三
「やっぱ、まじか。あれだろ、あの数学教師」
「団地妻イチコロのイケメーン、な?」
「えー」
「まあまあ、そう残念がるな。ああいうカワイコちゃんはどうせ、みんな売約済みだ」
笑い声がこだまして、急にしんとなる。人の気配はすっかり消えていた。
僕はしばし目を閉じて、それからぱちぱちさせた。
団地妻イチコロ? ……逢坂先生って、そんな異名を持っているんだ。
じゃなくて!
僕は腕を組み、空目で天井を仰いだ。この際だから、カワイコちゃんの部分は聞かなかったことにしよう。
一旦落ち着いて、頭を整理する。
「……ううむ」
しかし、なにをどう整理しても、数学の先生である逢坂先生と、翼である僕が「できてる」らしいという結論になるのは、気のせいだろうか。
うちの学校で、ほかに団地妻をイチコロにできる数学教師なんていたかな……?
「おい」
僕が首を傾げたとき、この頭のてっぺんに低い声が突き刺さってきた。
あまりにいきなりだったから、僕は下駄箱の側面に引っ付いて、大仰な悲鳴を上げた。
逢坂先生もびっくりしている。肩を跳ね上げ、片目をつむった。でも、次の瞬間には、オシャレ眼鏡の向こうから鋭角にまなざしを注いだ。
僕は視線を落とし、一歩後ずさる。
「……すみません。大声なんか出しちゃって」
「なにしてんだよ。んなとこで」
「な、なにって。その……」
僕と逢坂先生ができてるってハナシ聞いてましたー。ふふっ。
なんて、口が裂けても言えるわけがない。
いや、きっとなにかの聞き間違いだ。
僕と逢坂先生は男同士なんだ。自分たちの先生で、それも男同士なのに、あんなに軽々しく「できてる」なんて口にするはずもない。
普通に考えたら気持ち悪いだろ。それをあんな楽しそうに……。
逆に、もの珍しいから愉しげだったのかな。
あああっ。
もうワケわからん!
「渡辺」
「は、はいっ?」
素っ頓狂な声が出てしまった。
逢坂先生も一瞬、言葉に詰まっていた。
「……お前、もう帰れるんだろ」
そういえば、先生がこんな時間まで残っているのは珍しい。
どうしたのかと訊こうとしたら、逢坂先生の視線が職員室のほうへと向いた。
二人で歩き始める。
でも、僕はちょっとスピードを落とし、距離を空けた。途中、きょろきょろもして、辺りを窺った。
「たまには、俺も部活に顔出さなきゃと思ってさ」
職員室へ入ると、逢坂先生は唐突にそう言った。自分のデスクの椅子にどかっと腰を下ろし、長い足を組んだ。
僕たち以外はだれもいない職員室。窓側は電気が消えて、暗がりになっている。
僕は、昇降口で聞いた会話が頭にこびりついていたから、曖昧に返すことしかできなかった。
不意に、ぐいと腕を引かれた。
逢坂先生が訝しむような目で、じっと僕を見ている。
「な、なんですか?」
「さっきから変だろ。お前」
「……べつに」
僕は視線をそらし、肘を引いた。
あっさりと、逢坂先生は放してくれた。背もたれにふんぞり返って頭を掻いている。
「あの、僕、きょうは早く帰らないとなんで、これにて失礼します」
とは言ったものの、完全には帰り支度は済んでいなくて、いまからカバンにいろいろ押し込んだ。
今度はその手を掴まれる。
僕はどきっとして、恐る恐る逢坂先生のほうに顔を向けた。
「それは俺のジッポー」
「え?」
手を開くと、たしかに、僕には必要のないシルバーのライターがあった。
頭を下げて、そっと返す。
どうやら僕は、となりのテリトリーにまで侵入していたようだ。
逢坂先生の、矢のような視線を後頭部に受けつつ、僕は帰り支度を再開させた。
「ところでさ、今週末どうするよ」
「はい?」
「俺がいつも決めてるから、今回はお前が行きたいとこ決めろ」
「あ、あの。すみませんっ」
「ん?」
「じつは用事ができまして……。週末はちょっと……」
逢坂先生の視線が細くなって、さらに尖る。
なんだろう。なにかを探っている感じのする目だ。
僕は思わず身をのけ反らせた。
べつに、一回ぐらい断ったって、世界が滅びるわけじゃないんだからいいじゃないか。
そう負けじと抗議の目線を送った。
僕たちのことが、本当にウワサになっているなら、一緒に出かけるのはしばらく控えたほうがいい。
根津先生も、僕たちの仲がどうのこうのと言っていたし、もっと遡れば、中畠先生も、そんなニュアンスのことを口にしていた。
「昼間、敦士に声かけてたんだろ、お前」
「ああー……はい」
「それなのにもう用事か」
ううっ。
なんて痛いところをついてくるんだ。
やはり数学の先生は頭の回転が違う。
僕が口ごもっていると、逢坂先生の表情がもっと険しくなった。
乱暴に椅子を立つ。
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