に言っている。
根津先生と目が合った。
なにやらにこにこしている。
「すごいね、翼ちゃん。いつの間にそんな仲になっちゃったの。あいつ、自分のテリトリーに勝手に入られるの、なにより嫌がんのに」
「な、仲って……」
かっと顔が火照る。
赤くなる必要なんてないのに、そう思えば思うほど、また恥ずかしくなった。
弁明する声もデカくなる。
「ち、違うんですよっ。あの本のこと、前にたまたま話してて……」
「そんなむきにならなくていいって」
また笑われる。
ほんとにたまたまなのにー。
逢坂先生だって、そのテリトリーのぜんぶを僕に許したわけじゃない。たまたま僕がとなりにいて、あの引き出しにしまうのを見ていたから、ああいうふうにさっきの生徒に言ったんだと思う。
変な誤解をしているから、根津先生に説明しようと思ったけど、そもそも変な誤解ってなんなんだろうと、はたと首を傾げた。
仲がいいのも、同じ職場の先輩後輩として、よろこばしいことじゃないだろうか。
でもやっぱり、仲がよすぎるのは変な誤解を生むかもしれないから、ちゃんと説明しておくべきか。
いやいや。だから変な誤解って──。
と、悶々と考えているうちに、根津先生は席を立ってしまった。
あああっ。
僕は手を伸ばしたまま、デスクに突っ伏した。
根津先生が行ってしまったことにボーゼンとしていたけど、やがてはっとなった。
腕時計は、次の授業開始まであと一分を指し示している。
僕は短い悲鳴を上げ、机上を掻いた。授業の道具を集め、バタバタと職員室を出た。
その日の放課後、僕はいつものように、音楽室と音楽準備室の戸締まりを確認して、やれやれと息を吐きながら、職員室へ急いだ。
廊下もすっかり寒くなってきている。
闇をかき分けるようにして、開けたところへ早々に踏み入った。昇降口は明るいからほっとできる。
そのとき、下駄箱のほうから数人の話し声がした。
ひそひそ話ではない。だからよく聞こえる。
ワイシャツの袖をずらして腕時計に目をやりながら、僕は一応、生徒の顔を確認しようと、歩くスピードを緩めた。
「そうそう。翼ちゃん、あいつとできてんだってよ」
──は?
僕の足はぴたっと止まった。出入口のほうへ顔を向けると、人の姿が見えたから、すかさず下駄箱の陰に隠れた。
耳をそばだてる。
僕がだれとできてるって?
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