「やっぱ、まじか。あれだろ、あの数学教師」

「団地妻イチコロのイケメーン、な?」

「えー」

「まあまあ、そう残念がるな。ああいうカワイコちゃんはどうせ、みんな売約済みだ」


 笑い声がこだまして、急にしんとなる。人の気配はすっかり消えていた。

 僕はしばし目を閉じて、それからぱちぱちさせた。

 団地妻イチコロ? ……逢坂先生って、そんな異名を持っているんだ。

 じゃなくて!

 僕は腕を組み、空目で天井を仰いだ。この際だから、カワイコちゃんの部分は聞かなかったことにしよう。

 一旦落ち着いて、頭を整理する。


「……ううむ」


 しかし、なにをどう整理しても、数学の先生である逢坂先生と、翼である僕が「できてる」らしいという結論になるのは、気のせいだろうか。

 うちの学校で、ほかに団地妻をイチコロにできる数学教師なんていたかな……?


「おい」


 僕が首を傾げたとき、この頭のてっぺんに低い声が突き刺さってきた。

 あまりにいきなりだったから、僕は下駄箱の側面に引っ付いて、大仰な悲鳴を上げた。

 逢坂先生もびっくりしている。肩を跳ね上げ、片目をつむった。でも、次の瞬間には、オシャレ眼鏡の向こうから鋭角にまなざしを注いだ。

 僕は視線を落とし、一歩後ずさる。


「……すみません。大声なんか出しちゃって」

「なにしてんだよ。んなとこで」

「な、なにって。その……」


 僕と逢坂先生ができてるってハナシ聞いてましたー。ふふっ。

 なんて、口が裂けても言えるわけがない。

 いや、きっとなにかの聞き間違いだ。

 僕と逢坂先生は男同士なんだ。自分たちの先生で、それも男同士なのに、あんなに軽々しく「できてる」なんて口にするはずもない。

 普通に考えたら気持ち悪いだろ。それをあんな楽しそうに……。

 逆に、もの珍しいから愉しげだったのかな。

 あああっ。

 もうワケわからん!


「渡辺」

「は、はいっ?」


 素っ頓狂な声が出てしまった。

 逢坂先生も一瞬、言葉に詰まっていた。


「……お前、もう帰れるんだろ」


 そういえば、先生がこんな時間まで残っているのは珍しい。

 どうしたのかと訊こうとしたら、逢坂先生の視線が職員室のほうへと向いた。

 二人で歩き始める。

 でも、僕はちょっとスピードを落とし、距離を空けた。途中、きょろきょろもして、辺りを窺った。


「たまには、俺も部活に顔出さなきゃと思ってさ」


 職員室へ入ると、逢坂先生は唐突にそう言った。自分のデスクの椅子にどかっと腰を下ろし、長い足を組んだ。

 僕たち以外はだれもいない職員室。窓側は電気が消えて、暗がりになっている。

 僕は、昇降口で聞いた会話が頭にこびりついていたから、曖昧に返すことしかできなかった。

 不意に、ぐいと腕を引かれた。

 逢坂先生が訝しむような目で、じっと僕を見ている。


「な、なんですか?」

「さっきから変だろ。お前」

「……べつに」


 僕は視線をそらし、肘を引いた。

 あっさりと、逢坂先生は放してくれた。背もたれにふんぞり返って頭を掻いている。


「あの、僕、きょうは早く帰らないとなんで、これにて失礼します」


 とは言ったものの、完全には帰り支度は済んでいなくて、いまからカバンにいろいろ押し込んだ。

 今度はその手を掴まれる。

 僕はどきっとして、恐る恐る逢坂先生のほうに顔を向けた。


「それは俺のジッポー」

「え?」


 手を開くと、たしかに、僕には必要のないシルバーのライターがあった。

 頭を下げて、そっと返す。

 どうやら僕は、となりのテリトリーにまで侵入していたようだ。

 逢坂先生の、矢のような視線を後頭部に受けつつ、僕は帰り支度を再開させた。


「ところでさ、今週末どうするよ」

「はい?」

「俺がいつも決めてるから、今回はお前が行きたいとこ決めろ」

「あ、あの。すみませんっ」

「ん?」

「じつは用事ができまして……。週末はちょっと……」


 逢坂先生の視線が細くなって、さらに尖る。

 なんだろう。なにかを探っている感じのする目だ。

 僕は思わず身をのけ反らせた。

 べつに、一回ぐらい断ったって、世界が滅びるわけじゃないんだからいいじゃないか。

 そう負けじと抗議の目線を送った。

 僕たちのことが、本当にウワサになっているなら、一緒に出かけるのはしばらく控えたほうがいい。

 根津先生も、僕たちの仲がどうのこうのと言っていたし、もっと遡れば、中畠先生も、そんなニュアンスのことを口にしていた。


「昼間、敦士に声かけてたんだろ、お前」

「ああー……はい」

「それなのにもう用事か」


 ううっ。

 なんて痛いところをついてくるんだ。

 やはり数学の先生は頭の回転が違う。

 僕が口ごもっていると、逢坂先生の表情がもっと険しくなった。

 乱暴に椅子を立つ。

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